動物園に行きましょう



「そういえば、おれたちつきあってるのにデートしたことないよな、会えば寝てばっかでさ。まぁ、そういえばってだけの話なんだけど、」

ベッドに横たわっているあいつの背筋があまりに美しくて悔しくて、思わず口から溢れた言葉はあいつの機嫌を損なわすのにはじゅうぶんだった。

「いやぁ、ぜっこうのデート日和じゃないか」
「こんな真冬でびゅーびゅー風が吹いてる曇りの日が?」

古賀は行動力がある男だから、背筋がぴくりと動いた瞬間から、明日の予定はぜんぶキャンセルだな、と覚悟はしていたけど、まさか真冬の動物園に連れ出されるなんて思いもしなかったよ!

「男二人で動物園って…」
「デートしたいって言ったのは手嶋だろ?動物園なんて王道じゃないか。なにが不満なんだよ」
(ぜんぶだよ!)

おまえの行動、ぜんぶが不満だよ!
でも、それを口に出せば「じゃあ、もっといいところへ行こうか」と電車に押しこまれて千葉県屈指の夢の国へ連行されてリボンのついたねずみの耳をむりやり装着させられるのが目に見えてる。
それに比べれば真冬の動物園のほうが百倍ましだ。あいつの背筋が動いた瞬間から、この状況を予想しなかったおれがばかだったんだよ。

(べつにおれは二人で外出したかっただけなのに…、)

動物園じゃなくてもいいのに!デートっぽいデートがしたいわけじゃないのに!求めてねぇよ、そんな王道!
不満げに前を歩く古賀を睨むけど、あいつはどこ吹く風だ。そんなの知るか、とステップを踏む。どれから見ようか?と子どものように声を震わせながら。

「熊からにする?きみ、田所さんのこと、すきだろう」
「田所さんみたいな熊なら見る」
「あ、」

ぞう。と古賀は大きな檻を指さした。
土と木の生えた檻の中を闊歩する生きものは、しっとりとなめらかな灰色の肌を空間に漂わせている。綺麗だった。睫毛の奥がやさしそうで…、

「手嶋に似てる」

しみじみ、といった風情で古賀が呟いた。嘘だろ?とおれは古賀を見つめる。
あの高貴な灰色と、おれなんかの、どこが似てるって言うんだよ。

「ほら、おまえの濡れた瞳とそっくりだろ」

携帯の液晶画面を鏡のようにおれの眼前に突き出す。それにはおれの瞳がいっぱいに映されていて、今は乾いているけれど、ああ、古賀はおれの瞳が濡れるのを一番近くで見ているから…。
そう考えると、たしかに、と思えた。おれはほんとうによく泣く。古賀の前だとすぐに泣いてしまう。なぜだか。
それでも、おれをあの生きものと形容するのは、おこがましいと言いたくなるけど。

「おれはなにに似てると思う?」

カシャ、と携帯のカメラ機能でぞうの写真を撮りながら古賀はおれに訊いた。次はおまえの番。というように、自然に。

「おまえは…、」

馬かな。
あらゆる動物を眺めて眺めて、時間が落ちるように経った頃、おれは答えた。

「馬?」

って、あれのこと?と古賀が指さした生きものは走ることをあきらめて柵の奥でしぼんでいた。嘘みたいだなぁ。おまえがまだ若い頃、だれよりも速く走れたなんて。そう言って肩を叩いてやりたくなるような、そんな顔をしていた。

「ええ、おれ、あんなふうじゃないよ」
「そうだな。おまえはまだ現役で走ってる馬、だ、」

な、と口にした瞬間、後悔した。俺は今、ロードバイクに乗っていない。

「おまえって…、」

ばかだね。咄嗟に口を噤んだおれを見つめて、呆れたように古賀が言った。
おれもそう思うよ。心の中でそう返した。大学に入って、ロードを辞めて、もう二年近く経とうとしているのに、いつまでおれは囚われているの?

(ああ、ばかだ。おれはほんとうにばかだ。踏み出す勇気もないくせに、ここは寒くていやだとわがままばかりで)

泣きたくなった。泣いてたまるかと思った。
古賀はそんなおれの腕を掴んでおもむろにベンチに放り投げる。古い木の軋んだ音がした。

「はい、これ」

と、古賀からわたされたのは通帳だった。

「…なに、急に」
「あげる」
「は?」
「五十万」

あれば足りるでしょ、キャノンデール買うの。
隣に腰を下ろしてなんでもないように古賀が言うから、なんでもないことみたいに、なんでもないことのように。

「なんだよぉ、それ…」

泣きたくなった。泣いてたまるかと思った。でも、けっきょく、おれは泣いてしまうのだ。古賀の前だとおれはいつも、ぞうの瞳で泣いてしまう。

「あれ、足りない?」
「キャノンデールあるんだ」
「は、」
「捨ててないんだ。捨てられなかったから」

どうしても、捨てられなかったから、あるんだ。まだ、メンテナンスもなにも、してないけど、二年も放ったらかしだけど、あるんだよ。
とぎれとぎれ、でも、言わなくちゃ。ありがとう、古賀、心配してくれて、ありがとう。

「なぁんだ。そんなことならもっと早く動物園に来ればよかったね?」

あんなに必死に働かないで、おまえと映画を見たり、そういうことをもっとたくさん、すればよかった。

「損しちゃった?」
「少しね。でも、まあ、いいさ。とりあえず、この五十万で旅行にでも行く?」
「旅行よりもいっしょに住みたい」

なんかもう、おまえのこと、すごく大事になっちゃったから。

びゅうと風が吹いて、動物の臭いがした。古賀はぽかんと口を開けて、すぐにくつくつと喉の奥で笑い出した。風に揺れる細い髪も、上下する喉仏も、ぜんぶぜんぶおれのもんだ。

「動物園でっ、プロポーズか、おまえもずいぶんっ、男をあげたね?」
「ばか、おまえには負けるよ」
「おれのどこがいいの。自由に泣かせてくれるところ?」
「いいところなんてないよ。ぜんぶ不満だよ」

すきすぎて、不満ばっかりだ。

古賀の肩に頭を置いて小声でそう呟くと、柵の中の老いた馬が呆れたように鼻を鳴らした。




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映画を借りて帰りました。

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