想いは泉のように
すきだ、と気づけば口から溢れていた。まるで自然に、そう告げることがあたりまえかのように。
「そっか、」
新緑の季節。肌を薄く焼く紫外線、アスファルトの黒が貫く山の中、おれたちは二人、走っていた。
風が肌を撫ぜる。
山の中には二人きり。あの蜘蛛のような先輩はどうしてあんなに速く登れたんだろう。脚は重たくて、景色は進まない。はぁっ。冷たい空気を肺いっぱいに吸いこむ。筋肉を動かす身体の熱を少しでもやわらげるために。少しでも速く進むために。
「空が綺麗だなぁ、青八木」
「緑も、綺麗だ、純太」
「もうすぐ夏がくるな」
インターハイ。こんどこそあの灼熱の舞台へ行く。勝つ。そのためには、スプリンターでも登りに耐性がなくちゃだめだ。純太にばかり、頼ってはいられない、から。
「ペース、落とすか?」
いい。と首をふる。さすがクライマーだ。純太はまだ体力を残している。今日の自主練を純太は、ちょうどペース配分を考えて登る練習がしたいと思ってたんだ、と快諾してくれたけれど、そんなことしなくてもずっとおまえはおれのペース配分を考えてくれていたじゃないか。おまえなら、それが、チームが、一人でも二人でも、六人でも、それほど難しいことじゃないだろう。
(重荷になりたく、ない、)
はぁっ。脚が重い。登りは苦手だ。純太の気遣いも苦手だ。うれしいけど、苦手だ。重荷になりたくない。どころか、おれは純太の重荷を代わりにもってやりたい、とさえ思っている。それなのに、純太はおれを気遣う。いつも。まるでなんでもないことのような顔をして。
そんなところがたまらなくすきで、そんなところがたまらなく苦しかった。
「青八木、もうすぐ山頂だ」
「そうか…」
「そうか、って…、おまえが一番にゴールするんだぞ?」
一番のいちだろ?そう言って笑った純太は、背中に太陽が輝いていた純太は、ほんとうに綺麗で、脚に力を入れていないと見惚れて落車してしまいそうだった。
「…純太、」
「なに?」
「山頂についたら言いたいことがあるんだ」
言ってたまるか、と思っていた。すきだ、なんてそんな、すべてを壊すような言葉、言ってたまるか。そう思っていた。
でも、言わずにはおれない。告げずにはおれない。すきだ。純太。だいすきだ。おれは、おまえにおれのすべてやりたい、とさえ思っている。
「なんだよそれ、とくべつなこと?」
「そうだ」
「とくべつなことなら優勝してから聞きたいな」
どうせなら。
あの初夏の日、純太がそう言ったから、それなら必ず勝たなくてはと。
「青八木、おれ、こんなに幸せなこと、これから、一生ないよ」
おれもだよ。でも、純太、おまえがYESと言ってくれたら、おれはきっと、さっき登った夢の15cmよりもうれしい。
「終わるのは一瞬なんだな」
「……公道だから」
「そうだよなぁ、早く片づけなきゃ…。でも、」
なんだか淋しいよな。おれはまだ余韻に浸っていたいよ。
表彰式のあと、純太はてきぱきと後輩に指示を出していたけれど、瞳はずっと15cmを見ていた。焦がれるように、反芻するように。
それは後輩たちにも伝わったのだろう。手嶋さん、青八木さん、あとはおれたちがやりますから、休んでいてください。と肩を叩かれた。
今、おれたちは二人、群衆から外れた木陰から真夏のアスファルトを見ている。
(恋をしている女の子みたいだ…)
ちらりと15cmを見つめる純太を盗み見る。
潤んだ瞳、赤く染まった頬、きつく結んだ唇、光に透ける黒髪、鎖骨に溜まる汗。
ああ、綺麗だ。純太、綺麗だ、綺麗だよ。
(おれもおまえに一途に射られたい)
すきだ、と気づけば口から溢れていた。まるで自然に、そう告げることがあたりまえかのように。
「そっか、」
純太は一拍、間を開けて、やさしく淋しく微笑んで、できれば、一生、聞きたくなかった。でも、ありがとう。そう言って、それだけ言って消えてしまった。
夏の空に溶けてしまった。
あ、と咄嗟に手を伸ばしたけど、純太の小指にすら触れなかった。
「あー、疲れた!」
嘘…、いや、そんなことあるわけない、人が、純太が、いきなり、消えるなんて、そんな、そんな夢みたいなこと、
あるわけない、と混乱していたら、急に古賀の声が響いた。お願いだ、嘘だと言ってくれ。そう祈りをこめてふり返るけど、あいつは小首を傾げるだけだ。
「なーに、どうしたの。走ってるときより真剣な顔してさ」
「純太は…?」
「純太?」
あいつはあっちで片づけしてるよ。やっぱり後輩に任せっぱなしはだめだろ、って。まじめだよねぇ。こんなときくらい甘えたっていいのにさぁ。
「だれ?それ?」
ああ!白昼夢であってほしかった。白昼夢であってほしかったのに。
古賀はひどい奴だけど、純太ってだれ?なんて、そんな嘘をつく奴じゃない。
「主将は…?」
「はあ?おれだよ、おれ!どうしたの、熱中症にでもなった?しっかりしてよ、おれときみと谷口で、三年間、必死でがんばってきたんじゃないか」
ああ…、ほんとうに純太は消えてしまったんだ。古賀の記憶に純太はいない。谷口の記憶にも小野田にも鳴子にも、今泉の記憶にすらいないんだろう、きっと、いや、ぜったい。
手嶋純太は消えてしまった。夏の空に溶けてしまった。
おれが一言、すきだ、と呪いの言葉を吐いたから、手嶋純太は消えてしまった。
「…ッ!」
たまらなくなって群衆の中をめちゃくちゃに走る。古賀の声が追いかけてきたけれど、かまうもんか。
純太、純太、純太純太純太!
あの初夏の日、純太はおれの告白を遮った。優勝してから聞きたい、なんてうそぶいて。
そして、15cmの上で、純太はおれに釘を刺した。おれ、こんなに幸せなこと、これから、一生ないよ。
一生ないよ。一生ないよ。おまえの告白より今が幸せ、だから、お願いだから、お願いだから、告げないで。
「できれば、一生、聞きたくなかった」
このままずっとおまえといっしょにいたかったよ。……ばかやろう。
(ごめん、純太、ごめん、だけど!)
恨まれたってしかたない。おれが鈍感すぎて、おまえの忠告を無視した結果だから。後悔してもしかたない。おまえが消えるとわかっていても、おれは告げずにはおれなかっただろうから。
「でも、ありがとう」
それでも、純太、おまえはおれに、ありがとうと言ってくれたね。ありがとうと、言ってくれたね?
(なぁ、純太、おれはばかだから、)
それを「今までありがとう」じゃなくて、「すきになってくれてありがとう」って、思ってても、いいかな。
「……純太、」
すきだ、と気づけば口から溢れていた。まるで自然に、そう告げることがあたりまえかのように。
「そっか、」
呆れたような純太の声が、たしかに聞こえた気がしたんだ。