世界一幸せな木



目が覚めたら、足が動かなかった。石のように固まって、一ミリだって動かせなかった。
次に気づいた、足だけじゃない。手も、胴も、指の先まで、一ミリだって動かせなかった。

「……ムッちゃん、」

おれは苗木になっていた。


四十代も半ばになった頃、おれは死んだ。相手の飲酒運転による交通事故で、即死だったそうだ。おれはただ歩いていただけなのに、運が悪いなぁ、と思って、それから、記憶が途切れた。
おれは死んだという自覚がないまま、輪廻を巡って転生し、自覚がなかっただろうか、人間の記憶をもって木になった。
そして、なんの因果だろう。おれは日々人の部屋にいる。

「おはよう、ムッちゃん」

おれは弟がすきだった。愛していた。頭の中でめちゃくちゃに犯される想像をしていた。でも、なにもできなかった。言えなかった。せめて想いを告げられたら、と願っていたけど逃げていた。
弟もおれのことをすきだ、と知っていたけど逃げていた。おそろしかった。新たな関係が始まってしまうのがどうしようもなくおそろしくて、同性同士で兄弟だ、終わりが見えている関係に踏み出す勇気はおれにはなかった。兄弟なら、死ぬまでつづく絆を頼りに生きていけると、それに縋って生きていた。
縋っていたから?想いを告げなかった後悔?おれは想いを胸に秘めたまま、また弟のそばに生まれた。なにもできない一本の木に。


「葉っぱが似てて、ムッちゃんの頭にそっくりだな、って、だから、」

……ヒビト。ヒビト、よくない。受け入れなきゃだめだ。ムッタはいない。死んだんだよ。

そうだ、ローリー、もっと言ってくれ。おれの思い出に縋って生きても、いいことなんかなにもないって。なにかに縋って生きていくと、おれみたいに、なるって。
おれみたいに、おれみたいに、生まれ変わっても、生まれ変わってすら、

「ローリー、ありがとう、ありがとうな、」
「なにがありがとうだよ、ぼくはきみになにもできやしない」

ローリー、おれからも言わせてくれ、ありがとう。おれがいなくなってからずっと、日々人を気にかけてくれていたんだな。心配ばかりかけてごめん。頼ってごめん。
でも、もっと言ってくれ。おれなんかに執着してもいいことなんてなんにもない、って。

(ああ、おれたち兄弟はおまえに迷惑をかけてばかりだ)

ローリーは三日ごとに日々人を訪ねる。日々人がちゃんと食べているか、掃除は、洗濯はしてあるか、…人間として、生きているか。それらをきちんと見届ける。見届ける役を、引き受けてくれた。
ごめんなぁ、こんなおれの代わりみたいな…、でも、ありがとう。おれはもうあいつになにもしてやれないから、おまえがいてくれて、あいつを助けてくれて、

(おれもうれしいよ)

ローリーはっと顔を上げて、おれを見つめた。もしかして…、と小さく呟いたあと、すぐに、ありえない、というふうに頭を左右に振った。
信じてくれなくていい。忘れたっていい。でも、ありがとう。これだけは伝えたかったんだ。

ふしぎだね、ローリー、おまえにはおれの言葉が伝わるのに、日々人にだけは伝わりそうにない。


「ムッちゃん、どうしよう、おれ、まだムッちゃんのこと、すきみたいだ」

毎夜、日々人はおれに愛を囁く。

明かりを消した室内、まるで二人で行った月みたいだ。うれしかった、うれしかったなぁ、日々人、二人の夢が叶ってほんとうに…。でも、たぶんぜったいおれよりも、おまえのほうがうれしかった。
憶えているよ、日々人、おまえは月に降り立った瞬間、月でも地球でも宇宙でもなく、それらに見惚れるおれを見ていた。『月で』『おれが』『隣にいる』。それがおまえにとってどれだけ価値のあるものだったか。
わかっていたよ。知っていたよ。でも、おれはおまえの視線を無視した。だから、今でもおまえを縛りつづけているんだろうね。

おれはひどい奴だ。ひどい奴だった。それなのに、おまえの言葉がこんなにもうれしい。

「愛してるよ、すきだよ、会いたいな、すきって言えばよかった、生きてさえいれば、どこへだって行けるのに、月にも宇宙にも会いに行けるのにね、会いに行けるのにね、」

おれもだよ、おれもだ、おれも、日々人、おまえがすきだ、すき、おれは毎日、おまえのそばにいる、そばにいるのに!

うれしい、それでも、なんて無力なんだ。おれには弟の涙を受けとめる指も、背中を撫でる手のひらもない。ただ立って、立ちつくして、愛の言葉を聞くだけ、おれもすき、たった五文字の言葉すら、発することができない。
なんて無力なんだろう。木になって、はじめてわかる、人間は恵まれている。口も指も手のひらも、全身が想いを表す道具になるのに、おれは、おれは、なにもしなかった。
なんだってできたのに、動かせなかった。指の先、一ミリですら。


「………はぁっ、」

おれの名まえをうわ言のように囁きながら、性器を擦りあげるおまえを水晶体に映す夜がくるとは思わなかった。

焦がれつづけた。日々人、おまえの身体に蹂躙されるのを、内臓を燃やしながら、炭になるまで。ああ、その羨望が目の前で広げられているというのに。なにもできない、なにもできやしない、なんて無力なんだ、ありもしない下半身を疼かせることしかできない。おれはなにをしていたんだろう。臆病に逃げまわってばかりで、手を伸ばせばいつだっておまえに届いたのに。それをおれは知っていたのに。後悔ばかりだ。毎夜毎夜。日々人、日々人、すきだ、すきだすきだすきだ、

「………愛してる、ムッちゃん、愛してるんだよ、」

もうやめてくれ!もうやめてくれ!もうやめてくれ!


後悔したまま、時は過ぎ、植木鉢に入りきらなくなったおれは、庭に植え替えられた。
ほっとした、これで日々人の言葉はなくなる。淋しかった。でも、もう後悔に押し潰されながら、想いを募らせることもないだろう。肥大した恋心をもてあますのは慣れたけれど、弟の涙には、まだ慣れない。

ほっとしたのはつかの間で、おれは弟の視線に晒されつづけた。どうして、部屋の窓から見える場所に植えたりなんかしたんだ。

日々人のおれを見つめる視線は、よく知っている、想いを滲ませた視線を、生前、背中で受けていたからだ。刺さるような、包むような、熱い、冷たい、激しい、やわらかい、視線は、恋をしている人間にしかできない。弟にしかできない。
おれはそれを、今も昔も、受けとめているだけ、たった五文字の言葉すら、発することができないまま。


「ムッちゃん…、」

両腕いっぱいにおれの身体を抱きしめる弟は、しわがれた声で愛を囁く。

「愛してる」

弟は老いた。まっすぐに伸びた背筋は折れ曲がり、力強い腕は痩せて衰えた。声は枯れ、脚は震えて走ることができない。
これがあの南波日々人なのだろうか。日本人初の月面歩行者、南波日々人なのだろうか。今の子どもたちは教科書に載っている若く、美しい日々人しか知らない。その後の日々人の苦しみも知らない。それでいいのだと思う。この老いた日々人はおれのもの、おれだけのものだ。
縛りつづけて…、もう十年、二十年、三十年…、後悔やあきらめや焦燥なんてもうとうに風化してしまった。後に残ったのは想いだけ、愛情だけ…。

こんな姿になってもね、思うんだ。日々人、おまえが結婚しなくてよかった。一人っきりでおれを愛しつづけてくれて、よかったってね。


家の中が慌ただしい。朝から数えきれないくらいの人が出たり入ったりしている。昔の同僚たちによく似ている。老いたからはっきりとわからないのか、それとも、子どもか、…孫か。
なにがおこったんだろう。薄々、わかってはいた。でも、気づきたくなかった。認めたくなかった。

「ムッタ、ヒビトが死んだよ」

知りたくなんてなかった。

ローリー!ああ、ローリー、おまえも老いた。ずっと、ずっと、日々人を見捨てないでくれてありがとう、気にかけてくれてありがとう、日々人の生涯を、見届けてくれてありがとう。おまえには感謝しかないよ。
でも、その事実は知りたくなかったかな。

(終わったんだ、もう、おれたちの長い恋は……)

このまま枯れよう。枯れて、散って、折れてしまおう。そうだ、それがいい。さようなら、ローリー、さようなら、日々人。

「ヒビトはきみの下に埋められたいそうだよ」

え、と命の管を切る手を止める。どういうこと?葉を揺らして訊く。なぁ、ローリー、それってどういう…。

「ヒビトはずっと言ってたんだ。ムッタと一つになりたいって。きみの養分になりたいって。ぼくはね、その願いを叶えてやりたかった、だれがなんと言おうと、叶えてやりたかったんだ。だから、」

ローリーは瞳を潤ませて、息を飲んだ。涙をこらえるときの癖だ。こんなに老いても、昔となんら変わらない。おれと日々人が変わらなかったように。

「ぼくは、ぼくはきみたちになにかできたのかな?」

昔、自嘲のように呟いていた言葉を思い出す。そんなことないよ。おまえにはほんとうに迷惑ばかりかけた、ああ、おれたち兄弟はおまえに迷惑をかけてばかりだ。

(うん、うん、ありがとう、ありがとう、ローリー、ありがとう)

長い恋だったね。と、幹を撫でる手を握ることができなくて、おれは久しぶりに後悔した。風化したと、思っていたのに。


「日々人が体内に入った瞬間を、おれはぜったいに忘れない」

膝に日々人が横たわったとき、そして、日々人に土がかけられたとき、ほんとうに悲しかった。冷たい。もうおまえは生きてはいないんだね。みんなもそれがわかっているんだね。
でもね、うれしい。だって、一番近いんだ。おまえとおれはこれから溶けて、一つになるんだ。今までできなかったことを土の中でたくさんしよう、たくさん、たくさん。

「ムッちゃん、愛してるよ、すきだ。ムッちゃんは?」
「おれもすき」

これがおまえの味か、と思った。脳に刻んで忘れてたまるか、と思った。おまえの想いといっしょにいつまでも憶えてやる。


「古くて立派な木ですけど、もうだめですね。中が腐って」
「そうか…、きみ、知っているかい?この木の下にはね、死体が埋められているんだよ」
「死体っ?」
「ああ、南波日々人宇宙飛行士、わかる?」
「えーっと、日本人初の月面歩行者、でしたっけ」
「そうそう、ぼくのひい、いや、ひいひいじいちゃんだったかな、がその人と懇意にしていてね、遺言に従ってここに埋めて、その後の維持も請け負ったんだよ」
「はぁ、」
「でも、そうか、もうだめか…」
「はい。いつ倒れてくるかわかりません」
「この木は死んでいるのかね?」
「さぁ…、生きていても虫の息でしょうね」


日々人、おれももうすぐそっちへ行くよ。ずいぶん長いことまたせちゃったなぁ。でも、そっちはいいところだろ?綺麗でさ、身体も軽くて、うまいものがたくさんあって…。えっ、おれがいないと退屈?ははっ、おまえ、子どものときと同じこと言ってるぞ。まったく、成長のない奴め…。わかったよ、急かすなって、すぐ行く!すぐ行くから!

そっちで会ったら抱きしめて、おまえの味を教えてやるよ。

それから、また兄弟に生まれよう。…わかったんだ。やっぱりおまえは弟で、おれは兄なんだって。兄弟だから、こんなに長く、木になっても、おまえをすきでいられたんだって。

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