一杯



「閉じこめてみてよ」

瞳を見据えて、ぎゅう、と男の腕に縋った。でも、手足に枷をつけて、犬のように扱って、とはとても口には出せなかった。男にそのような性的嗜好がないことをおれはいやというほどわかっていたからだ。
それでも、せめて、これだけは叶えて、と男の腕に縋った。男の腕に跡がつくくらいに、強く。
おれは見苦しいだろうか?でも、そんなこと、かまいやしない。この部屋にはおれと男しか息をしているものはない。だれもおれの懇願を見てはいないのだから。だから、

「いいのかよ」
「なにが?」
「大学…、」
「大丈夫。まだ四日だよ?監禁ははじまったばかりじゃないか」

男は苦い顔をした。どうしたらいいのかわからないんだろう。扉が開いているというのに、下着も穿かず、シャツだけを羽織って、四日も家に閉じこもっている、年上の男の恋人を、もてあましている。
むりもない。この男にそのような性的嗜好はないのだ。それでも、おれを捨てようとしない、男のやさしさと言うものにつけこんでおれは生きている。
ねぇ、これは、ごっこだよ、おままごとだ、あなた、おかえりなさい、って、ね、真剣に考えてなくたっていいんだ。
甘い声で甘い言葉の蜜をかけていく。ぜんぜん、悪いことじゃないんだ。だから、おまえはおれを閉じこめていい。
いいんだ。

(おまえはやさしいから、おれを受けていれてくれる。でも…、)

でも。
男はおれになにもしなかった。閉じこめて。おれの願望を最低限、叶えてはくれたけれど、それ以上はなにもしなかった。性器に乱暴に手をかけてもくれなかった。
おれはそれがうれしくもあり、また、腹だたしくもあった。

「おかえり、ごはんできてるよ。いっしょに食べよう」

外に出られないから、冷蔵庫の中のもの、使っちゃってごめんね。
伏し目がちにそう言うと、男はつらそうに口の端を歪めた。へんなの。おまえが朝、言ってたんだよ、チャーハン食べたい、って独り言みたいに。
魔法みたいでしょう?喜んで。独り言が目を開ければ現実になっているんだよ?喜んで。喜んでよ。喜んでくれないの?どうして?
知ってるよ。むりもない。この男にそのような性的嗜好はないのだ。

「もう、こんなことはしなくていいから、」

だから、こんなことが言えるのだ。なんて冷たい男だろう。おれはおまえに尽くして、尽くし尽くしてやりたいだけだというのに。

「うん。これからはちゃんと訊くね。明日の朝はなにが食べたい?」

台所を磨くのはだめ?おふろ場の垢を落とすのも?フローリングにワックスをかけるのも、カーテンを洗うのもだめなの?
じゃあ、おれはなにをしていればいいの。

「なにもしなくていい、いやになったら出て行ってくれても…、」

ああ、ばかだなぁ、おれがおまえをいやになんかなるわけないのに。
それより、むしろ、おれがいやになったのは、

「……ね、チャーハン、おいしい?」
「ああ、うまいよ、」

おまえのほうじゃないのか。

(それなのに、おれを突き放しはしないんだね)

おまえのやさしさにつけこんでおれは生きてる。男のやさしさは上等の餌だ。頬が溶けてしまいそう、屑には甘すぎる。
それでも、さぁ、甘いばっかりじゃつまんないでしょ?飽きちゃわない?おれに飽きてしまわない?

おれはね、それがこわいの。

こわくて…、でも、その恐怖を超える欲望が内臓を焼くのだ。
どうしようもなく、理性で止めることもできず、男の腕に必死に縋るほどに、じりじりと焼くのだ。
見苦しい。でも、そんなじぶんがたまらなく心地よかった。

そんなおれを観察しながら、扉の隙間からもう一人のおれが罵倒する。汚らしい山羊め!

「いってきます」
「いってらっしゃい。ねぇ、今日はなにが食べたい?おれはなにを作っておまえの帰りをまっていればいい?」
「……カレー」
「うん、わかった、カレーだね。大丈夫、外に行かなくても、家にあるものでちゃんと作れるよ」

男はおれの頭を撫でて、ありがとう、と言ってくれた。楽しみだ、早く帰ってくるな、とも。
玄関から出て、二、三歩、歩いたあと、男が頭を抱えたのをおれはしっかり見つめていた。むりもない。この男にそのような性的嗜好はないのだ。今日で五日だ、精神的にもそうとうまいっているんだろう。
それでも、男はおれを捨てない。

(おまえはやさしいね、やさしすぎるくらいに。でも、でも、おれは…、)

おまえにならなにをされてもいいんだ。おまえはおれになにをしてもいいんだ。

そう思っている。強く、強くだ。おれは、おまえにならどんなにひどいことをされてもいい。おまえはおれにどんな命令をしてもいい。おれの身体を性欲処理に使ってくれてもかまわない。おれはおまえという人間に尽くしたい。全身全霊をかけて、だ。

でも。

おまえはやさしい。いやになるくらいに。大切にされるのはうれしいけれど、腹だたしい。だって、おまえはおれの身体に小さな赤い痕すらつけてくれやしない!
おれはもう、おまえのものだよ、すきにして。なにをしたっていい。おれの身体と精神をめちゃくちゃにして、おまえの色に染めて、お願い、どうか、やさしくしないで…。

(むだだ。この男にそのような性的嗜好はないのだ)

だから、最低限、閉じこめて。それなら最低限、叶えてくれそうだったから、そこからじわじわ侵食していけると思ったんだけどなぁ。
あれもだめこれもだめそれもしなくていい。ねぇ、いやになった?おれは重い?そうだろうね。でも、おまえは捨てない、突き放さない、やさしいね、やさしすぎくらい。
ねぇ、知ってた?だから、おれみたいな、やさしさにつけこむ奴に惚れられちゃうんだよ?
ばかだなぁ、でも、おまえのそのばかところが身体がよじれるくらい、すきなの。

「ごめんね、カップ、割っちゃった」

閉じこめて初日、おれはおまえにあやまったね。おまえが母親から与えられた陶磁器のカップを割ってごめんと。
嘘だよ。群青で彩られた、あのカップはまだ生きてる。
でも、今、器を満たしている液体はね…、

「…ッ、」

紅茶一杯ぶん、おまえを想うおれの愛を溜めることができたら。

(おまじない、あのカップを選んだのは群青に白がよく映えると思ったから、それだけ、)

おれはあまり強くないから、一回の量は小さじ一杯ほどしかない。それでも、初夜、白い飛沫が群青に散った瞬間、おれはたしかに内臓の焼ける音を聴いた。うれしかったのだ。欲望がすみずみまで満たされる予感がしたから。
予感がした。でも、それは儚い霧だった。男はおれの心と身体をもてあまし、おれは欲と時間をもてあました。

(おまえのそのやさしさがおれは…、)

群青に粘ついた液体を張りつけるようにカップを回す。そして、一杯。にも満たない白から透明に変化した液体を見つめ、思う。

おれは男に心と身体を弄ばれたい。男はひたすらおれにやさしい。精子は死んでゆく。すえた臭いがする。おれの愛も同じように腐っていくのだろうか。いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだ、こわい!でも、その恐怖を超える欲望が内臓を焼くのだ。おまえはおれを引き裂いたっていいんだ。引き裂かれたいんだ。おれはプライドなんてなくなったっていいんだ。おまえがおれとの関係をなかったことにしないなら。

……汚らしい山羊め!

おれは縋った。閉じこめて。おまえのすきなようにおれの心と身体を弄んでよ。
でも、その言葉の裏でおれは頭を垂れて懇願していた。捨てないで、お願いだから、いつまでもそばにいて、捨てないで、おまえのすきなようにおれの心と身体を弄んでいいから。
弄んでいいから、弄ばれたい、捨てないで、お願い、やさしくして、やさしくしないで…。
矛盾している。なんてうっとおしい感情の渦なんだろう。男もきっとおれに愛想をつかすにちがいない。むりもない。この男にそのような性的嗜好はないのだ。
そうだ、知っている。それでも、おれは男に縋った。閉じこめてみてよ。

なぜ?それは、やさしさにつけこんで男の愛情を量りたかったからだ!

知っている、知っていて、男の愛情を量っている。五日経っても、男はおれを捨てようとしない。ばかだ、ほんとうにばかだ。でも、ありがとう、だいすき。

「おれは知りたいだけなんだよ、おまえのやさしさの底を、」

カレーに睡眠薬を混ぜて男の身体を仮死にする。裸に剥いて、清潔な布で全身、脇、足の指の間まで、綺麗に拭いていく。筋肉の感触も、ゆるやかな体温も、規則的な寝息も、男のすべてが愛おしくてたまらなかった。この愛おしいものたちに叩き潰されたい。でも、男は叩き潰してくれない。やさしいね、どこまでそのやさしさで耐えることができるかな。
やさしくキスをする。甘い唇、長い睫毛、輝く頬、剣のように美しい。おれは山羊だ。

(汚い…、)

男がおれを叩き潰さない代わりに、衝動的に男の顔に群青の中身を叩きつけた。腐った液体が男の肌に飛び散る。これだ。おれは男にこのように扱われたかった、男の飛沫を顔に浴びせられたかった。

おれがおまえにしたかったわけじゃないのに。

悲しい。きっと男はおれのこの行為すら苦しみながらやさしくゆるしてくれるだろう。底はまだ見えない。おれが望めば望むほど、おまえは手を繋いで堕ちてくれるんだろう。
おれはそれが悲しい。重くて汚いおれに人生を殺されてしまうおまえが。

男の性器に泣きながら舌を這わせる。瞳に水分を吸いとられて口内が渇いたので、群青の残滓を舐めるように啜った。ああ、不味い。おれの愛で男の腹が下るといい。

捨てないで、もういいよ、捨てちゃって、弄んで、悲しい、やさしいね、うれしい、うれしいよ、でも、悲しいね…、

男の性器が弾けた。舌で残さず受けとめて、口内で腐った精子と受精させる。なにも生まれない。おれたちの関係のようだ。

それでも、なにかが生まれると信じている。

監禁ごっこは六日で終わった。男はあの鬱屈とした日々を頭の中から消したらしく、いつもどおりにおれにやさしい。おれはうれしくてたまらない、やさしさこそが愛だという顔をして男を見つめる。

「零次くん、ありがとう」

しかし、おれは憶えている。おれの心の奥、扉を開けると、矛盾した感情の渦の中で、汚い山羊が微笑しながら手招きをしているのだ。

今でも、舌の上には受精の味が横たわっている。

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