あなたの味がする



「若くて才能のある男なんてね、それに惹かれた亡者に食べられてしまうものだよ」

きみの自慢の弟も、今のきみと同じ、ぼくのような人間に血を啜られているよ、きっとね。

ふしぎと腹はたたなかった。そのとおりだ、と思ったから。心の底からそう思ったから。
でも…、

「おれには才能なんてありませんよ」

はじめはなんだったんだろう。あの人がおれを貪りたいと思ったきっかけはなんだったんだろう。
今となっては、訊くすべもないけれど。

とても優秀な人だった。上司の信頼も部下からの親愛も厚くて、けれど、それには驕らず、いつでも真摯で謙虚でやさしく佇んでいるような人だった。そこにいるだけで安心できるような人だった。

海を漂う白い鯨のような人だった。

まさかそんな人がおれを犯していたなんてだれが想像しただろう。

「ぼくはきみが憎いよ。でも、それと同じくらいきみが羨ましいし、憧れている。きみは若くて才能があって、そして…、」

そう言いながらおれの顎を撫でる強姦魔はとてもやさしい瞳をしていて、まるで天使のようだった。
でも、おそろしい。この天使はおれを殺す力をもっている。その逞しい腕はおれに乱暴するためのものじゃない。おれの首を絞めるものなんだ。
そんな気がしていた。いつも、この人と会うときは、抱かれるときは、いつも。

「退職した?」

そんなある日のことだった。あの人がおれの前から姿を消したのは。

「えっ…、なんで?」
「わかりません。みんな、大騒ぎですよ。理由も…、南波さんなら辞めた理由もわかるんじゃないかと…、思ったんですけど、」

あの人らしい。立つ鳥跡を濁さず。仕事も繋がりもすべて綺麗に黙って消して、行ってしまった。
だれにも、おれにも、なにも言わずに、行ってしまった。

(そして…、の先はなんだったんだろう)

今となっては、訊くすべもないけれど。

「………男とキスをするのははじめてじゃない?」

はじめてベッドに縫われた夜。どうしてだろう、男に犯されているというのに、嫌悪感なんて微塵もなかった。それは相手が尊敬する上司だったからなのか、それとも、相手が白鯨だったからなのか。
そうだ、キスだって、まるで、それが自然なことみたいに。

「はじめてですよ」
「そう?それにしてはまったくいやそうじゃないね。きみ、才能あるんじゃない?」

そう微笑みながら、濡らした中指で穴を侵す。異物感で気分が悪かったけれど、それはすんなり身体に馴染んだ。
あの人はさすがに目を開いて驚いていたけれど、すぐにいつもの微笑に戻った。あの人にしてみれば、予定が少し早まっただけだったんだろう。

「やっぱり、才能あるよ、きみ…、」

翌日、あの人を避けないくらいにはその行為は、よかった。気まぐれな夜の誘いに常に頷くようになるくらいには。

「きみには才能がある」

あの人は昼でも夜でも、よくそう言った。口癖のように、何回も何回も。
大きな賞をいくつもとっている、優秀な上司にそれを言われるほど、おれは成績も業績も残していないし、なぜだろうといつもふしぎだった。そんなことはないと思った。だから、いつも否定の言葉を口にした。
おれには才能なんてありませんよ。

(なんだって退職なんてしたんですか…)

あの人の吸っていた煙草の煙があまりに苦くて、泣いてしまった。けっして、郷愁なんかじゃない。郷愁なんかじゃないけれど、あの人の名残りを少しでも味わいたかった。なにもかも消して消えたあの人を、少しでも少しだけでも。
それすらゆるされなかったら、おれの身体と心があまりにかわいそうじゃないか。

「よかったよ、やっぱり、きみには才能がある」

事後、この苦い煙を顔に吹きかけられることが、屈辱的だったけれど、たしかにおれはいやではなかった。

いやではなかったのだ。

「えー、みなさん、お疲れさまです、乾杯!」

あの屋上の煙から数年、あの人と同じ賞状が今、おれの手の中にある。ふしぎだ。あの白い鯨が消えてから、なにも進んでいない気がするのに、いつのまにか並んでいるなんて。
ふしぎだと思った。でも、今は高揚感で満たされていて、仲間と飲んだ酒が喉に沁みるほどおいしかった。
高揚していたからだろうか、それとも、酒で脳が冴えていたからだろうか。家に帰り、表彰された息子の、はじめの設計図とも言えないメモを机の上の層から発掘したとき、なつかしさに目を細めたとき、気づいた。白鯨の小さな文字を。

「きみには才能がある」

口癖を。やさしく口ずさんでいた。歌うように、しかし、震えて、なにかを覚悟したように。
そんな文字だった。そんな文字だった。その文字を見たとき、すべてを悟った。そして…、の先を。おれはなんてひどいことをあの人にしていたんだろう。

「きみには才能がある。ぼくより、ぼくなんかより、ずっとずっと優れている。それなのに、どうしてそんなに自信がないんだ。きみが、才能なんてない、と言うたびに、ぼくは、ぼくは…、」

才能なんてない、才能なんてない、今でもそう思ってる、おれには才能なんてない。でも、あの人はそうは思わなかった。おれに才能があると信じていた。信用して、羨んで、それなのに、憎くて、だから、せめて一時の優越のために、おれの身体を支配しようと、でも、おれには才能なんてありませんよ。
言わなきゃよかった。でも、しかたないじゃないか。そう思ってるんだから。今でも。

「きみには才能がある」

あの人はこのメモを見たとき、なにもかも無駄だと思ったはずだ。身体を支配しても無意味だったと、きっと思った。なんだ、やっぱりきみには才能があるじゃないか。ぼくの思ったとおり、越えられない才能が…。
それなのに、おれは、才能なんてありませんよ、と何回も、聞かされるのは耐えられなかった。だから、消えた。おれが消したんだ。
おれが。

「そして…、残酷だ」

無自覚というものは、どうしてこうも、他人を傷つけるのだろうね?
白い鯨は煙に疑問を含ませて、おれの顔に吹きかけていたんだ。
どうしてこうも、おれはきみに傷つけられるのだろうね?

「そんなこと、そんなこと、言われても、」

枕を交わした情だけではなく、おれはあの人がすきだった。尊敬、していた。もっとずっといっしょに仕事がしたかった。
でも、そうか、おれが傷つけたのか、おれが消したのか、おれが殺したのか。
それなのに、名残りを惜しんで、心と身体を癒そうだなんて、なんて浅ましい!

「先輩…、」

ごめんなさい。屋上で、泣きながら味わった煙は、たしかに、あなたの味がしました。その味をいつまでも噛みしめて、生きていました。あなたが消えて、今までずっと。なんで消えたりなんかしたんです、と恨み言を言いながら、あなたの口内と同じ、苦味を味わっていました。
ごめんなさい。それは今日で終わります。無自覚にあなたを傷つけているとわかったから。
そうです、あなたの思ったとおり、やっぱり、おれには才能が、

「ムッちゃん」

……才能が、才能が、才能なんて、ない、ない、おれには才能なんてない、あるわけがない、だって、だって、才能があるのは、ほんとうに才能があるのは、

「日々人、」

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