綺麗だ



土曜の昼のことだった。

よく憶えている。あのとき、大学生だったおれはピザ屋のアルバイトをしていて、あの日、はじめて配達した、古いレンガ造りのアパートであいつに会った。会ってしまった。会わなければよかった。

恋なんてしなければよかった。


「…ッ、あんた、大丈夫か!」

一拍、音が遅れて聞こえるチャイムの音に誘われて、扉を開けた男は血まみれだった。顔から爪先まで赤黒い血に濡れながら、男は、こんにちは、と口を動かした、ような気がする。よくわからない。そのとき、おれはもう叫んでいたから。血まみれの男がいたら、心配して声をかけるだろう?悲鳴をあげるだろう?でも、男はそれがとても、不可思議だった、と、数ヶ月後に呟いた。やっぱりきみは、ぼくとちがうんだね。

「あっ、ああ、悪い。これ、絵の具なんだ。ぼく、絵、描いてて、」

おどろかせてごめんね。ありがとう。
そう恥ずかしそうに頬を赤らめる男に安心して、いえ、よかった、…2600円です、と言った瞬間、風が吹いた。運が悪かった。目深にかぶっていた帽子が飛んで、顔が晒されてしまったから。もし、あのとき、おれの顔が晒されなかったなら、とそんな考えてもしかたがないもしもをおれは、おれは、おれは、

「………きみ、綺麗な顔、してるね、」

おれは、

「描かせてよ」

風に吹かれた冷たい頬に触れられた、小さな午後。
つるりとした、子どものような指先のあたたかさをおれは信じてしまった。頬についた赤は血ではないと、生きていると、同じ生きものだと、恋に落ちたと。



いい気分だった。きみはほんとうに美しいね、とうっとりとした瞳で甘やかされるのは。
たとえ、あんたが甘やかしているのがおれじゃなかったとしても、おれは気もちがよかったよ。はじめて味わう快感だったよ。

だから、離れるのが遅くなっちゃったのかな。

あの日、おれの顔をうっとりと眺めながら、シャツの裾を固く握りしめて離そうとしないあんたがすごく、困った。まだバイトの途中だから、と断るおれに、お願いだから、と縋るあんたがすごく。後生だから、と頭を下げるあんたがすごく。
それなら、とおれが出した条件にあんたはすぐに頷いたね。それなら、明日、朝、10時に。それなら、1日、ずっと暇だから、って。
ありがとう、ってあんたはうれしそうに笑ったね。それで、さらに信じてしまったじゃないか。

「脱いで」

爽やかな朝に似つかわしくない秘密の部屋に引きずりこまれた。油の独特の匂いに鼻孔が刺激される。鯨みたいに大きくて真っ白なキャンバスも、宝石のような色とりどりの絵の具たちも、こちらを見つめるたくさんの石膏像も、おれの生活に存在しない、新鮮で珍しいものだった。それらの雰囲気に圧倒された。それらに主のようにふるまう血まみれだった男にも。

「…えっ、」
「ヌードだよ。ぼくは画家で、きみはモデルだもの」
「昨日は、顔が、綺麗だって…、」
「知らないの?きみはね、」

あそこにいる、たくさんの男たちよりも、ずっとずっと、綺麗だ。
男がそう言って、木炭の切っ先で指す石膏像の身体は、男のおれから見てもあまりにも健康的で魅力的で、くらくらした。おれが、あれより綺麗、美しい、ほんとうに?
腹の底から、じわじわと甘い泉が湧き出でて、それに溺れたいと思った。雰囲気と欲に飲まれて、ふらふらとシャツを脱ぎ捨てる。もっと、もっと、

「……やっぱり、身体も綺麗だね」

腹を撫でる子どもの指に祈る。もっと言ってくれ。もっと、もっとだ。



あんたはまるで詩人のようにおれの顔と身体の美しさを讃えたね。おれはあんたの瞳に晒されている時間がたまらなくすきだった。興奮した。古いレンガ造りのアパートの小さな部屋は、たしかにおれたち二人の楽園だった。そう信じていた。これは恋だと。
でも、あんたはおれにけっして身体をゆるしてくれなかったね。

今から思えば、それは自然なことだった。だって、あんたはおれのことなんてこれっぽっちも愛していなかったんだから。
でも、愛していなかったのなら、どうしてぼくがピザばかり食べるかわかる?なんて、思わせぶりな言葉を言わないでほしかった。ましてや、きみに会いたいからだよ、なんて。



「おれは…?」

完成した絵は夜空のように青かった。あの日の赤はどこにもなくて、ただただ青くて、絵の中におれはいなかった。ただただ知らない男が幸せそうに微笑んでいた。

「おれは、どこにいるんだよ…?」

恐れていた現実がシャワーのように降ってきた。ほんとうは、この男は、おれのことなんてこれっぽっちも愛していないんじゃないか。これっぽっちも、小指の先さえも。

「きみなら深く愛せるかな、と思った。弟と同じくらい、きみが美しかったから、」

きみと猫のようにじゃれていたとき、あきらめかけていた、楽しい架空の日々に届きそうな気がした。

あの、風に吹かれた小さな午後のように、男はおれの頬を触れる。つるりとした、子どものような指先のあたたかさがあの日と同じで、泣きそうになる。
ああ、はじめから、おれだけがすきだったのか。

「弟は頭のいかれた女に刺されて死んだよ。それをおれは見た。赤かったよ。むせかえそうな血の匂いがした。きみに会えて、はじめて弟のすきな青に染めることができた、ありがとう」

ありがとう。弟が、これで、世界で一番綺麗に戻った…。
そう言って、あんたは静かに泣いたね。まるで、おれがなにも感じていないみたいに。まるで悲しいのはじぶん一人みたいに。

恋なんかじゃなかったんだ。



おれは衝動的に男の顔に赤い絵の具をぶちまけていた。宝石箱の一番奥に埋めていた、あの日の赤を。男の顔に、血の赤を。憎しみをこめて、べったりと塗りつけた。

「すきだよ…、」

でも、血に慣れて、なんでもないように佇んでいる男があの日と同じで、泣きそうになる。頬についた赤は血ではないと、生きていると、同じ生きものだと、恋に落ちたと。たしかに恋だったのだと、信じたくなってしまう。絵の中の男が、それは幻だよ、と微笑んでいるとしても。

抱きしめて、泣きながら口づける。たしかに恋だった。たとえ幻だったとしても。あんたがおれのことをこれっぽっちも愛してなくても。たしかに恋だった。

「殺して…、」

ほんとうは殺してほしい。壊れながら、弟を追いかけていても、知ってた。世界で一番綺麗な弟はもういない。きみじゃ代わりにならない。ぼくがほんとうに描きたいのは…、ぼくが愛した弟はもう…、死んで、なにもない。いないんだ、もう、

男の細い身体を抱きしめながら思う。知ってる。わかってる。あんたはずっと、おれに殺してほしかったんだね。でも、おれは殺せないよ。あんたがすきだから。あんたをこのまま痛々しくいつまでも憶えていたいから。だから、だから、

やっぱりきみは、ぼくとちがうんだね。ぼくは血だらけの男がいたら、羨ましくて泣いちゃうな…。

「さよなら、ぼくのかわいい…、」

風に吹かれた冷たい頬に触れられた、小さな午後。

さようなら、たしかに恋だった。

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