「くちびるカサカサだー」
「くちびるが荒れて痛いなー」
「痛いなー、痛いなー」
とあまりに横に座る南波がうるさいので、
「リップクリームでも塗ればいいだろ。あー、あそこの引き出しの、三番目の奥、」
たしかそこだったはず。と文庫本から目を離さずに指示する。南波は不満そうに身体を揺らしてから、
「そういうことじゃなくて…、」
と呟いた。
「じゃあ、どういうことなんだよ」
「だから、」
「だから?」
「だからぁ…、」
「だから、なんだよ」
なんだよ。と文庫本から目を離さずに訊く。あと数行で事件の真犯人がわかりそ、
「もういい!」
南波はそう叫ぶと文庫本をひったくって、
「真犯人はマリーだって!新田のばか!」
と捨て台詞を残して部屋に消えていった。
「……あー、」
おれは、ここ数日の楽しみのクライマックスを手の中で迎えられなかったことよりも、恋人の誘いを焦らしていた罪悪感のほうが大きかったことに、ため息をついた。甘やかしてるなぁ、すきなんだなぁ、と。楽しみを奪われても、すきなんだなぁ、おれもばかになったなぁ。
「南波、」
南波の部屋に入って、シーツに包まっている南波に顔を近づける。
「ごめんって、」
「もういいから…、」
「くちびる、」
荒れてんな、と南波の瑞々しい粘膜をなぞる。
「……うん、」
嘘だ。荒れてなんかいない。南波は嘘がへただ。まわりくどくて、遠くて、へただ。でも、わかる。たぶん、そんな嘘を見抜けてしまうぐらいには、南波のことを見ていたんだろう。
(キスしてほしいなら、そう言えばいいのに)
そして、たぶん、そんな南波をかわいいと思ってしまうぐらいには、南波に惚れているんだろう。
(ばかみたいだ)
−−−−−−−−−−−
「南波が慕ってる人はすぐわかるな」
二人で並んでぼぅっとテレビを眺めていたとき、ふいにそう言われた。
「ん?テレビ、飽きた?」
「飽きた」
「おれって、そんなに顔に出てるかな」
「顔もだけど、態度とか、あと、雰囲気もちがう」
あー、そんなにわかりやすいのは元・サラリーマンとして耳が痛いなぁ。
とサラリーマンの記憶が浮かぶ。じゃあ、あの妙に馴れ馴れしい後輩も、おれが苦手に思ってたこと、知ってたのかな。
「南波は、雰囲気、雰囲気が一番ちがう。全身で、すきです!って、言ってる」
「あっ、そう?恥ずかしいな、ビンスさんとか?」
「ビンスさんもだけど、おれも」
ん?と首を捻る。おれも?
「おれも?」
「ああ、南波、おまえがおれのことすきだって、すぐにわかったよ」
おまえ、わかりやすいよな。
口角を上げて、ニヤリと笑う新田が憎い。
ああ、もう、おれって、なんでこんないじわるな男がいいんだろ。なんでこんないじわるな顔に、ときめいちゃうんだろうなぁ。
−−−−−−−−−−−
三十路にもなって中学生みたいに初々しく唇を合わせることが、こんなに照れるなんて知らなかったね。
「新田くん、キスをしましょう」
お話があります。と仰々しく恋人に言われたら、なにか重大な話を(たとえば、別れ話などを)されると、思うだろう。心臓が潰されそうなくらい、心配になるだろう。
それがだ。
「キスぅ?」
「そ、そうだよ」
なんだ、キスか、たかが、そうか、そうか、……そうか。
「じゃあ、うん、」
「や、どこ行くんだよ」
こいつ、ばかだろ、キスしたいって、改めてそんな恥ずかしいこと!
「す、すればいいだろ、おれが寝てるときとか…、」
しどろもどろ、おれはとにかくこの恥ずかしい空間から逃げたくて必死だった。
「やだよ!もうあんな虚しいこと!」
でも、さらに、爆弾を投下しやがったので、あいつは、あいつは…!
「もう…?」
そう問うとハッと口を抑える。もう遅い。寝こみを襲われていたわけだ、おれは。
「おまえ、それなら直接、言え、ば…、」
そうか。そうか、だからか。だから、南波は今、そうか。
「キスしたい、新田とキスがしたいんだよぅ」
おきて動く新田とキスがしたいよ、とすべてを知られた羞恥で瞳を潤わせながら、おれに懇願する。
新田くん、おれとキスをしてください。
…どうしよう。弱々しくて情けなくて、すごくかわいい。
「わ、かった。しよう、南波、」
キスぐらいいくらでもしてやりたい。それで、こいつが喜ぶならいくらでもだ。
「立って」
「はい」
「…目、瞑って」
「はい」
ぎゅううと瞼を閉じる南波がかわいい。期待して真っ赤になってる、頬に噛みついてやりたい。
「いくぞ」
「お願いします」
ああ、でも、やっぱり唇かな。おいしそうだ。薄くてピンクで震えて…、
(どうしよう、)
これは恥ずかしい!
まじまじと唇を観察するなんていつ以来だろう。高校生?中学生?きちんと宣言をしてキスをするのは?目を瞑らせて、じぶんからキスをしたのはいつだったっけ?
(だめだだめだだめだとてもじゃないけどできない)
こんな恥ずかしいこと、こんな年齢で!
ごめん、南波、またこんど、と口を開こうとしたときだった。
「は、早くして…ッ、」
恥ずかしくて死んじゃうッ!と南波が小さく叫んだのは。
ここでしなきゃ男じゃないぞ、と思った。
喉の奥にある勇気の塊をゆっくり心臓に降ろしていく。心臓で燃えた勇気が血になって指先にまわる。力がこもる。目を瞑って、衝動的に南波の唇に唇を重ねた。
(ああ、中学生ではじめてキスをしたときと同じだ)
そう思った。唇を離す。顔を見ていられなくて、顔を見られたくなくて、抱きしめた。不器用に、身体と身体に一枚隔たりがあるように。全身でなんて、できなかった。心臓がうるさい。南波も同じだといい。おれと同じ気もちだといい。
「……新田、」
服の裾を掴む力に肩が震えた。叱責をされるのでは、そんな不安が頭をよぎる。
「おれね、改めてキスするのがこんなに恥ずかしいなんて考えてなかった。でも、してよかった。…よかった、」
おれ、今、すごく、幸せ。
「おれたち、初恋したての中学生みたいだね」
そう言って、南波が笑ったから、そうだな、とおれは背筋を撫でた。
ねぇ、三十路にもなって中学生みたいに初々しく唇を合わせることが、こんなに照れるなんて知らなかったね?
−−−−−−−−−−−
「新田くぅん、」
「なんだよ」
「アイスとってきてぇ、」
「いやだ」
そんなこと言うなよぅ、とこたつの中で足を蹴ってくる南波がうっとおしい。南波はなにかを頼むとき、甘えた声を出す。べたべたとまとわりつくような声音が、瞼の重い今はうるさくてたまらない。
「ねぇってば、」
「いやだって…、」
はーやーくー。
いやだと言っても南波は蹴るのをやめない。眠い。こたつの中は暖かい。眠い。南波は蹴るのをやめない。
「…ッ、るさいんだよ!」
南波を少し、牽制のために、強めに蹴った。
「あっ、」
ら、南波の口から嬌声があがった。
「あ?」
「ちょ、にっ、足どけ、ん、」
「なん、」
「あたってる…、」
おやゆび…。
南波の泣きそうな声が響く。
「聞こえねぇな…、」
でも、おれはさらに強く蹴ってやった。眠気はとんで、口の端がゆるむような楽しさが生まれてくる。
「やめろ、って、ばッ、」
南波も足をばたつかせて抵抗をしてくるけど、素直にやめてやるつもりはなかった。さらに足先に力をこめる。
「もっ、やだ…ッ、」
南波が足を大きく動かした。ドンッ、と音がして、台の上のビールが倒れる。顔にかかる。すっかりぬるくなったそれはおれの頭を冷やすにはじゅうぶんだった。
(なにやってるんだ、おれは、)
そー、だな、やめるか、もう。
足をスッと引いて、アイス、とってくる、と上半身をあげた、そのとき。
「もういい、いらない」
だから、いかないで。と南波が小さく呟いたから。
「…食べたいんじゃなかったのかよ」
「新田くん、年上のお兄さんの言うことを察してはくれないの?」
「察するって?」
「だからぁ、この…、気分とか、」
責任とってください。
むくむくと、南波の言葉でむくむくと、消えかけた口の端の笑みが戻ってくる。年甲斐がない。でも、いいじゃないか。今日は雪で、おまえがいる。
「責任って?はっきり言ってくれないと、わかんねぇな」
きっと今は冷たいあそこもすぐに暑いくらいになるから、ほら、早く、
「新田くん、お、おふとん、行こう、か」
よく言えました!
これ以上、いじめてやるのはかわいそうだ。こたつから出て、南波を立たせる。
「なんだよ、あんた…、泣いてんの?」
ぶっさいく。そう笑いながら鼻を親指で押し上げてやる。
「だって…ッ、だって、恥ずかしかった…ッ、」
南波はされるがまま、おれに支えられて歩く。山羊みたいだ。
「……大丈夫かよ、あんた、」
冷たいふとんに横たわらせて、上から見下ろしながら、口の端に皺をつくりながら、南波に言ってやる。
「これから、もっと、恥ずかしいことするんだぞ?」
……おれとな、と囁いて、いつものように唇に噛みついた。
髪がアルコールでべたついているけど、かまうもんか。