老いた肌が愛おしくなるなんて、思ってもいなかった。あなたと肌を合わせるまで、肌は張りのあるものが至高だと、信じてうたがってもいなかったのに。
若い女性の肌の、手のひらを弾く感触が、おれを拒む感触が、ベッドが燃えあがる唯一のものだと、思っていたのになぁ。

今やすっかりあなたの奴隷だ。

そう、ぼんやり、主の腹に頬を擦りつけながら思考を漂わせる。ふにゅん、気もちいい。すばらしい。この感触には負けるなぁ。奴隷になってしまうなぁ。
頬を押しつける。ああ、この弛んだ肌、雪原のように白い!雪の中に沈んでしまいたい。雪に花を咲かせたい。
叱責されるから、できないけれど。うん…。

「…おい、おまえさん、なにやってんだ?」
「エディの肌を堪能している」

主は苦笑して、変わった奴だなぁ、と呟いたあと、

「おれを相手にするだけある」

…ああ、この言葉はきらいだ。『あなただから、』おれが喉が枯れるほど訴えた言葉が、伝わっていないと思い知るから。

「エディだから。どうして、そんなこともわかってくれないんだ」

と、数も忘れた訴えを、懲りずにまた口にする。

「そうかい。それは…、すまなかったな…」

エディがそう言うことは知っている。どうせ伝わっていないということも。冗談だと思っていることも。
でも、おれの愛してやまない手のひらで、やさしく頬を撫でるから、すべてがどうでもよくなってしまう。この肌がおれのものでさえあればいい。

なんて、嘘だ。ちくしょう。奴隷だ。奴隷だ。あなたの奴隷だ。あなたの肌に魅せられて、骨の髄まであなたの奴隷だ。

神さま、対等になりたいです。




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どうかよい夢をみてください。泣きたくなるようなよい夢を。醒めたくないと乞い願うようなよい夢を。

「わたしがあなたを傷つけた夜くらいには…、」

…背の向こうの声はほんとうに宮田のものなのだろうか。切なく悲しい響きでわたしの幸せを祈っている声は、ほんとうにさきほどまでわたしの心と身体を弄んでいた、宮田のものなのだろうか。
だとしたら、もう憎めない。ゆるしてしまいそうになる。基本的人権を踏みにじられたにもかかわらず、抱きとめてやりたくなってしまう。

「宮田、」

だから、呼びかけた。わたしの権利を、宮田を憎む権利を、保つために、わたしは、

「…なんだ、おきてらしたんですか、」

宮田のプライドを砕いた。宮田は弱みを見せることを極端にきらうから、こういう行為はよくないと、重々承知してはいたけれど。

「…ッ、」

宮田はゆったりと歩いてバケツに入ったアイスクリームをわたしの顔にぶちまけた。

「盗み聴きなんて、趣味が悪いですよ」

そう静かに言って、部屋を出る。
わたしはいつもの『おしおき』だと思って、その夜は深く考えなかった。でも、一週間経っても一ヶ月経っても、宮田はわたしをあの部屋に攫わない。
ゆるしてしまいそうになる。宮田、おまえはそれほど、わたしに想いが伝わることを避けたかったのか。あの踏みにじるような行為の数々は、愛情が起源だったと思ってもいいのか。
だとしたら、もう憎めない。でも、もう遅い。宮田は弱みを見せることを極端にきらうから、もうわたしを攫うことはないだろう。未来永劫、ずっと、ずっとだ。

どうもさよならアイスクリーム




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ぼくには秘密があるのです。だれにも言えない秘密です。親にも弟にも、友だちにだって言えません。ぼくには秘密があるのです。

ぼくは毎週木曜日の放課後に保健室に行きます。ぼくは、そこで、秘密の儀式をするのです。そのとき、だれにも姿が見られないように気をつけなければいけません。
まず保健室についたら、扉に鍵をかけます。そして、窓にも鍵をかけます。儀式の間はだれにも入られてはいけないのです。儀式を知られてはいけないのです。
鍵をかけ終わったら制服を脱いで裸になります。そのとき、痣や傷がないかよく探します。もし見つけてしまったら、そこで儀式は終了です。ぼくは綺麗な肌を保つ義務があるのです。
準備が整ったら、ベッドに座ってあの人をまちます。あの人は少し遅れてやってきます。会議があるので、遅れてくるのです。あの人の合鍵についている鈴が鳴ったら儀式が始まります。
チリン。鈴が鳴りました。儀式の始まりです。

「悪いな、南波くん。またせたかい?」
「ううん。大丈夫、宮田先生、」

この白衣を着た男の人が儀式の相手です。よく笑います。でも、ほんとうに笑ってはくれません。儀式のときだけほんとうに笑ってくださいます。だから、ぼくは儀式をするのです。
男の人は戸棚の薬品の奥から、儀式の道具をとり出します。それは箱に入っていて、でっぱりがあります。今日はいつもと箱がちがうので、新しい道具かもしれません。

「どうだい。綺麗だろう」

なんて真っ赤なハイヒール!ぼくは目を大きく開きました。先週までの紺色のムートンブーツとは対照的でおどろいたのです。あまりに急で、なにかあったのかしらん、とヒールをなぞる指をちらりと盗み見しましたが、男の人はいつもどおりにこにこしています。
ううん!嘘の顔!この面の皮を剥ぎとって、まじまじと目を合わせたい、と強烈に思い、男の人に、早く、とせがみました。
それを聞いた男の人は、すぐに、ぼくをベッドに寝転がらせると、足首を掴んでハイヒールをゆっくり履かせてくれました。靴を履かせるときの男の人はいつも無表情です。まるで螺子をしめるように、たんたんと作業をこなします。ぼくはこの時間がすきです。無機物のように扱われることが心地よいのです。
左右の足を彩ったあと、男の人は椅子に座って、ぼくの脚をじっとり眺めます。そして、ときどき、脚をくんで、とか、上にあげて、ぴんと伸ばして、とか、命令します。これが儀式です。
正直、ぼくはなにが楽しいのかよくわかりません。でも、男の人のほんとうの笑顔が見ることができるので、ぼくにとっても、とても有意義な時間であることはまちがいありません。

「白に赤がよく映える」

そう微笑んだ男の人に、ぼくはおもわず勃起をしました。




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はじめは小さな違和感だった。

「ねぇ、昨日、ムッちゃん、真壁さんとなにしてたの?」

そうだ。はじめはすごく小さな会話の違和感。いつもだったら、きっと気にしないし気づかなかった、小さな小さな違和感だった。

「ケンジと?ユキさんの誕生日プレゼント選びにつきあってたんだよ。 ふだん、むりばかりさせてるから、って」

ふぅん、そっか。奥さん想いのすてきな人だね。と日々人が言って、そうだろう。とおれが笑う。
それだけのはずだった。
でも、鼓膜のセンサーが違和感をキャッチしていた。

(おれ、ケンジとでかけるなんて、言ったっけ?)

それから。日々人の会話、とくにおれの交友関係についての会話に注意をはらって聞くようにした。ら、もう、違和感違和感違和感だらけだった。
だれとどこでいつなにをしたか、日々人には言ってないはずのに、なぜか日々人は知っていて、あたりまえのように訊いてくる。ねぇ、昨日、ムッちゃん、

こわくなった。

今日は○○と○○へ○○しに行くんだ。なんて、そんなこと、友人に言うのもせいぜい小学生までで、おれは三十路をすぎたおっさんで、そんなこと、いちいちだれにも言ってないのに、情報が漏れるはずがないのに、日々人はなぜか知っていて、あたりまえのようにおれに訊いてくる。

なんで、どうして、考えたくないけれど、疑いたくないけれど、きっと、たぶん、もしかしたら、

チラリと部屋のコンセントを見た。

「………嘘だ、」

嘘だ。こんなことがあるわけない。こんなことがあるわけがない。でも、じゃあ、この、これは、この黒い四角いプラスチックの、これはなんだ!

頭に浮かぶ三文字を消す、消して消して消して、でも、またすぐに浮かんでくる。

「嘘だ…、嘘だ、こんなこと、日々人がするわけ、」
「ないよね?」

……いる。いる。ふり返りたくない。だって、いるのだ。この黒い四角いプラスチックを、おれの部屋にしかけた男が。

「だめだなぁ…。ちゃんと鍵をかけておかなくちゃ…、」

日々人が近づいてくる。ヒタリヒタリ、靴を脱いで足音を消していたのか、と神経を集中させた背中で悟った。
映画で主人公が銃を突きつけられたときように、両手を挙げながら、なんで、なんで、とうわ言のようにそれしか言えない。

「ムッちゃぁん、昨日は新田さんが6時24分に家に来たよねぇ、それから玄関で少ししゃべって…、二人ででかけたね?郊外にある小さなレストラン、ワインは赤と白を一杯ずつ、魚がおいしかったんだよね?それから、いつものあのバーに行って、帰ってきたのは10時11分。おれがまってるから早く帰らないと、ってムッちゃんが言ったとき、新田さんは悲しそうな声してたね…、ムッちゃん、ぜんぜん、気づいてなかったでしょ?」

日々人は、おれの、なんで、には答えずに、昨日のおれの行動と言動をなぞった。場所も知っている、から、たぶん発信機とか、そういう類のものもつけられているんだろう。
日々人は座りこんでいるおれの肩に手を置いて、それから、一昨日は、その前は、そうそう、一週間前のあの日は、とえんえん語って語って語って、頭になんて入ってこない。
脳のスイッチを切って、なにも考えたくない。おれはぼぅっと、ぼぅっとしていた。

「なんでってなんでってなんで?」

瞬間、日々人は爪を肩に食いこませる。その痛みに一気に現実に引き戻された。
おれは血の繋がった弟に盗聴されている!

「そんなの、そんなの、ムッちゃんがすきですきですきですきですきでたまらなくて、ぜんぶ知りたいぜんぶ知りたい知りたい、だから、縛って束縛してやりたい、知りたい、すきで、だからだからだから、」

だからだよ。なんでってなんでってなんで?すきなの、ムッちゃんが。それだけだよ。
涙をぼろぼろこぼしながら、おれの肩に憎しみを食いこませながら、激しい愛の言葉を囁きながら、弟の頼りなさでおれに縋る。
あまりにかわいそうで、盗聴も発信機もなにもかもぜんぶ、ゆるしてしまいそうになる。
でも、だめだ、わかってる。同情して、肩の手に、やさしく手を重ねたら、もう、戻れなくなるよ。

(だめだ、だめだ、だめだ、)

頭の中でうるさいくらい警鐘が鳴っているのに、どうしても、日々人の顔が見たくてふり返る。戻れなくなるとわかっているのに。

「……ムッちゃん、」

アイシテル。
手のひらのプラスチックから、ノイズに汚された告白が響いた。

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