あなたは光で、幸せでいて
「結婚二十周年おめでとうございます、吾妻さん」
扉を開けると奴がいた。右手にワイン、左手に花束をもって、薄く微笑んで気だるげに立っていた。
妻と迎える二十回目の結婚記念日のことだった。
「帰れ、帰ってくれ」
せっかくだから、二人っきりでゆっくりすごしましょうよ、という妻の言葉で子どもを義父母に預けてまで作った時間を壊されることだけは避けたかった。おれはあとでどんなにひどいことをされてもいい、だから、と祈った。
宮田は薄い微笑えみを絶やさないまま、お祝いをもってきただけですよ。長居なんて、不粋なまねしません。と玄関の外から一歩も動かずに言った。
いつもなら、と思う。いつもなら、おれのいやがることをすべて、うれしそうに蹂躙する、それが宮田という男ではなかったか。
「信用できませんか?」
「信用、なんて、」
「……顔に出てますよ。はい、」
これ、吾妻さんに。
なかば押しつけるように宮田は赤いリボンで飾られた右手のワインをおれにわたす。ずっしりと重くて、精巧なラベルのワインは、酒にくわしくないおれでも一目で高級なものだとわかった。
「こんな高そうなもの…!」
「お詫びですよ。どうか受けとってください。毒は入ってませんから、ご安心を」
毒だなんて!
そんなことを思わせてしまう己の言動が恨めしい。でも、お詫び、の一言に、傲慢な気もちが顔を出したことはたしかだ。そうだ、あれだけのことをされたのだから、とうぜんだ、と。
「そして、これは、奥さんに」
弱々しい花々が折れないようにやさしく手に乗せられた花束は、黄色の薔薇とあまりなじみのない薄桃色の花で構成されていた。ワインと同じ赤いリボンで縛られていて、色彩のコントラストが美しかった。
「月見草と…、薔薇の花束です。奥さんの好みに合うといいんですけど」
月見草。と呟くと、宮田は、はい、月見草です。とくり返した。
奥さんに、月見草の花束だ、と伝えてくださいね。
そう言うと宮田は懐からピストルをとりだした。
「…ッ、な、にし、て、」
「撃とうかなぁ、と。わたしでも、あなたでも、撃ってみようかなぁ」
ワインと、花束につけられているリボンの赤はおれと宮田の血なのか、と冷静に分析しているじぶんがいることが、おかしかった。今、殺されるかもしれないのに。
……殺しはしないと、わかっていたのかもしれないけれど。
「でも、やめておきます。せっかくの結婚記念日ですものね」
それでも、こいつのことだから、一発ぐらいは、撃つと思っていた。肩透かしを食らったような気分で、宮田の顔を見つめる。
宮田は、ひどい顔。と笑ったあとに、それじゃあ。と左手にピストルをもちながら、右手で小さく手をふって、闇に消えていった。
まるで嵐のようだった。
(あの人は月見草の花束をわたしてくれただろうか)
住宅街のひと気のない道で考える。まじめで律義なあの人のことだから、きっと大丈夫だとは思うのだけど、今までのじぶんの行いを鑑みると断言はできない。
おれはあの人を傷つけすぎた。
もちろんあの人の家族も。
だから、贖罪をこめてあの人の奥さんに花束を贈った。月見草と黄色の薔薇の花束を。
(でも、けっきょくおれは自分本位だ。月見草の花束をあてつけのように奥さんに贈るなんて…)
あてつけだ。そうだ。あてつけでしかない。
月見草の花言葉は『うちあけられない恋』。一番、うちあけて暴露して、めちゃくちゃにしてやりたい人に、贈るなんて悪趣味だ。
しかも、月見草だと伝えてくれ、と念まで押して、できれば、花言葉を調べて心に靄がかかりますように、と願っている。
悪趣味だ。笑えない。
さらに、もう一つ、悪趣味がある。
あのね、吾妻さん。あなたに贈ったものは、ワインだけじゃないんですよ。おれの愛が入ったワインだけじゃないんですよ。
花束の中に月見草以外の花があるでしょう。その黄色の薔薇は、あなたに贈る、おれの気もちです。
(気もちです。さんざん傷つけたあなたに対するわたしの気もちです。わたしの自分本位な、悪趣味な言葉です)
黄色の薔薇の花言葉は、花言葉は…、
「笑って別れましょうね」
心中すらできない、役にたたない鉄の塊が、歩くたびに、心臓の近くでガチャガチャとうるさい音を鳴らしていた。