「あんたさぁ、ほんとに、宇宙に行く気あるの?」

おれの深層心理はヒューストンの家だ。深層心理の風景は、そのときのじぶんが一番執着している場所になるらしい。少し前は、子ども部屋だった。そして、今はヒューストン。理由はかんたん。ムッちゃんがいるからだ。
おれの身体を構成している元素はムッちゃんだ。ムッちゃんがいないと生きていけない。形を保っていられない。元素は恋だよ。おれはムッちゃんに恋をしているんだ。
だから、昔は子ども部屋で今はヒューストン。ムッちゃんがいないとだめだから、必然なんだ、この選択は。

「必然?なに言ってんの?」

だれもいないはずの空間に、声が響く。子どもの声だ。ふり返ると、子どものときのおれがいた。眉を吊り上げて、腰に手をあてている。

「やぁ、久しぶり」
「あんたさぁ、ほんとに、宇宙に行く気あるの?」

あいさつを無視して、あまりにあたりまえなことを訊くおれに、もちろん。と返すと、嘘だ。と断言された。
気分が悪い。なんだって?

「おまえ、おれがどれだけムッちゃんをまってたか知ってるだろ?」
「おまえのムッちゃんは『昔からずっとすきな人』だろ。おれのムッちゃんは『夢を追うパートナー』だから、」

おまえなんかといっしょにすんなよ。そう言って、おれはおれの腹に短銃を押しつけた。

「あんた、いらないよ。宇宙に行く気がないなら、消えたほうがいい。あんたがいると、邪魔なんだよ」

ムッちゃんまで弱くなっちゃうや。
そう無邪気に言いながら、引き金にぐぅと力をこめるおれに、おれは必死に懇願した。

「ちょっ、冗談だろ、やめろ、やめろよ、撃つな、」

冷や汗がだらだら流れる。死に対する恐怖じゃない。情けなくても、消えたくない。そうだ。三十年の、努力と忍耐が報われないなんて、そんなことがあってたまるか。

「だからぁ、あんたがいると邪魔なんだって、」

ばいばい。

おれの想いを踏みにじって、幼いおれは無慈悲に引き金を引いた。
ヒューストンに、乾いた音と、おれの叫び声が反響する。

「やっと想いが実ったのに!」

目を開く。朝か、と思う。スン、と匂いを嗅ぐ。パンが焼けるいい匂いがする。
朝か、と思う。

「ムッちゃん、おはよう」

しゃんと背筋を伸ばしてキッチンに立っている兄にあいさつをする。
兄の背筋が伸びてきたのが、うれしい。夢に向かって一途に進んでいるように感じる。
だから、明るい声をかけた。

「日々人…?」

でも、ムッちゃんは不審そうにおれのなまえを呟いた。まるでおれがおれじゃないみたいに。

「なんだよ。どうしたの、ムッちゃん、」
「いや…、いつもはおれがおこさないとおきないから…、」
「そんなわけないよ。子どもじゃないんだから」

そう笑いながら言うと、ムッちゃんの肩が震えた。大丈夫?と、手を伸ばすと、ムッちゃんはその手を掴んで、言った。

「そんなわけないよ…?」

おまえ、おまえ、おかしいよ。いつもは、そんな、おだやかな表情じゃない…。
怯えるようにおれを見る、ムッちゃんの視線が魚の骨になって喉に刺さる。なにかがひっかかる。でも、その違和感がなにかはわからなかった。

「なにが?いつもどおりじゃない」
「おまえ、おれにキスできる?」
「はぁ?ムッちゃん、なに言ってんの、できるわけないよ、血が繋がった兄に、」

ムッちゃんの突飛な発言に、おかしくなったのはムッちゃんじゃないか、と眉をひそめる。
喉の骨は存在を主張して暴れているけれど、いったいなにがひっかかっているんだろう…?

「でも、恋人…、」

キスなんかできないよ、とおれが言ったあと、ムッちゃんは口を震わせて、恋人、と言った。
魚の骨がさらに深く喉に刺さる。

「うん?こいびと?だれとだれが?」

それでも、その違和感がなにかはわからなかった。

「……もういい、」

泣きそうな表情でムッちゃんが小さく吐き捨てた。憎い、と瞳で訴えている。

(どうして、泣きそうなんだろう。憎い、とおれを見るんだろう)

喉に刺さる魚の骨はもう痛まない。

「ばいばい、」

三十年の、おれの恋心!




−−−−−−−−−−−




おれには心にぽっかり空いた穴に落ちていく時期がある。どんどんどん沈んでいって、おれは虫だ、もういっそ消えてしまい、と願う時期が。
そんなとき、男の腕に受けとめられたい、と強烈に思う。どうしようもなく男に縋りつきたい、と。今すぐ救って!そう叫びながら、だれでもいい、ベッドに引きずりこみたくなる。

一ヶ月前の今日がまさにそれで、一番近くにいた男が弟だった。

それだけの話だ。だけど、それ以上の話でもある。
弟はおれの暗い熱に浮かれた行動をあっさりと承諾した。そして、おれに愛を囁く。やっと気づいてくれたんだね、と。
一ヶ月前のおれにはそんなことどうでもよかった。ただ受けとめる腕が、縋りつく男がいればいい。だから、なにも考えずに弟と寝て、今日になるまで後悔している。
いつもは街の人ごみの中からてきとうな男を路地に引きずりこんだり、ラブホテルに攫ったり、などをして、ちょうどよい腕を探していた。
いわゆる、ゆきずりの関係、というもので、熱が冷めれば、さようなら。後悔なんてしなくてよかった。

それが、今はどうだ!

おれは正気に戻ったとたんに理解した。あ、めんどくさいことになったぞ、と。かんたんにさよならなんてできやしない。血の繋がった弟と寝たんだから。それに、しかも、あいつはこれが、恋だと、愛だと、思ってやがる!
ちがう!おまえのことなんて恋愛対象に思ったことなんかないし、これっぽっちもすきじゃない。ただおまえが一番、ちょうどよかっただけ、近くにいただけで、縋りつくのはだれでもよかったんだ。おまえ以外でも、だれでも!
だから、これは恋なんかじゃない。愛なんかじゃない。熱に浮かれるな、正気になれ、いいか、よく聞け、これは恋愛なんかじゃ、

「ムッちゃん、愛してる…、」

ないんだってば!
やめろ、めんどくさい、めんどくさいめんどくさい、ほんとにめんどくさいから、頼むから、もう、おれに愛を囁かないでくれ。




−−−−−−−−−−−




すきになった人は、兄でした。ふっ、笑ってしまうでしょう。なんて見込みのない恋なんだ、と笑っていただいてけっこうです。見込みが…、ないからと、あきらめられたらよかった。でも、あきらめられないくらい、どうしようもなく、すきなんです、血の繋がった実の兄がね。すきなんですよ…。

「はぁ、そりゃ、まぁ、」

ご愁傷さま?

酔っぱらった後輩の、熱にうなされた告白に、おれは先輩としてぼんやりとした言葉をかけてやることしかできなかった。
だって、それ以外になにができるっていうんだ。近親相姦(いや、まだやってはいないんだろうけど)に対する懺悔に、なんて言えば。
悪いけど、日々人、おれはそんな技術はもってねぇよ?

「……それだけですか?」
「それだけって?」
「なにかあるでしょう。アドバイスとか…、」

う〜ん、だからおれにそんな技術はないんだって…、あ〜、でも、そうだな、たとえば、

「いっそ思いきって寝てみたら、なにか変わるんじゃない?」

冗談半分であんなこと、言わなければよかった。後悔しても、もう遅い。

「寝てみたら……?」

なぁんちゃって、冗談だよ、じょ、う、だ、ん!
そう言って凍った空気を曖昧にしようとしたけれど、これ以上ふざけた言動をしたら殺す!と後輩が目で心臓を射抜いてくるので?

「……おれの身体に溺れてくれる、確証もないのに?」

こわい。たんたんと低い声で言葉を紡いでくる後輩が、こわい。ごめん、ごめんなさい、地雷を踏んで、おれが悪かったから、お願いします、あの、周りの目もあるし、バーのカウンターで、じりじり近づいてくるの、やめてもらってもいいかなぁ?

「それなのに、兄弟っていうぜったいの関係を壊せって?」

けっきょく、肩と肩がつくくらいの距離になって、おれはもう逃げられない。冗談半分であんなこと、言わなければよかった。後悔しても、もう遅い。
後輩は血走った目で、ばかなこと言ってんじゃねぇよ、と言いながらおれの左手に爪を刺す。

「それで、ムッちゃんがセックス依存症になってくれるなら、いくらでも抱いてやるよ」

チッ!
後輩は盛大な舌打ちをしたあと、ウイスキーを煽って席を立った。




−−−−−−−−−−−




「残りの人生のうちでどのくらいムッちゃんといられるのかなぁ」
「そんなの…、おまえのすきにすればいいだろ」

ずっといっしょにいよう。おれから離れないで。

そう言われたかった、そう言ってほしかった、そう言ってよかったんだよ。
どうしてこんなときまでおれの自由を残しておくの。おれの自由を尊重するの。おれを束縛しないの。縛りつけて離されたくない、離したくなんかないのに。

残していきたくなんかないのに。

すきにすればいい。
なんて残酷な言葉なんだろう。ムッちゃんも、おれも、傷つける言葉だ。ムッちゃんはおれのために、この言葉を言ったんだ、って、わかってはいるけれど。

わかってはいるんだけど。

それでも、そんな言葉、聞きたくなかったし、言わせたくなかった。

「残していきたくなんかないのに」

喉の凍る真冬の夜だった。




−−−−−−−−−−−




「飲んでよぉ、ほらほらほらほら、ほら、」

おいし?

にんまり笑う弟の顔は異常者だったけれど、それに、腰を揺らしながら、うん、と熱っぽく返事をするおれもまた異常者だった。

弟はコップに溜めた精液を飲ませることに快感をおぼえるらしい。しかも、むりやりではなく、相手にごくごく飲んでほしいのだと。
そんなことをしてくれる奴なんているわけがない。だから、その相手はおれじゃなくてはならない。おれなら飲める。日々人を愛しているから。

「これが今月のぶん」

今日の訓練どうだった?あいかわらずキツいよ。そっかぁ、お疲れさま、はい、

「これが今月のぶん」

日常の会話に非日常を滑りこませてくるから、いつだって日々人はスリリングだ。そういうところがたまらなくすきだった。

「おいし?」
「うん」

コップの中の液体は、苦くて臭くてまずいけど、日々人が、いいこ、と頭を撫でてくれるから、来月来年一生いつでも毎日だって、喉を鳴らして飲んでやる。




−−−−−−−−−−−




ガラスのコップの湖に月を映す。

今、あの場所に弟がいる。人類が、日本人が焦がれてやまなかったあの黄金色の地面に弟が立っている。日本初の月面歩行者だ。誇らしい。同じ日本人として。兄として。誇らしい。国民名誉賞とか、貰っちゃたりするのかな。地球に帰ってきたら、もてはやされて、芸能人みたいになっちゃて、隣に立つこともできなくなったり…、

ガラスのコップの湖に月を映す。

『この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば』

藤原道長が詠んだ和歌が千年以上の未来に生きているおれの胸に刺さる。そうだ、そう、そのとおりだ。この世界はおれの世界だ、満月だって欠けやしない。
そうだ。このガラスの中はおれの世界だ。あんなに大きくて遠い月も、こんなに小さくて近くて、力をこめたら砕けて消える。そうだ。日々人の運命だって、

(あいつは、今、あの輝きの中にいる。でも、今、この瞬間だけはおれの手の中……、)

おれは征服欲の波に攫われて、湖を飲み干す。
今、この瞬間だけはおれの手の中。今、この瞬間だけはおれの手の中。




−−−−−−−−−−−




「ムッちゃんのためならなんだってしてあげる。悲しいときは抱きしめてあげる。うれしいときは手を繋いであげる。淋しいときはキスしてあげる。ムッちゃんが欲しいものはおれがぜんぶあげる。だって、おれ、ムッちゃんがすきだから、」

だから、最期はおれに殺させてね。恐怖と絶望で顔を染めさせてね。ムッちゃんはぜんぶもってるのにおれにはなんにもくれなかったね、ほんとはだいきらいだったんだよ。って、呪いをかけさせてね。怨念になって、内臓から破壊させてね。ね、最期はそうさせてね。だから、それまで、おれは、ずっとずっとずーっと、ムッちゃんの隣にいて、死期を狙っていてあげるから。




−−−−−−−−−−−




もしムッちゃんが女の子だったら、養ってあげるからさ、一生、そばにいてよ。って、冗談めいたプロポーズができたのに。おれが男でムッちゃんも男でさらに兄弟だったばっかりに、たったそれだけの悪ふざけすら言えやしない。

ああ、おれの甲斐性無し!




−−−−−−−−−−−




年越しはやっぱりうどんだろ!と、父の好物から生まれた習慣を色濃く継いだおれたちは、日本食にやさしくないアメリカのスーパーマーケットで手にいれた材料で、ああでもないこうでもない、と舌に慣れた味を模索していた。

「ん!」

めいっぱい目を開いて、みつけたよ!と、主張する。どれどれ、とおたまで味見した兄は、ふるふる肩を震わせてから、上目遣いで、やったな、と呟いた。
兄によって綺麗に磨かれたキッチンは汚されてしまったけれど、記憶にある味とぴったり合うつゆを発見したおれたちには、そんなこと、どうでもいいことだった。
だって、いいよ、そうじはいつでもできるけど、年越しうどんは今だけだから、と笑った兄の顔をよく覚えている。

「うまーい、もお、そうだよ、この味だよー、なつかしー、」

ムッちゃん、ありがとお、とうどんの蒸気で垂れてきた鼻を啜りながら、横に座る兄に、はい、とティッシュをわたした。
おれたち、鼻水が垂れるとこまで似ちゃったね?

「昔、つきあってた彼女の家で年越ししたときの話なんだけど、」

ずびん、と鼻をかんだ兄が、あのさぁ、と口火を切った話は、はっきり言うと聞きたくなかった。彼女、家、年越し、から導きだせる、二人の親密度に、もう別れているとわかっているのに、こめかみに血液が集まってくる。
でも、弟の仮面をかぶったおれは、うん?と話を促した。

「その彼女が、年越しそばを作ってくれて、ああ、おれたち、きっとだめだろうなぁ、って思った。そのときは、おいしいおいしい、って食べたんだけど、なんか、やっぱり、そばは、ちがうんだよなぁ、って気もちはずーっと残ってて…、」

こういう、些細なところで価値観のちがいってやつが、わかっちゃうんだろうなぁ。それから、なんとなくしこりができて別れて…、結婚まで考えてたんだけどなー…。
油あげにかぶりつきながら、ぼそぼそしゃべる兄の言葉に、すぅ、とこめかみが冷える。それなら、それなら、それならさ、

「鼻、また垂れてる」
「ん?ごめん、ありがと」

ほんとは鼻水なんて垂れてなかった。
ティッシュで顔を隠す兄にどうかこの曇った瞳が見られていませんように。

「それならさ、おれたち、価値観、すごくあってるね」

結婚しても、うまくいくんじゃない?とは、とてもじゃないけど言えなくて、少ししょっぱいつゆを、ずるっ、と飲んだ。




−−−−−−−−−−−




おれはムッちゃんがすきだ。

ムッちゃんだからすき、でも、ムッちゃんだからだめ。

なんだよそれ、ばかみたいじゃないか。兄弟だからだめ?血が繋がっているからだめ?男同士だからだめ?近親相姦だからとか、同性愛だからとか、そんなばからしい理論なんて聞きたくない。

そんなことより、もっと大事なことがあるだろう。もっと動物の本能に根ざした理論があるだろう。

たとえば、すきになった人がタイプ、みたいな言葉で表されるあれやこれのことが。

そう、おれはムッちゃんがすきなんだ。ムッちゃんがいいんだよ。ムッちゃんじゃないとだめなんだよ。ムッちゃんじゃないと死んじゃうよ。

おれを見て、おれから目を逸らさないで、おれだけを見ていて、ムッちゃんはおれだけを見ていればいいんだ、ムッちゃんの手はおれが引くから、大丈夫、こわくないよ。

愛の前に、悩まないように、まっすぐ進んで行けるように、前だけを見据えて、二人だけで。

もう、後もどりなんてできないんだよ。そうでしょ?

ねぇ、ムッちゃん、二人で幸せになろうよ。



おれは日々人がすきだ。

つかめない風のように、気楽そうでいて、ありのままで、ゆらがない、そんなおまえがすきだ。
いつでも完璧でいて、おれの前を歩いていて、ときどきふりむいて笑って。
それだけでいいから。それだけで幸せになれるから。

おまえはなによりも、だれよりも、綺麗だ。

そうだ、おまえはだれより美しくなれる。おまえはだれより強くなれる。おまえはだれより高く飛べる。

だから、おれなんて置いていったっていいんだ。

「いっしょに宇宙に行くって言ったよね。忘れたなんて、言わせないよ」

ほら、またおれの心を殺した。どうしてそんなことを言うんだ。置いていってくれていいのに。置いていかれたいのに、おまえはぜったいに繋いだ手を離そうとしない。手を伸ばすのをやめようとしない。

今も大切なあの思い出をそっと抱えたまま、あのときのままでいられる、なんて、夢だ、夢からは覚めなくちゃ。

過去に後ずさりなんてできないんだよ。

だめだよ、日々人、おれたちは幸せになれない。



おれたちは二人で一つだよ。だって、離れているとこんなに苦しいもの。

ばか、二人で一つなんて人間いないよ。おれたちは二人で二つだ。

そんなこと言わないで。
そんなこと言わないで。



今もまだすき。

凍った時間は動き出したけど、まだ今も大切なあの思い出は、重くおれたちに重くのしかかっている。

今もまだすき。

手を伸ばせば届くのに、また拒まれることがこわくて、伸ばしかけた手のひらをぎゅっと握った。

今もまだすき。

もしかして、まだ凍ったままなんじゃないのか。溶けたように、見せかけているだけで。

今もまだすき。

あの日から、あの夜から、凍った時間は、まだ、溶けない、手を伸ばしても、もう届かない。

今もまだすき。

ねぇ、ムッちゃん、二人で幸せになろうよ。

今もまだすき。

だめだよ、日々人、おれたちは幸せになれない。

今もまだすき。

きみの言葉がまだ離れないの。

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