「今までありがとう」
そう言って、机に置かれた腕時計は、おまえの腕にいつもいた腕時計は、チクチク、針を動かしている。もう、時を計る必要なんてないのに、聞きわけのない子どもみたいに、チクチク、チクチク、チクチク、止まらず、チクチク、いつまでも。
もう止まったっていいんだ。
おれたちの恋は終わったんだよ。
「腕時計、」
昨日のことのように浮かぶ会話に眩暈がする。
冷たくなった空気が喉に沁みる秋。二人で近所の公園を歩いていたときだった。
「あ、うん。変えた」
「へぇ、いいんじゃねぇの」
「新田とつきあった、次の日に買ったんだ」
記念に。
はにかむように笑ったおまえが今になってもやっぱり愛しい。
抱きしめればよかった。愛しさにまかせて、衝動のままに、抱きしめればよかった。
あのとき、抱きしめていたら、今、あいつにここまで縛られることはなかったかもしれない。
今さらだと思う。でも、あのときできなかったすべてのことが、今、おれの心を縛る。
もしかしたら、あのときできなかったことをしていれば、今もあいつはおれの隣にいたかもしれなかった?
止まらない。後悔というのか。妄執というのか。わからないけど、止まらない。もしかしたら、もしかしたら、と。
チクチク、チクチク、チクチク、
「記念に」
はにかむように笑ったおまえが今になってもやっぱり愛しい。
すきだ。愛してる。頭に雪がふるまでずっと、ずっと隣にいたかった。ずっと隣にいたかったよ。
ずっとずっと隣に。
後悔してもしきれない。
あのとき抱きしめていたら、もしかしたら、もしかしたら、と。
「おれは新田がすきだったよ。でもね、やっぱりおれは日々人がすきだ。おまえよりもすきだ。わかったんだ」
だからね。
と言って、南波はあの腕時計をテーブルの上にゴトリと置いた。
チクチク、チクチク、チクチク、
「もうこれはいらないから、」
記念に。
昔、そう言ったときと同じ顔で南波は笑った。
「新田がもっていて」
……ひどい男だ。
チクチク、時計の針が一周回るたびに胸が苦しくなる。
あいつがいなくなって、一日、一時間、一分、一秒、
チクチク、チクチク、チクチク、
あなたたちの恋が終わって、三ヶ月たちました。
チクチク、チクチク、チクチク、
終わりです、終わりです、終わりです。
腕時計にそう言われている気がする。
終わりです。このまま永久にはじまることはありません。
あなたの愛しい人は今はあの人の腕の中にいます。とても幸せそうに笑っています。あなたのことなんてすっかり忘れて…。
チクチク、チクチク、チクチク、
腕時計を左手首に、南波がつけていた左手首に、おもむろに巻きつける。
そこに想い人の温もりはない。ただ面影と思い出に浸ることができるだけ。浸って消えたくなるだけ。
「記念に」
はにかむように笑ったおまえが今になってもやっぱり愛しい。
それだけは夢じゃなかった。
−−−−−−−−−−−
「はーい、元気?」
腰が抜けるかと思った。
だれもいないはずの家の中に、明るい声が響いたから。
「ひっ、日々、人、さん…?」
あたりぃ。
赤いソファーに腰かけていた男は、暗闇の中で金色の瞳を月のように細めて笑った。
「いっ、たい、なんの用ですか」
弾む心臓を抑えて、非難を混じえて男に訊く。
男は笑いながら、おまえ、ムッちゃんと寝たろ?と言って、ソファーから立ちあがった。
空気が緊張するのがわかる。
それは己の性癖を知られた焦りでもなく、相手の実弟に責められる気まずさでもなく、恋敵と相対しているという、決闘前の昂ぶりだった。
「だったら、なんだっていうんです」
おれは刀を抜いた。力量差は知っている。それでも、刺しちがえてでも、勝ちたい、と、そう思った。
「かっこうって知ってる?」
けれど、相手が出したのは予想外の手で、は、と気の抜けた声が漏れる。張りつめた空気が少しゆるんだ。
「あ、あれでしょう。托卵をする…」
おれは答えを呟きながら思う。
かっこう。
かっこうは子育てをしない。もずの巣に卵を産んで、雛を育てさせる。親鳥にじぶんを育てさせるために、産まれたての雛が、じぶん以外の卵をすべて落として。
「そうそう。……新田さん、おれね、」
日々人さんは少し間を空けて、つづけた。
「おれね、ほんとうは双子だったんだよ」
でも、邪魔だから、弟、兄かな、わからないけど、を落としたんだ。
かっこうみたいに。
「母ちゃんの巣の中から、」
ぐしゃ、って。
「新田さんはムッちゃんのために卵を落とせる?」
にこにこしながら、日々人さんはおれにゆっくり近づいてくる。
「新田さんはムッちゃんのために殺人できる?」
日々人さんはゆっくり近づきながら、ナイフをとりだす。ナイフはチラチラと月明かりを反射して、日々人さんの顔を照らす。
鏡みたいに綺麗だった。
「新田さんはムッちゃんのために邪魔な奴を殺せる?」
いつのまにか日々人さんはおれの首すじにナイフをあてていた。ナイフは冷たくも熱くもなかった。日々人さんの手の一部のように感じた。
「こーろーせーるー?」
ナイフを首すじにペチペチあてながら、日々人さんは訊く。
殺せる?殺せる?殺せるの?
どう?どう?どうなの?
あんたは?あんたは?あんたは?
おれは殺せるけど?けど?けど?
「………邪魔だよ、あんた、」
黙っているおれに焦れたのか、日々人さんは首すじのナイフを、力いっぱい、ギッと、引いた。
鮮血が噴き出す。
「はッ、はッ、はッ、は…、」
肺から深く息を吐く。なにか恐ろしい夢をみた気がする。
「朝…、」
悪夢から目が覚めると、輝く朝だった。未来には希望しかない、と錯覚するくらい、朝日が輝いていた。
その光に、すぐに悪夢の影は消えて、記憶の底に沈んでいった。
「新田ぁ、おきた?」
ドアの隙間から南波の顔が覗く。そうだ、こいつがいたんだ。二人で暮らしているんだ。もうこの国にあの人はいないんだ。
(………あの人ってだれだ?)
記憶の底でぼんやり思う。なぜだかわからないけど、南波が無性に愛しかった。
「おはよう」
「おはよ、ん、新田、首、どうした?」
首?と疑問に思いながら、手を伸ばす。
そこにはみみず腫れのようなものがまっすぐ線になっていた。
まるで頸動脈をナイフで切ったみたいに。
『………邪魔だよ、あんた、』
夢の男の、日々人さんの、無機質な声が響いて、鳥肌がたった。
(どこまで…!あなたの執念は国を越えて時を超えて夢に現れるまで、あなたは、あなたは…!)
どこまでおれが憎いんですか。
−−−−−−−−−−−
さびれた駅に一人きり。どうかこのまま風化がしたい。さびれた駅に一人きり。どうかこのままつれてかないで。さびれた駅に一人きり。どうかこのまま最北端へ。さびれた駅に一人きり。どうかこのまま忘れて消えて。さびれた駅に一人きり。どうかこのまま、
「告げずにさよなら」
どちらかなんて選べなかった。どちらもおれの血で肉で骨で、生きていくのに不可欠だったから。どちらかなんて選べなかった。どちらもおれのほしい言葉と、あたたかい居場所をくれたから。どちらかなんて選べなかった。どちらもおれを快楽の海に沈めてくれたから。
一人は手で首を絞めて、一人は石を腹に詰めて。沈めてくれたから。沈めてくれたから。
「ヘンだよ、ムッちゃん、どうしてそんなにキモチ悪いの?」
もっと罵って。もっと罵って。もっと罵って。汚いものを見下す目つきでおれを見て。刺激物で顔を溶かして。傷ついて動けなくなるくらい。罵詈雑言で窒息するくらい。
「あんたは綺麗だ。大丈夫、汚れてなんかいない」
やさしい言葉でだめにして。だめにして。もっと、もっと、もっと。甘やかして。とろとろにして。罪悪感で消えたくなるくらい。甘くて重い言葉が胃で石になるくらい。
酸を浴びせる男も、糖に浸す男も、おれにはどちらも必要だった。酸糖酸糖酸糖酸糖酸糖酸糖。交互にくり返す。酸糖。これは麻薬だ。手を離せない。依存している。二人の男に。快楽をありがとう。居場所と言葉をありがとう。おれの骨に肉に血になってくれてありがとう。
「依存していると精神が腐って死ぬよ。どちらも捨てていきなさい」
医者に言われた。死ぬのはこわい。
結論、おれはじぶんがすきだ。
人人人で埋めつくされた駅のホームに一人きり。ベンチに座ってコーヒーを飲む。眠らなくちゃ。眠らなくちゃ。
さびれた駅に一人きり。どうかこのまま風化がしたい。さびれた駅に一人きり。どうかこのままつれてかないで。さびれた駅に一人きり。どうかこのまま最北端へ。さびれた駅に一人きり。どうかこのまま忘れて消えて。さびれた駅に一人きり。どうかこのまま、
「告げずにさよなら」