「すみません、吾妻さん、ちょっとお話が…、」
宮田が笑って手招きをする。
不審に思いつつも、おれは従順な猟犬のように、宮田の隣へ駆けよった。そう躾されている。
もう、すべてが手遅れだった。
「なんだ?」
「あのですね…、」
吾妻さんの精液がシーツにこびりついてとれないですよね…。しみになっちゃって…、どうしましょ?
宮田はおれの右耳に囁く。
昨晩の情事の熱が身体の芯から沸いてきて、指先が痺れる。そう躾されている。
もう、すべてが手遅れだった。
「吾妻さぁん、洗ってくださいますよねぇ?」
おれは従順に頷く。従順に、従順に。
(でも、ご褒美はください)
−−−−−−−−−−−
「赤ちゃんができました」
時間が止まる。血液が逆流する。責任をとらねば。男の本能というものなのか、相手も男なのにあたりまえのようにそう思って、正気に戻る。
妊娠なんて、するわけがない。
「吾妻さん、赤ちゃんですよ、」
おれと吾妻さんの赤ちゃんです。
それでも、泣きそうな瞳で男は言う。嘘だと、戯言だと、わかって言っているのだ。かわいそうに。でも、かわいそうにしているのはわたしのエゴだ。
「おれ、ぜったいに堕ろしたりなんかしません」
ぜったい。ぜったい。
白いシーツをぎゅうと握りしめて男はじぶんに言い聞かせるように言う。
「そうか…」
わたしはそう呟くだけで、抱きしめることもできなかった。
男の責任すら、とってやれなかった。
−−−−−−−−−−−
「どきどきしちゃいますね?」
吾妻は職場の廊下で宮田に抱きしめられて、身体が石になった。その硬さを記憶するほど強く、宮田は吾妻の身体を締めつける。
「このままキスでもしましょうか」
吾妻の顔が歪む。
宮田は微笑む。
宮田は吾妻のこの表情が見たいのだ。どうしても見たいのだ。だから、吾妻がいやがるとわかっているのに、職場で、公で、吾妻の身体を抱きしめる。言葉の刃で撫で斬りする。
もっと歪めて、歪んだ表情を見せて。
宮田は快楽の沼に沈んでいて、吾妻の歪みを超えた表情を感じとることができなかった。
「………やめてくれ、」
もうやめてくれ。これ以上おまえをきらいにさせないでくれ。あのときの好青年のままにさせてくれ、お願いだから。
吾妻の悲痛な声が響く。
宮田の胸に顔を押しつけながら、一言一言、はっきりと発音された言葉は、まるで、宮田に、じぶんに、言い聞かせているようだった。
それを聞いた宮田は、さらに口角をあげる。
そして、吾妻の背を柔らかく撫でながら、口を動かす。
「……それなら、いっそ憎まれたいですけどね、」
けれど、宮田が淋しそうに微笑んで発した言葉は、吾妻に届かずに、溶けて消えた。
−−−−−−−−−−−
「すきだからだよ。すきだから、気になるし、笑わせたいし、知りたくなるんだ。…アヅマはどうだ?おれのこと、知りたくないかい?」
色素の薄い瞳に映る顔が赤い。
恥ずかしい。年甲斐もなく、こんな言葉に頬を赤らめるじぶんが。
「さあ…、どうでしょう…?」
恥ずかしい。曖昧な言葉でごまかしてまで、この雰囲気から逃れようとしているじぶんが。
ブライアン、あなたの瞳に映るわたしはまだ大人のままですか。青い少年のようではありませんか。
「アヅマ、」
ああ、だめだ。もうだめだ。
ブライアン、どうしたらいいんでしょう。あなたの前では、わたしはいつでも、まだ青い少年ままだ…。
−−−−−−−−−−−
「だめです」
動いてはいけません。俯いてもいけません。触ってもいけません。集中してもいけません。
なにもせずにただそこに座りなさい。
(さんざん昂らせておいて、なんて奴だろう!)
あともうほんの一押しで崖から落ちそうな下半身を放置されている。
床に正座させられて、手を後ろで縛られて。
宮田はベッドに腰かけながら、おれを見ている。
宮田が興奮していたら、野卑に笑っていたら、勃起していたら、まだ、よかった。まだ、救われた。
ただ痴態を見られている、そのいたたまれなさといったら!
舌を噛んでしまいたい。どんどん追いつめられていく。おれは鼠だ。酸をかけてくれ。
「…ッ、」
宮田がおれの下半身を蹴りあげた。
崖に落ちる。
「はしたないヒトですね…」
宮田は汚れた右足をおれの顔に押しつけた。
−−−−−−−−−−−
最近、背中に視線が刺さる。熱を含んだ、青い視線だ。
「……吾妻さん、」
視線の主は、自由で美しい、純粋な青年で、まるではじめて恋をした少年のように、想い人の心を摘みとる術も知らず、ただおれの背を見つめていた。
「日々人、」
すまない。おれはおまえの熱をうまくあしらう技術がない。
かといって、切断する勇気も、受けとめる器もない。
「なんだ?」
「いえ……」
ブライアン、あなたもこんな気もちだったのですか。と、昔の想い人に訊いてみたい。
わたしの想いは枷でしたか。と。
「そうか」
すまない。おまえの視線のもつ意味も、なにもかも知っているのに、おれは、ブライアン、あなたのことばかりだ。
−−−−−−−−−−−
この人の武骨な手を鍋で煮こんで食べたい、と思う。
節くれだった指を骨といっしょに噛み砕いて、爪を飲みこみたい。手のひらの厚い皮を柔らかくして、ナイフで少しずつ切りとりたい。
この人の手を腹の中に所有したい。
この人を所有したい。
でも、こんなこと言えるはずがないから、頬を撫でてください、とだけ、懇願した。
−−−−−−−−−−−
あなたは人が良すぎる!
おれは心配なんです。と眉を八の字にして、宮田が言った。
おれは固まる。なにを言っているんだ、こいつは。
おれを苦しめているのはおまえだろう!
「悪い人に騙されてはいけませんよ?」
宮田が言う。
「……悪い人はだれだろうな」
おれは苦々しく返した。
「それはおれですけど」
だったら!と声を荒らげると、宮田は、静かに。と命令した。
おれは口をつぐむ。条件反射だ。
「吾妻さん…、」
おれ以外の悪人に騙されてはいけませんよ?
宮田の言葉におれはゆっくりと頷くしかなかった。
−−−−−−−−−−−
「土下座したらやらせてくれそう、って思ったんですよ」
どうしておれなんだ、と訊いた答えがこれだ。
腹だたしい。忌々しい。こんな侮辱ははじめてだ。
「ちょろくてかわいい、って褒めてるんですよ?」
おれの苛だちを知らないわけでもあるまいに。
おまえはどこまでおれをばかにしたら気がすむんだ。
ちくしょう。
「きらいだ、おまえなんて」