悪魔
「吾妻さん、ランチ、食べません?」
いっしょに。
どうして、あのとき、ああ、なんて言ってしまったんだろう。
後悔してもしきれない。あのとき、あんなことを言ってしまったばかりに、おれは今でも、宮田の道化だ。
「奥さんを泣かせる男は最低ですよねぇ」
吾妻さんもそう思いません?とフォークでおれを指しながら宮田が急に言った。
「どういう…、」
「意味か?あなたが南波くんと週末していることですよ」
ふ、り、ん。
と、小さく呟いて、楽しそうに笑う宮田に手が震える。
「いやぁ、驚きましたよ。まさかあのまじめな吾妻滝生が不倫していたなんてねぇ、」
しかも、男と。
そうニヤニヤしながら、おれの顔を見つめる宮田にわからないように、背中に汗をかく。
隠せ。隠せ。隠せ。動揺を隠せ。けっして悟られないように。
「あいかわらず、冷静で無表情ですね。どうしたら、あなたの表情を崩せるんでしょう…。悔しいなぁ。だから、奥さんと子どもさんに写真を見せてもいいですか?」
だめだ。隠せない。汗が噴き出す。
写真?写真とは?妻に?子どもに?見せる?写真?写真とは?
「おっ、やった。やっと表情を崩してくれましたね」
「おい、宮田、写真、って、」
「あっ、はいはい、これです」
ペラ、と宮田が出した写真には、六太とおれが腕をくんで隠れ家に入っていくところが写っていた。
「まさに愛ですよねぇ。南波くんのためだけにマンションまで借りちゃうんですもんねぇ」
妻にこれを見られたらおしまいだと思った。
腕をくんでいるだけだったら、酔った悪ふざけで、と言い訳はできただろう。
でも、写真の中の六太の顔は、そして、おれの顔は、妻にも久しく見せたことがないくらい幸せそうに笑っていて、さらに、さぁ、これからこの男とセックスをするのだ、という欲望に満ちた瞳をしていたから。
幼い子どもにもわかるくらい雄の顔をしていたから。
「……黙っていてあげても、いいんですよ?」
冷や汗に濡れたおれに宮田はやさしく囁く。
おれは知っている。これは悪魔の囁きだ。悪魔の取引だ。
「どう、すれば…、」
でも、妻と子どもに欲に負けた姿を晒されるのだけは避けたかった。
「おれと寝てください」
一回だけでいい。それだけでいいんです。
どうして、あのとき、ああ、なんて言ってしまったんだろう。
「なにやってるんですか。吾妻さんが下ですよ。ほら、服を脱いで」
いやいやいや、と宮田はおれの胸を押す。呆れながら、見下しながら、命令する。さぁ、服を脱ぎなさい、と。
「なんで、おれが吾妻さんに抱かれなきゃならないんですか。たりない頭でよーく考えてみてください。弱みを握っているのはおれ、立場が弱いのはあなた、あなたを陵辱するのは、」
おれです。
逆らえない。そう感じた。
逆らいたい。そう願った。
「ほらほら、四つん這いになって、よーく穴を見せてください」
おれは、宮田の言うがままに服を脱がされて、人形のようにベッドに転がされ、恥部を晒された。
「顔を隠さないで」
あまりの恥ずかしさに枕に顔を押しつけていたら、宮田から鋭い怒号が刺さった。
顔を隠さないで。もっとよく見せてください。
「……いやだ」
「へぇ、」
拒むと、尻を叩かれた。
悪い子ですねぇ。おしおきしてほしいんですか?
と、宮田が口角を吊り上げながらおれの耳の裏を舐める。
背筋に電流が走って、頬が熱くなった。
「恥ずかしがらないで。あなたの声を聞かせてください」
それでも、拒みつづけると、それまでゆっくり身体を這っていた宮田の手は、強く性急に動くようになった。
激しくなった刺激に思わず声が漏れて、屈辱からだろうか、涙が零れる。
「あ、あ、あ、」
恥ずかしい。恥ずかしい。いっそ殺してくれ。と懇願しながら、チラリと宮田を見ると、手に機械を握っていた。
熱に蕩けて正常に働かない口の代わりに、視線で、それはなんだ、と腰をふる宮田に訴える。
「ああ、これですか?」
録ってるんですよ、あなたのかわいい声。
宮田がそれはもう楽しそうに笑った。まるでいたずらが成功した子どものように。
おれは頭の靄が晴れて、パニックになる。どうして、なぜ、なぜ!
「どうして…、どうしてそんなことを…ッ、」
「えっ?ははっ、どうしてって、」
まじめなあなたの顔をぐちゃぐちゃにしたいからですよ。
宮田は涼しい顔でにっこり笑った。
どうしようもなくだれかを傷つけたくなるとき、ってありませんか?
(だめだ。こいつとわかりあえる気がしない)
絶望とは、ああいう笑顔を見たときに感じるのか、とシーツで手首を縛られながら思った。
「吾妻さん、ランチ、食べません?」
いっしょに。
で、のこのこついてきちゃうのが吾妻さんのかわいくてばかなところですよねぇ。このあいだおれにやられたこと忘れたんですか?
宮田はアメリカ特有の硬い肉をナイフでギチギチ、音をたてて切りながら言う。
そんなことおれもわかっているし、そこまでばかじゃない。と声を荒らげれば、ああ、怒っちゃいました?と、宮田は顔も上げずに返した。
「……で、なんの用だ」
そんなことおれもわかっているし、そこまでばかじゃない。
でも、おそろしい。こいつはおれの弱さを握っている。写真。音声。記憶。
記憶。
あの夜の宮田の表情を思い出して、頬が赤くなりそうになる。
こんな飄々とした男が一瞬でも、必死な表情をした!
その事実に処女のようにうれしくも、恥ずかしくなる。年甲斐もなく。おれはこの男に強姦まがいのことをされたというのに。
「えーっと、お尻、痛くないですか?」
「……おい、」
「嘘、嘘、あのですね、」
そんなおれの葛藤も知らずに、宮田はケタケタと笑う。そんな無邪気さが恨めしかった。
「おれとのことを気にしてるからなんでしょうけど、最近、南波くんと会ってないじゃないですか」
宮田の発言に頭の中が真っ白になった。
「だめですよ。すきなら態度で表さないと。そうでなくても、愛人なんて、不安になる立場なんですからね」
さぁ、お返事は?
と、首を傾げる宮田がわからない。
「どうして……?」
おまえは、おれと妻の仲を、おれと六太の仲を、裂こうとしていたんじゃないのか。おまえは、あのとき、悔しい、と言っていたじゃないか。だから、おれを脅して、抱いたんじゃないのか。
そうだろう?そう言ってくれ。頼む、じゃないと、あまりにおれが救われないじゃないか。
(そうだろう?)
けれど、祈りに反して、宮田は一瞬、きょとん、と間を空けたあと、言った。
「えっ?ははっ、どうしてって、」
おれが、吾妻さんのことなんて、どうでもいいと思ってるからですよ。