えらんで



「へぇ、あのムッちゃんが選んだから、どんな女かと思ったら…、」

その男は、喫茶店に入ったそのときから、女たちの視線を独占した。端正で爽やかな顔、逞しい身体つき、なによりも男の醸し出すオーラのようなものに、女たちの瞳はとろんと溶けて、雌の匂いを無意識にふりまいていた。

わたし以外は。

男は金色の瞳を瞬かせて、わたしを見つけると、親しげな顔をして近づいてきて、開口一番、

「なーんだ、ただのブスじゃないか」

と言い放った。
周りの女たちは唖然としている。あの爽やかな、人の良さそうな顔をしている男性が、女性(わたしたち)にブスだと言い捨てた!
女たちは一瞬で男を敵とした。そして、軽蔑した言葉を、ヒソヒソ、男の身体にまとわりつかせた。それによって、男にじぶんたちの不平不満をわからせようとした。

「コーヒー」

でも、男はそれにまったく気づかずに、ウエイトレスに飲みものを注文する。

こういう男だと覚悟して、わたしは今日ここに来た。

「…で、今日はなんでおれを呼んだの、」

お義姉さん。
男はコーヒーを一口飲んで、にっこり、わたしの役職名を呼んだ。

「六太くんのことであなたと話がしたいの、」

日々人くん。
わたしも目を逸らさずに、しっかり、婚約者の弟の名まえを呼んだ。

その響きに吐き気がする。こんな男の名まえなんて言いたくなかった。わたしの愛しい人の心を縛りつづける男の名まえなんて。
男も不快そうに眉をひそめた。
吐き気がするのはお互いさまでしょう。と男の金色の髪を眺めながら心の中で言い捨てる。

「あなた、六太くんのことがすきなんでしょう」

遠回しに攻めても、埒が明かない、と思った。
女たちの露骨な不平不満に気づかないような男だから。

「なんで」

男はコーヒーカップをソーサーに叩きつけて、わたしの目を射るように睨んだ。

(やっぱり)

と、わたしはため息をつく。
はぁ…、わたしの思いちがいだったらよかった。

「なんで…?そんなの、あなたを見ていれば、すぐにわかる」

だって、あの人を見つめる瞳が初恋の少女のようだから。と口には出さずに、でも、雄弁に、声音で語った。
あなた、まるで初めての恋に支配されている女の子みたいね、と。

「ふーん。女の勘ってやつだね」

けれど、男は女の勘だとか、見当ちがいなことを言って、一人で納得している。
そういうわけではないのだけど…。と思いつつ、でも、しかたない。こういう男だと覚悟してわたしは来たのだから。

「そうね」

だから、曖昧に相槌をうった。本題はそんなことじゃない。

「ははっ、そうね、だって!」

でも、男はその曖昧な相槌にこだわった。なぜかはわからない。わかりたくもない。
男は、そうね、そうね、そうね……。と口の中で数回、そうね、をリフレインする。

「わかってるなら、おれにムッちゃん、返してよ」

そして、男は氷点下の瞳で訴えた。
返してよ。その言葉のなんという傲慢さ!なんという卑しさ!なんという、なんという…、
吐き気がする。
殺してやりたくなった。

「できない」
「なんで」
「わたし、子どもができたの」

わたしは呪いながら、祈った。どうか、この一言で男の戦意が喪失しますように。(しないだろうけど。わたしが殺されるかもしれないけど)

「へぇぇぇ、おめでとう!」

激高して殴られると思ったわたしは拍子抜けしてしまった。
男はまるで『ふつう』の弟のように、義姉であるわたしの懐妊を祝福した。

「その中に子どもがいるなんて信じられないや」

そう言って、わたしの腹を眺める男の瞳はあまりにも『ふつう』で、わたしは混乱する。
この男は『ふつう』じゃない。『ふつう』じゃない。『ふつう』じゃない。
そういう男だと覚悟して、わたしは今日ここに来た。
だけど、どう?今の男は『ふつう』だ。『ふつう』だ。『ふつう』だ。

「……お義姉さん、」

『ふつう』の男は、わたしの役職名を小さく呼んだ。吐き気はしなかった。
なぜしなかったのだろう。それは、わたしが男に気をゆるしたということだ。『ふつう』の皮に騙されたということだ。男に騙されたということだ。ゆるせない。男はそれを意識的にしたのだろう。
その証拠に、男が『ふつう』の皮を脱いだのは、わたしが騙されてすぐだった。

「おれがはじめてムッちゃんを恋愛対象として意識したのは、5歳のとき。ムッちゃんが鼻血を出して、泣いていたときだった」

騙されていたわたしは、脳がついていかない。恋愛対象?どうしてそんな話になるの?

「かーわいかったなぁ!ムッちゃんにそっくりの子どもができたら、おれ、手を出しちゃうかも!」

『手を出しちゃうかも』
その言葉で正気に戻る。そうだ。この男は『ふつう』じゃない。『ふつう』じゃなかった。
幼い子どもに乱暴できる男なんだ。
そう確認して、脳が怒りで沸騰する。今思うと、それは、母性本能というものかもしれなかった。

「そんなこと…ッ、」
「いやだ?それなら、あなたの選択肢は三つ」

『ふつう』じゃない男はにっこり笑いながら、左手の人さし指を一本。

「一、ムッちゃんをおれに返す」

これが一番、賢い選択だね。と首を傾けて、それに、中指をもう一本。

「二、子どもをおれにさし出す」

いわゆる、人身御供ってやつ?と笑って、さらに、薬指を一本。

「三、なにもしない」

どう?
そう言って、眉を上げる男が憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い!
吐き気がする。
殺してしまいたい。

「いいえ、」

冷たい声で拒絶する。
いいえ、わたしは、そのどれも選ばない。

「四、あなたと戦う」

ぜったいに負けない。あんたなんかに、ぜったいに負けるもんですか。

「そっか」

そう高らかに宣言したあと、男は、残念そうに呟いた。
殺人鬼みたいに。悪魔みたいに。


「おめでとうございます」

こんにちは、お義姉さん。と、男が笑う。
平日の昼間、玄関を開けたら、配偶者の弟が立っていた。

「今日、来るなんて、聞いてな、」
「だって、だれにも言ってないからね。お義姉さん、ぜったい、断るでしょ。わざわざおれになんか会いたくないもんね」

そうでしょ?
そう言って、首を傾げる男が憎い。
男はあいかわらず飄々としていて、そんなこと、どうでもいいからさ、早く子どもに会わせてよ、とのたまった。

「まさか、帰って、なんて言うつもりじゃないよね」

なぜ、男を家に入れてしまったんだろう。後悔しても、しきれないけど、後悔だけが残っている。

「ふーん」

わたしと六太くんの愛の結晶に向けた男の第一声に眉をひそめる。称賛を浴びせろ、と言うつもりはないけれど、もっと、こう、なにか言うことがあるんじゃないの?
不満が顔に出ていたのだろうか。ブスがさらにブスになるよ。と男が言った。
憎たらしい。わたしは、つい、なにか言うことがあるんじゃないの?と口から不満を形にして出してしまった。

「よかったね。お義姉さん、結婚前に子どもをつくるくらい、焦ってたもんね」

悪い?と能面のような声が響く。
焦って悪い?早く結婚したくて悪い?やさしい年下の男の子に頼って悪い?やさしさにつけこんで子どもをつくって悪い?

「いや?おれみたいなのがいたら、女の武器を使うのはあたりまえなんじゃない?」

妊娠を女の武器と言うか!
憎たらしい。歯ぎしりをする。こんな男とわたしの愛しい旦那さまはほんとうに血が繋がっているのだろうか。

そのとき、電話が鳴った。
男と同じ空間にいることに耐えられなかったわたしには、着信音が天使のように聞こえた。だから、男を残して部屋を出た。部屋を出てしまった。
今なら、どうして電話なんてしたの、と責めたくてたまらないけれど、悪いのは、忘れていたわたしだから。だから、六太くんはなにも悪くない。悪くないの。

『日々人が来てるのか。あいつ、連絡もいれずに…。育児で疲れてるのに…、ごめんな。おれからもよく言っておくよ』
『いいの。大丈夫だから…。六太くん、お仕事がんばってね。うん…、じゃあまた』

電話を切って、ふぅ、と息をつく。六太くんとの会話はわたしにとっての酸素だと思った。
だとしたら、あの男との会話は一酸化炭素…、と考えながら、男がいて、子どもの寝ている部屋の扉をなんとなく眺める。

いやな予感がした。

なにか、得体のしれないなにかが、この、扉の向こうで、蠢いているような、いやな予感が。

心臓がどくどくどくどく、うるさい。見るな。見るな。やめろ。やめろ。うるさい。うるさい。うるさい。
すべてを無視して、そろそろと扉を開けて、目を見開いた。

「なにやってるの!」

暗闇の化けものをむりやり押しのけて、わたしたちの子どもを抱きしめる。
子どもの顔にはべったりと白濁がかかっていた。

眩暈がする。

この男はなにをするのかわからない、危ういところがある、と知っていた。
でも、まだ目も開いていない子どもに性欲を吐き出すなんて、思ってもみなかった。
そんなこと、考えたこともなかった。

「なに、って…、」

暗闇で目だけを輝かせて、下半身を露出した化けものは笑った。
やだなぁ、なに言ってるの?と言外に含ませながら、

「おれ、あのとき、言ったよね。『ムッちゃんにそっくりの子どもができたら、おれ、手を出しちゃうかも』って、」

ねぇ、お義姉さん。忘れたわけじゃあないでしょう。

そうだ。男は『ふつう』じゃない。男は悪魔だった。わたしの心を殺す殺人鬼だった。
どうして今まで忘れていたんだろう。
毎日があまりに幸せだったから?男が今日まで接触してこなかったから?男が『手を出しちゃうかも』と言ったとき、脳が怒りで沸騰したじゃない。それなのに?

『手を出しちゃうかも』

あのときの男の言葉と、白濁が結びついて、再び脳が沸騰する。そうだ。この男は『ふつう』じゃない。『ふつう』じゃなかった。幼い子どもに乱暴できる男なんだ。

「こんな…ッ、こんなことをするぐらい、あの人の子どもが愛しいなら!わたしが憎いなら!包丁でも鋏でもなんでも!わたしを刺せばいいじゃない!」

子どもを抱きかかえて、怒りに身をまかせてそう叫ぶと、男は大口を開けて、身体を折って、わたしを嘲笑った。

「はぁ?子どもが愛しい?ばっかじゃない。あんた、なにかんちがいしてんの?」

なにが!とヒステリックに髪をふり乱すわたしを、男は言葉の平手でパンと撃った。

「あんたに似てる、あんたの血が入った子どもなんて、いやだよ。いやに決まってる。でも、しかたないから、がまんしてあげる。がまんして、あ、げ、て、る」

そして、男は朗々と演説をする。政治家のように。国民のように。殺人鬼のように。悪魔のように。
わたしの瞳を見据えて。

「おまえなんて眼中にないよ」
「おまえに復讐してると思った?」
「じぶんが憎んでる相手に同じように憎んでもらえるなんて考えないほうがいいよ」
「おれが憎いのはおまえなんかじゃないよ」
「おれが憎いのはね、おれというものがありながらおまえを選んだムッちゃんだよ」
「おまえなんて敵でもないよ」
「おまえを、おまえの子を、傷つければ、苦しめれば、ムッちゃんが傷つく。ムッちゃんが苦しむ。おれの憎しみを、おれの想いを知る」
「それが目的で、おまえとムッちゃんのまがいものは手段だ」
「手段を憎むかな?手段に復讐するかな?」
「しないよね……」
「ねぇ、お義姉さん、」
「えらんで」

えらんで。

腕の中の熱が、ほぎゃあ、と鳴いた。
強烈に思う。
生きてる。生きてる。生きたい。


『………うん、先月、別れて、』

電話の奥のムッちゃんの、憂いの表情が手にとるようにわかる。
かわいそうに。最愛の妻と子どもと離されて。淋しいだろうね。悲しいだろうね。

『そっか…』

つらいだろうね。
でも、同情はしない。ムッちゃんがますます惨めになってしまうだろうから。
同情はしない。同情、は、しない。
そのかわり、やさしく慰めてあげる。
聖母のように微笑えんで、右耳に神経を集中する。ムッちゃんの声がかすれて、かわいい。うん…。うん…。と相槌をうちながら、さあ、どうやって、慰めようか、と逡巡する。

『どうして、こんなことになっちゃったのかな…』

そう悲しそうに訊いてきたムッちゃんに、ひらめいて、おれは一拍、間を空けて、やさしく毒を盛った。

『夫婦の問題におれがとやかく言う資格はないけどさ…、愚痴くらいならいくらでも聞けるよ?ねぇ、おれ、今、ムッちゃんの会社に近くにいるんだ。これから飲みに行かない?』

なんで?それはね、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーんぶ、おれのせいだよ。
…そして、

『うん…、うん…、ありがとう、日々人…』

そして、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーんぶ、ムッちゃんのせいだ。
おれがいるのにあんな女と子どもまでつくってさ…。
ひどいよ、ひどい。だから、ね?

『やだなぁ、泣かないでよ。こんなの、あたりまえでしょ?だって、おれたち、』

ムッちゃん、かわいいおれのムッちゃん、ムッちゃんの一番欲しい言葉をあげるね。
だけど、これは毒だ。中毒になって、快楽になって、おれを手放せなくなるよ。

『兄弟でしょ?』

そう囁いて、泣いているムッちゃんを慰めて、うん…、じゃあ、またあとでね…。と通話を切って、ほくそ笑む。

(お義姉さん、賢いお義姉さん、正解ですよ。あなたは正しい選択をしました。ムッちゃんをおれに返すこと。ムッちゃんを捨てて、子どもをとること。子どもとおれの繋がりを断つこと。すばらしい。模範回答です。…でも、まさか、養育費まで断るとは、思わなかったなぁ)

そんなにおれがこわいんですか。と、もう会うこともない女に言ってやりたい。
女はまた、あの勝ち誇った瞳で、そうね、と言うのだろうか。それとも、あの高い高い自負から、いいえ、と言うのだろうか。

(……お義姉さん、)

でも、もうそんなことどうでもいい。あの女とも、愛しい兄のまがいものとも、もう会うことはない。顔も、声も、存在も、すべて忘れていくんだろう。
今、たしかなことはたった一つだ。
そうでしょう?お義姉さん、

(おれの勝ちですね)

おれは数年ぶりに心の底から笑った。女の悔しさに歪んだ顔が浮かぶようだった。

「えらんで」

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