畜生



「ごめんな、ごめんな、でも、おまえが悪いんだよ。おまえがおれにあんなことしたから、」

おまえが悪い。
そうじぶんに言い聞かせながら、日々人を遠い遠い山に捨てた。

動くなよ。まて。まて、だ。

手のひらを日々人によく見えるようにかざして、後ずさりする。そうして距離をじゅうぶんにとったあと、背を向けて急いで車に乗りこんで、日々人の悲しい鳴き声に心が動かされないように、大きくエンジンをふかした。

「おまえは今日からおれの家族だよ」

ある雨の日、ずぶ濡れの犬を拾った。
そのときのおれは、仕事でミスをして、憧れのあのこはふりむいてくれなくて、一人の部屋がやけに広くて、単純に言えば、淋しかった。
なんでもいいから、隣に生きものがいてほしかった。

「おれたちは家族だよ。ずっといっしょだよ」

だから、部屋に連れていって、宥めながらふろに入れて、コンビニでわけもわからず餌を買って、あたたかいふとんでいっしょに寝て、やさしい言葉をかけて、名まえをつけた。

『日々人』と。

「ねぇ…、あの犬、ずーっとこっち見てるんだけど…、」

気味が悪い。捨ててよ、南波さん。

日々人と暮らしはじめて少したった頃、恋人がいたことがある。
でも、すぐに別れた。その女が日々人を邪険に扱っていたからだ。おれのいないところで日々人を殴っていたことを知ってしまったからだ。
おれは怒って、泣いて、女と縁を切った。

瞼の腫れたおれを気づかう日々人が愛おしくて愛おしくて、ゆるせなくて、

「おまえが恋人だったらいいのになぁ」

ひどい。おまえを殴る奴がいるなんて。
そう言って泣きながら、日々人の柔らかい毛を撫でなければよかった。
そんなことを後悔する日がくるなんて、考えてもみなかった。

なんで、なんであんなことしたんだ。

「うわっ!」

シャワーをあびて、そのまま、ビールビール、と冷蔵庫へ。
そのとき、腹に衝撃がぶつかって、しりもちをつかされた。
こんなことをするのは一匹しかいない。日々人だ。

「いつつ…、こらっ、日々人、」

ふざけるのもいいかげんにしろ。
そう言って覆いかぶさっている日々人を、やれやれ、どかそうとして、ふ、と日々人と目が合った。

獣がいた。

そこには、おれの知っている日々人の姿はなかった。暗闇の中、獣の赤い瞳が浮かんでいた。

「ひ…っ、」

欲情した荒い息が身体を包んでいく。本能に支配された生きものが身体の上に君臨している。圧倒的な力の洪水に飲みこまれていく。
そうか、犯される、とはこういうことか、おれはこれから犯されるのか。
だれに?なにに?犬に?男に?日々人に?

(いやだ)

おれは身を捩って力から逃れようとした。でも、日々人に頸動脈に牙をたてられて、すぐに従順な草食動物になってしまった。指の一本も、動かせない。このままこのまま、食べられるしかないのか。
だれに?なにに?犬に?男に?日々人に?
いやだいやだいやだいやだ。
逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい。
こわいこわいこわいこわい。

こわくておそろしくて、失禁するのは映画だけの嘘じゃなかった。
フローリングの床に広がっていく液体を眺めながら、羞恥と焦燥に身を焼かれながら、首すじの牙が下に移動していくのを感じた。
そして、

(……あッ、)

日々人は、おれの、液体が、今も、じょろじょろ、出ている、ところを、

べろり、と舐めた。

「やめろ…ッ!」

あまりの恐怖に、思わず日々人の頭を殴った。

ギャン。

悲鳴が心に刺さる。人を殴ったときとはちがう、弱くて小さな命を捻り潰したような、すさまじい罪悪感で、一瞬、声が出なくなった。

「あ、あ、」

そうか、動物を殴るとこんな気もちになるのか。
あの女も、こんな気もちになったのだろうか。そうだろう。この味を知って、なお、殴っていたとしたら、それは、なぜだろうか。おそろしかったのだろうか。それとも、おれのためだったのだろうか。

その罪悪感のせいにする気はないけれど、それを感じてしまったばっかりに、日々人を強く拒むことができなくなってしまったことはたしかだ。
日々人が再びおれの身体にのしかかって、瞳の奥を欲で血走らせながら、おれの下半身に舌を這わせてきても、抵抗することができなかった。

(罪悪感のせいだ罪悪感のせいだ、ぜんぶあの罪悪感のせいだ。だから、こわいとか、気もちいいとか、そんなことは…、)

ない。と、言い切れるだろうか。
日々人が内蔵に侵入してきた瞬間に揺れた腰を、どこか遠くで感じながら、思った。

「おまえが悪い」

怠い身体とじくじく痛む腹から目をそらしながら、まだ暗い山道を走る。後部座席ではしゃいでいる日々人は、あれが悪い夢だったのかと思うほど、いつもどおりで、いったいおれはなにを必死になっているんだ、帰ろう、と言いそうになるたびに、夢ではないよと、腹がじくじくじくじく、

じくん。

「ごめんな、ごめんな、でも、おまえが悪いんだよ。おまえがおれにあんなことしたから、」

遠く遠く遠くへ。もう会うことができないくらい、会わなくてもいいくらい、忘れるくらい、遠くへ、日々人を捨てた。
そうしなければいけない。そうしなければ、おれの精神が死ぬ。そうしなければいけない。

「ごめん。でも、おまえが悪い」

ああ、あの日のように、雨がふっていなくてよかった。決心がにぶるところだった。ほんとうにそれだけが救いだった。あの日のように…、

『おまえは今日からおれの家族だよ』

……だめだ。あんなことをされたのに涙が止まらない。やっぱり日々人は家族で弟だ。ずっといっしょにいたかったよ。

でも、だめだ。

荒い息が、獣の臭いが、五感を支配して、汗があとからあとから額を流れる。吐き気がする。

「なんで…?」

なんで、なんであんなことしたんだ。

(日々人、)

慣れというのものはおそろしいもので、おれはいつものように言ってしまった。

「たーいま」

ああ、そうだ。もう帰りをまっているあいつはいないんだ。
そうだ。おれがこの手で遠い遠い山に捨ててきたんだから。

「おけーり」

それなのに。

ぶわわ。汗が噴き出す。
だれだ。なんだ。どうして奥から声がするんだ。
歩き出してたしかめたいのに、足が根をはってしまって、動くことができない。

バタバタと足音がする。
その聞き覚えのあるリズムに震えた。

「遅かったね」

知らない男が手をふりながら走ってきた。
よく見ると、おれのシャツを着ている。

「どろぼう!」

そう叫んで背の高い金髪の男を殴ろうとした。けれど、男の広い胸板に押し潰されてしまった。

「ひどいよ、ムッちゃん…、」

なんだ?だれだ?どうして?
おれが怯えた表情をしていたのだろうか。なぜという瞳で訴えていたのだろうか。
男はおれの身体をしめつけながら、言った。

「日々人だよ」

服、黙って借りちゃってごめんね。でも、裸だとムッちゃんはいやかなって、思って。

男の声音がおれにいたずらを叱られた日々人の鳴き声にそっくりだった。
でも、

『日々人だよ』

信じられるか。だって、日々人は、
だって、日々人は、おれが遠い遠い山に捨ててきたんだ。それなのに、今、どうして、ここにいるんだ。
……いや、まず、まず、日々人は、

「犬じゃないか…!」

そうだ。日々人は犬だ。人間じゃない。日々人は犬だ。犬だ。まちがいなく、日々人は犬だ。

犬だ!

「そうだね。だから?」

でも、自称日々人の男は、そんなこと、どうでもいいじゃない。と、おれの背中をなだめるように、ぽんぽん、たたいた。
その手つきがおれが日々人を撫でるものと似ていて、吐き気がした。

「どうでもよくなんかない!」

おれは大声を出して、背中の手を止めさせる。
今まで、日々人に聞かせたことがないような大きな声で。

「どうしたの?なに怒ってるの?おれは、なんでムッちゃんがおれを山に置き去りにしたのか、よくわかんないけど、こわかったよ、悲しかったよ、淋しかったよ。でも、それは、もういいよ、って、なにも言わないのに、それなのに、」

ひどいや。
男は泣きそうになりながら、とつとつと語る。
心臓がぎゅうぎゅう痛んだけれど、それをむりやり無視して、男の胸板を叩く。

「ちがう。そんなことじゃない。日々人?ほんとに日々人、日々人なら、どうして人間に…、」

ああ、ちがう。そんなことあるわけないだろう。こいつは頭のいかれた変質者だよ。そんな奴の言うことを信じるなんて、信じそうになっているなんて、

どうかしてる。

「やっと信じてくれた…!」

でも、日々人に擬態した変質者があんまりうれしそうに笑うから、信じそうになっちゃうだろ。

「人間に、ムッちゃんと同じになれたんだ。だから、会いにきたんだよ」

男はそう言い切った。真剣な瞳で、真実だ、という顔をして。

(信じそうになっちゃうだろ)

でも、なれた?会いに?おれに?日々人が?犬から人間に?

(それなら、)

それなら、

「なんで…?」

なんで今ここにいるんだ。
なんで帰ってきたんだ。

なんで、なんであんなことしたんだ。

人間になれたなら、おまえは自由だ。どこへだって行ける。こんな狭い部屋に閉じこめられる必要なんてないのに。
それなのに、なんでわざわざおれなんかに執着するんだ。

「なんで?なんでって…、なんでってさ…、」

日々人と思われる男は、喉の奥でくつくつと笑った。それはもうおかしそうに。

「だって、ムッちゃん、言ったじゃない」

おれたちは家族だよ。ずっといっしょだよ。って。
おれが恋人だったらいいのになぁ、って。
だから、おれ、がんばって、ムッちゃんのまねっこしたんだよ?

『ねぇ…、あの犬、ずーっとこっち見てるんだけど…、』

よかったぁ。ムッちゃんがメスとしてるとこ、よーく見ておいて。
気もちよかったでしょ?

「ね?」

そう耳元で囁いて、男はおれの首に頭を擦りつける。
その髪の感触が日々人の感触と同じで背筋が一気に冷えた。

おれはこの感触を知っている。
こいつは、この男は、まぎれもなく、日々人だ。

「ずっといっしょだよ」

子どものように日々人が微笑む。それはもう無邪気に。なにも知らない獣のように。顎をかりかりと掻いてやったときと同じ、幸せそうな笑顔で。

ああ、と、瞼を閉じる。

(愛情なんてかけなければよかった)

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