結婚



「南波、悪い、おれ、他人が口をつけたら、飲めなくて、」

あのとき、おれの顔は引きつっていなかっただろうか、と今でも思う。

飲みかけのコーヒーをなにげなくさし出した、あのとき。
断られて、右手をあてもなく宙に彷徨わせた、あのとき。
『たにん』というたった三音の言葉が広いリビングに反響した、あのとき。

あのとき。

過信していたのかも。と一人で思う。
新田に愛されてる、って。おれは新田に愛されてる、って。だって、新田とおれは…、って。
過信していたのかも。

ばかみたいだ、そんな根拠ないのに、ただ信じてた。
新田とおれは他人で、他人でしかなくて、おはようのキスをしても、(おやすみのセックスをしても、)おとぎ話のお姫さまみたいに、結婚なんてできない。

新田とおれは他人だ。
新田とおれは身内にはなれない。

(そうだ。そもそも男同士だし)

でも、認めたくなかった。ずっと無視してた。
認めてしまったら、なにもかもが、壊れてしまう気がして。

なにも生産しないから、なにも生産しないなら、おれたちの関係には意味がない、なんて、考えたくもなかった。

「一口」

時が経って、『たにん』の響きが薄れた(と、思いこんでいた。ほんとうは心の奥で、いつも響いていた)、ある日、

「一口」

と、新田が言った。

「えっ?」

だから、一口。と新田は怒ったような口調で言う。
おれの手に握られたミネラルウォーターのペットボトルを指しながら。

(一口?一口だって?そんな、おまえ、一口、一口、って…)

一口、一口、と頭の中がぐるぐるしながらも、夢遊病のように無意識にペットボトルを手わたして、ぼんやりと新田の唇の動きを見ていた。

……どうしよう。

「ありがとう」
「あ、うん」

中身の減ったペットボトルを見て、思う。

どうしよう。うれしい。

(涙が出るくらい)

考えたことはない?なにも生産しない関係に意味はあるのかって。男同士の恋愛に意味はあるのかって。

考えたことはない?おれはあるよ。考えて、考えて、眠れなくなるくらい。

男同士の恋愛に意味はあるのか?
なぜ生産性のない行為をするのか?
男同士の恋愛の最終的な形とはなんなのか?
異性同士で求めるものと同じ『結婚』なのか?
法律で定められたら満足なのか?
法律に守られたら満たされるのか?

…いや、ちがう。
おれは、ただ『身内』になりたいだけだ。
『他人』でいるのがいやなだけだ。
あいつに一番近い人間になりたいだけだ。

だから、『結婚』という異性同士の恋愛の、最終形に憧れるんだ。

(わかってる。それが最終形じゃない、ってことくらい。でも、それはぜったいだ。そう思う。でも、まだ、なにも知らない幼い女の子みたいに、せめて夢だけでもみていたい)

だから、

「ねぇ、新田、結婚しよう。結婚、結婚しようよ、ねぇったら、」

でも、できない。
いや、できる。
でも、できない。

いや、できるよ?ここはアメリカだ。しようと思えばできる。できるけど、だから?
ばか。結婚なんてできるわけないだろ。してどうするんだよ。

法律で定められたら満足?
世間体がこわい?

そもそも求めているのは、世間に認められることじゃないだろう。

おれはあいつに一番近い人間になりたいだけ。

「南波、悪い、おれ、他人が口をつけたら、飲めなくて、」

そんなときに言われた『たにん』は、いつまでもいつまでも、おれの心を縛りつけた。
いつまでもいつまでも……、

(ロボットだったらよかったのに)

感情のないロボットだったらよかったのに。
ロボットだったらこんなに悩まなかったのに。
生産性のないロボットだったら、こんなにつらくはなかったのに。

むだに生殖器がついているからつらくなるんだ。
こんなものがついているせいで、子どももできないのに、欲をがまんできないんだ。

もういっそ去勢しちゃいたいよ。

「一口」

だから、ほんとうにうれしかったんだ。
涙が出るくらい。

他人が口をつけたら、飲めないんじゃなかったっけ?

「新田、お、おいしかった?」
「なにが」
「水が…」
「水にうまいもまずいもないだろ」

『他人』なんてやだよ。おまえに一番近い人間になりたいよ。おまえの『身内』になりたいよ。

「うん、うん、そうだよな…」

ねぇ、新田、

他人じゃない?他人じゃない?他人じゃない?
ねぇ、おれ、今は、おまえと、他人じゃない?

身内に、なれた?

「もう一口くれ」

なれた?なれた?身内になれた?もう他人じゃないよね?他人じゃないよね?
信じていいよね。新田に愛されてる、って。過信してもいいよね。
新田とおれは…、一番近い人間だよね?

「うん…」

大丈夫。大丈夫。今はあのときとちがって根拠があるから、大丈夫。

(ねぇ、新田、それ、さっきまでおれが口をつけてたやつだよ。他人が口をつけていたペットボトルだよ。あのとき、それを理由にして断ったよね。拒否したよね。覚えてる?忘れちゃった?おれは覚えてるよ。忘れたことはないよ。ずっとずっとずっと心の奥で響いてたよ。新田は考えたことはない?男同士の恋愛に意味はあるのかって。おれはあるよ。意味なんてないよ。結婚なんてできないよ。おれたちは他人だ。他人なんていやだよ。おまえの身内になりたいよ)

なれたね。

「ん、ありが、」
「新田、飲んだ?」
「は?」
「このペットボトルの水、飲んだ?」
「飲んだけど、それが?」

それが?……それに、おれが、どれだけ、心を震わせているのかも知らないで。

「……おい、なんで泣くんだよ!」
「いいよ、新田は知らなくて」

知らなくていいよ。おれだけが知っていればいいんだ。

おれがおまえの身内になれたこと。おれがおまえの一番近い人間になれたこと。

(今日がおれたちの結婚記念日になったこと)

知らなくていい。知らなくていい。知らなくていいよ。おれだけが知っていればいいんだ。

「新田、どうしよう」
「おれもだ。悲しいことがあったのか?」
「ちがうよ。うれしいんだ」

うれしいんだよ。涙が出るくらい。

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