遺書の封



「日々人、もう六太、目をさまさないって」

母ちゃんが真っ赤な目で、皺の増えた目尻を濡らして、言った。
冬がはじまる十月の薄曇りの日だった。

六太が倒れた、と父ちゃんから電話がかかってきた瞬間、血の気が引いたのがわかった。えっ、なに言ってんの嘘でしょいつどこで大丈夫だよね生きてるよね、生きてるよね?
訊きたいことがたくさんあるはずなのに、脳に血がいかなかったからだろうか、飛行機のチケット、病院の場所、ムッちゃんの病状、考えることはたくさんあるはずなのに、冷蔵庫に残った牛乳の消費期限のことばかり気になって、困った。

(ロシアから日本までいったい何時間かかるんだろう…)

気がつくともう日本にいて、大きな大学病院の中にいて、その病院の大きさに安心したような気がする。
でも、それは幻で、赤々と輝く『ICU』のランプに一気に現実に引き戻された。

いきなり倒れたムッちゃんは、いわゆる不治の病というやつで、もう目をさますことはないらしい。眠ったまま、どんどん衰弱していって、少なくとも十日後には、死ぬらしい。

ああ、そうか、こんなに急に、あっけなく人は死ぬのか、と思った。かんたんに人が死ぬことなんて、生きている現実が脆いことなんて、だれよりも理解しているはずなのに。
こんなの、月で死にかけた男が言うせりふじゃないかな。遺書を残して生きている男が言うせりふじゃないかな…。

『ムッちゃんの遺書』

パッと思い浮かんだ。そうだ、ムッちゃんにも遺書がある。もちろんこんな病気を想定した内容じゃないだろうけど、ムッちゃんの意思は残ってる。

よかった、まだ、まだ、よかった。

そう安堵のため息をついた瞬間、思い出す。ムッちゃんの、恋人の、すました顔の男のことを。
憎い憎いあの男のことを。

あの男に宛てた遺書にはなんて書いてあるんだろう。愛してるとか、…愛してるとか?

ムッちゃん、おれには一回も言ってくれたことがないのに、あの男には、遺書の中でも、遺書の中ですら、愛してる、って言うんだね。
遺書の中でも、遺書の中でも…。

殺してやりたい。

「日々人、」

父ちゃん、と返す。頭の中で殺人をしていたのに、親となんでもない表情で話せるなんて、人間ってふしぎだ。

「六太の家に行って書類をとってきてくれないか。ああ、あと、六太の職場にも連絡しなきゃなぁ」

父ちゃんが、新聞をとってきてくれないか、と同じトーンで話してきたからおどろいた。父ちゃん、もしかして、父ちゃんは覚悟ができてたの?

「まさか。おまえたちが、死ぬなら…、宇宙で死ぬと思ってた。でも、まさか、病気でなんてなぁ、六太も予想外だろうなぁ」

でも、おれがしっかりしなきゃなぁ。おれはおまえらと母ちゃんの、父ちゃんだから。
父ちゃんはそうたんたんと呟いて、じゃ、日々人、よろしく。と肩を叩いて去っていった。

やっぱり、父ちゃんって、すげぇや。

(やめろやめろやめろ、ぜったい後悔するから、やめろ)

父ちゃんはおれがムッちゃんになにかするのがこわかったんじゃないか、と思う。最後の最期に、溜めこんでいた想いをぶちまけて、暴走するのがこわかったんじゃないか。
たとえば、眠っているムッちゃんを犯したり、とか?

ばかだなぁ、父ちゃん、そんなことしないよ、きっと、たぶん、約束はできないけど。

父ちゃんは、こういうおれの危うさをちゃんと見抜いてたんだ。もちろん前提にある執着によく似たおれの恋心のことも、ぜんぶ見抜いてたんだ。
だから、おれをムッちゃんから離した…。

ああ、やっぱり、父ちゃんって、すげぇや。

(やめろやめろやめろ、ぜったい殺したくなるから、やめろ)

久しぶりに入るヒューストンのあの一軒家は、おれがムッちゃんと向き合うことを捨てたあの夜とまったく変わっていなかった。

ら、よかったのに。と変わってしまった部屋を見てため息をつく。
じぶんから捨てたくせに、ムッちゃんにはいつまでもおれに執着していてほしかった。
おれみたいにいつまでも。
おれみたいに、ムッちゃんから貰ったマグカップが割れたら、無意識に涙がぽろぽろこぼれるくらいには。
いつまでも。

でも、そんなわけなくて、ムッちゃんの生活はあの夜から変わっていた。
家具の位置がちがう、家電がちがう、植物がない、ソファーはまだ赤いままだけど、食器は増えて、箸は二膳ある、ムッちゃんのものとはちがう、男用の紺色の長い箸が。

あの男のものか。と思った。箸を常備するほど、あの男はこの家に馴染んでいるのか、と。

箸を…、常備するくらいなら。と衝動的に寝室に向かった。
もっと生々しいものを見てやろうじゃないか、と自棄になっていた。

でも、シーツは不自然なくらい健全で真っ白で乱れもなかった。几帳面なあの二人らしい、と思った。
少し残念だった。生々しさを直視したら、このやり場のない気もちがおさまるかもしれなかったのに。

『ムッちゃんの遺書』

思い出した。遺書だ。ムッちゃんの遺書。
どこにあるんだろう。場所はわかってる。机の引きだしの、二番目の奥だ。
ムッちゃんはいつもそこに大事なものを入れていた。高校の卒業アルバムとか小学校の通知表とか中学のときわたせなかったラブレターとか、いろいろ、ぜんぶ、そこに入れてた。
だから、きっと、遺書もそこにある。父ちゃんと母ちゃんと真壁さんと、他にも何人か、それと、おれと、あと、あの男と。

二番目の引きだしに手を伸ばす。
頭の中で警鐘がうるさいくらい鳴っていたけれど、誘惑には抗えなかった。

(やめろやめろやめろ、ぜったい死にたくなるから、やめろ)

勢いよく引きだしを開けると、白い封筒が何枚か見えた。几帳面な字で宛名が書いてある。

『日々人へ』

ぜったい、後悔する、殺したくなる、死にたくなる。
そんな予感がしていたけれど、なつかしいムッちゃんの字を見たら、ムッちゃんが書いたじぶんの名まえを見たら、うれしくて悲しくて、ああ、引きだしを開けてよかった、とそう思えた。

おもむろにじぶん宛ての遺書を手にとって、宛名を撫でる。昔、そうやって頭を撫でてもらったみたいに。
裏返すと、封は几帳面にのりづけされていて、内容を盗み見ることはできなかった。
でも、どうしても気になって、白い封筒を蛍光灯の光に透かしてみる。文字の羅列が心を癒していく。

こんなにたくさん、おれに言葉を残してくれるの?

うれしい。
左手に遺書をもって、右手で引きだしを閉めようとして、気づいた。気づいてしまった。気づきたくなんてなかった。
このまま幸せに浸っていたかったのに。

「封が、」

遺書の封がしていない。
あの男宛てのものだけ、封が開けられたままだった。

そうか、まだ言いたいことがあるんだ。

真実は心の中にストンと落ちて、どんどんどんどん燃えていく。

ムッちゃん、おれ宛ての遺書には、はい、さようなら、って、封がしてあったのに、もうおまえに言いたいことはないよ、って、封がしてあったのに、でも、あの男には、あの男には、まだ、それでも、まだ、言いたいことがあるんだ?

へぇ、そうなんだ。へぇ、なにを言うの?なんて言うの?
…愛してるって?ねぇ、まだ、あの男に、愛してる、って言いたりないの?

おれには一回も言ってくれたことがないのに?
あの男には、もう数を忘れるくらい言ってるのに?

それでも、まだ、遺書の中でも、遺書の中ですら、まだ、愛してる、って言いたいの?

おれには一回も言ってくれたことがないのに。

「……………殺してやる、」

殺してやる。心を殺してやる。おまえだけ、おまえだけ、ムッちゃんの言葉を消してやる。
想いを遺されなくて、死ね。

死ね!

どす黒い気もちで封の開けられた遺書を右手で掴む。
じぶん宛の遺書を生まれたての雛のように左手でやさしく包んだまま。

(厚みがちがう……)

右手と左手の厚みがちがった。絶望するくらい、はっきり、ちがった。
右手の封筒のほうが厚かった。

ムッちゃん、嘘でしょう?
ははっ。乾いた笑いしか出てこない。嘘だろ。こんなにちがうの?
えっ、こんなにちがうんだ?

あの男の遺書には封がしてないね。まだ言いたいことがあるんだよね。
おれの遺書には封がしてあるね。もうおれに言いたいことはないんだね?

あの男の遺書はおれの遺書より厚い。

ムッちゃんはたくさん言葉を残したよ、もういいじゃない、それでも、まだ、言いたいことがあるの?

おれには、もう、言いたいことはないの?

そんなにすきなんだ?そんなに愛してるんだ?

おれとあの男はこんなにちがうんだ?

(……ちがうんだね、)

ぜったい、後悔する、殺したくなる、死にたくなる。
その予感は正しかった。おれは引きだしを開けたことを後悔していて、封のされていないあの男を殺したくなって、遺書の厚みに死にたくなってる。

「ムッちゃん、」

机の上の、おれが投げた月の石に、涙に濡れた瞳で囁く。

「ねぇ、ムッちゃん、どうして……?」

あの男に言った、たった一言だけでいいのに、どうして、おれに、愛してる、って言ってくれないの。

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