「南波、おまえは、非常識だ」
そうだ。こんなこと、非常識だ。
男に目が奪われること。唇に引きよせられそうになること。手を握って連れ去りたくなること。
しかも、それが、もじゃもじゃ頭のおっさんに、だなんて、そんな、
(非常識すぎる!)
こんなのおかしい!こんなのまちがってる!
今、泣いてることも、ぜんぶ、非常識だし、おかしいし、まちがってる、ぜんぶ、なのに、
「……新田、」
かーわいい。
そう言って、南波はおれにキスをした。
……ばかじゃねぇの?
「なっ、なにして、ッ、」
「あっ、やだった?」
「や、とか、そういう、ことじゃな、」
「……新田かわいー」
はぁ?もう、もうほんと、こいつ、やだ、非常識すぎる、ばか、
「かわいくなんてねぇよ……」
大きな身体を小さく折り曲げて、泣いてるおまえはかわいいよ。
そう言って南波はおれの頭を撫でる。母親が幼い子どもにするように、
「よしよし、いいこだねぇ」
−−−−−−−−−−−
「新田って猫みたいだよな」
新田の家に泊まった翌朝、眠い瞼をこすりながら、開口一番に厭味を言ってやる。
「はぁ?つらいなら寝てろよ、今、作ってるから、」
「なにを?」
「うどんだけど」
「うどん?なんで?」
「ったく、あんたが食いたいって言ったんだろ…ッ!」
まあ、いいけど。と新田は作業を再開する。おれはそれを椅子の上から眺めている。新田は作業を邪魔されることがきらいなので、おとなしく座っている。
(それにしても、)
新田は上半身裸で熱くないのだろうか。まぁ、おれは下半身が裸なわけなんだけど。
「…にったぁ、エプロンは?」
「めんどくさい」
「お湯がはねる…、」
「じゃあ、おれのシャツを返せ」
ふりかえってジトリと睨む新田に、いーよ、と返事をして、シャツのボタンを外していく。
裸を見られ慣れているからか、恥ずかしくはなかった。
(今はセックスしたくないからかな。それとも、ムードがないからかな、健全な朝日の下だから)
はい、ありがとう。とシャツの差し出すと、新田はおれを見て、困ったような顔をした。
なんだろう。でも、新田の視線を辿ると、すぐに疑問は解決した。
「新田って猫みたいだよな」
だって、ほら、この歯形!
おれの白い腹の肉に新田の赤い歯形が浮かんでいた。腹だけじゃない。二の腕や内腿や肩甲骨や、
「……ここにも、うっすら、」
右手の小指にも。
「あ、あ〜、南波、あれだ、」
「新田って噛み癖あるよな?」
「なんば、」
「あるよな?」
「あ、ると、思う」
「思う?覚えてない?」
「えっ、と、」
「覚えてないのか〜、じゃあ、おれが痛いからやめてって言ったことも覚えてないのかな〜」
不機嫌そうに、いじわるそうに、噛まれた赤がよく見えるようにしてそう言えば、新田は、叱られた猫のようにしゅんとして、…ごめん。
と言う新田の後ろで鍋が噴火しそうになっていた。
「にった!」
「うっわ、やっべぇ!」
慌てて火を止めて、焦って素手で鍋を触って叫んでいる、新田の背中を眺めながら、心の中で言えない本音を呟いてみる。
まぁ、それが、ほんとは、ちょっと、いや、かなり、
(気もちいいんだけど)
−−−−−−−−−−−
ピンと伸びた背筋が美しい。おぼろげな記憶を辿れば、あの背中にはおれの爪痕があるはずだ。
ううん、あのギリシャ彫刻のような美しい背中におれがつけた赤い爪痕があるのかぁ。
「なにニヤニヤしてんだよ」
「なぁんにも?」
ふふふ、背徳感でゾクゾクしちゃう。たまんないね。うふふふふ、
(おれの、おれの、おーれの!)
小さくステップを踏みながら歌う。おれの、おれの、新田はおーれの。
−−−−−−−−−−−
アイス食べたい。
「アイス?」
「うん、アイス食べたい」
でっかいバニラのやつ、食べたい。と手をパタパタと動かしながら、南波はおれをせかす。
「はーやーくー」
セックスしたあと、すぐ、これだ。もっと、あるだろ、なんか、ともやもやしながらも、望みの品を、ほらよ、とわたした。
「行儀悪いのって気もちいーよな」
と言いながら、ベッドの上でバニラアイスを舐める南波。
汚れるだろ、と眉をしかめても、もう汚れてる、とペロンとスプーンを舐めた。
赤い舌が艶めかしくて下半身が重くなる。
「口の周りがべたべただ」
南波が小さく呟く。おれに向かって、新田、べたべただよ。
「ああ、ああ、」
どうしても抗えなくて、おれは甘い唇を食べる。
−−−−−−−−−−−
ごまかしていいよ。と南波が言った。冷蔵庫の中にある缶ビールを目で指しながら、ごまかしていいよ。
「いいのか?」
「いいんだよ」
今さら、学生のときみたいに、素面でできないだろ?恥ずかしくて。
「だからさ、」
ごまかしていいよ。
そう言って南波は黙った。そんな選択をおれにさせるなんて卑怯だ。南波のこういうところがおれは少しきらいだった。
恥ずかしいのはお互いさまのくせに。
「わ、かった、じゃあ、ごまかす…」
でも、恥ずかしさには勝てなくて、冷蔵庫の中の缶ビールを指さした。
「……味する?」
「しない。でも、飲むぞ」
「ん、」
めちゃくちゃに酔っぱらって頭がぐらぐらして理性がふっとんでわけがわからなくなって、そのままなだれこむように、
それぐらい獣に戻らないと、セックスなんて、恥ずかしくてできない。
−−−−−−−−−−−
なんかはじめてのときよりうまくなってる気がする!
いきなり、急に、最中に、南波が腕を掴んで叫んだ。
はじめてよりうまくなってる!
「いやいやいや、集中しろよ」
「うまくなった。なんで?」
おいおい、それをあんたが訊くのか。
呆れて言葉が出てこない。南波って、ときどき、すごくばかだ。
「なんで、って…、」
「………練習した?」
「はぁッ?」
するわけねぇだろアホかあんた!
南波のあまりばかさに噴火して、勢いよく南波の口に指を入れた。
そんなことを言う口は、そんなことを言う口は、こうしてやる!
「ふっ、うっぇ、えっ、」
「あやまれよ」
喉の奥の奥の奥まで指を入れる。呼吸なんてさせてやらない。苦しめばいいんだ。ばか。
「ご、め、…ッ、ん、」
わかればいいんだよ、と南波の口から指を引き抜く。苦しそうにむせている南波にミネラルウォーターのペットボトルを握らせて、背中をさする。やりすぎたか、と思ったが、先にふざけたことを言ったのは南波のほうだ、おれは悪くない。
そうだ、おれは悪くない。鎮火した頭が、またふつふつと沸いてきて、怒りのままに口が動いた。
練習なんて、だれとするんだよ、男とか?くそっ、吐き気がする、なんでわざわざすきでもない男とセックスしなきゃいけねぇんだ。少し考えればわかることだろ。ばか、あんたは、ほんとにばかだ。……なんだよ、その顔、
「えっ、や、だって、新田、今、すきって言った…」
初心な中学生のように顔を赤らめる南波。おれ、今、あんたに、説教してるんだけど?
呆れて言葉が出てこない。南波って、やっぱり、すごくばかだ。
「にっ、た、あー、のさ…、つづき、する?」
ぜっっっっったい、しない。
鬼のような顔で言い切ってやる。おれをなめるのもいいかげんにしろよ!
−−−−−−−−−−−
新田零次はたれ目である。
キリリとした男らしい眉の下には、アンバランスなたれ目が新田のクールな、クールすぎる印象をやわらげている。どこかに隙があるような、情けないような、幼いような、そんなたれ目である。
わたしは新田零次のたれ目がすきだ。
真剣に怒っているのにこわくないたれ目がすきだ。泣いていると悲しさが伝わってくるたれ目がすきだ。無邪気に笑うと空間に花が舞うたれ目がすきだ。気もちよくなると甘くとろけてしまうたれ目がすきだ。
わたしは新田零次のたれ目がすきだ。
もうだめ。ほんとにどうしようもなくなるくらいすきだから、繋がって、お互い吐き出して、ここちよくため息を吐いて、シーツにくるまったとき、新田零次のたれ目をぐいとつりあげてみた。
少し不安になったのだ。もしかしてわたしは、新田零次のたれ目だけがすきなのでは?
「……なんだよ」
「おれ、」
つり目の新田とはしたくないなぁ。
ううん、やはりわたしは新田零次のたれ目がすきだ。かなりすきだ。だいすきだ。つり目になると魅力がない。興奮もしない。抱かれたくもない。
などとうんうん考えていると、平手が飛んできた。星がチカチカ瞬く目で新田を見ると、肩で息をしている。じぶんの本音を思い出して、あ、と声が出た。
ああ、まずい、これは、怒ってる。
「ごめん、ごめんってば、」
壁を向いてだんまりを決めた新田に、あわてて弁解する。少しだけ、ほんの少しだけだが、めんどうくさいなぁ、と思いながら。
おれ、新田が、(拗ねると子どもっぽくて、情けないところが、)すきだから安心して。たれ目以外もすきだから。(今、パッと思いつかないけど、)ちゃんとすきだから。
ねっ、と新田の手を握り、やさしく笑いかけてみる。わざわざ言わなくてもいい本音を隠して、甘くて優しい言葉だけを紡いだ。
すると、新田は、
「………くそばか!」
ちょろいなぁ。こんなてきとうな言葉で、すぐに機嫌が直っちゃうんだ?あー、かわいい。あー、かわいい、
(ふふっ、おれのかわいい、)
たれ目ちゃん!
−−−−−−−−−−−
「へー、けっこう広いんだな」
「そー、だな」
今、おれは日本にいる。同期全員で講演会に呼ばれたのだ。長時間、飛行機に拘束されて疲れたおれたちは、すぐに予定されたホテルで休むことにした。が、
「二人部屋?おれとおまえで?」
「うん。おれとケンジ、せりかさんと北村さんで二人部屋だったんだけど、」
「…なんでおれだけ一人部屋なんだよ」
「だっ、て、おまえ、疲れてるときに話しかけると怒る…、」
「わかった、あのときは悪かったから…!」
「それで、ケンジ、お義父さんに、どうしても、って言われて、今夜はそっちに泊まるって…」
「お義父さん?」
「ケンジの奥さんの実家がここから近いんだって」
「だから?」
「だから、おれと新田が、相部屋になった、ん、だよ」
いやなら変えてもらうから。と俯きながら南波が言う。
その声音に、いやだな、が交じっている気がして、少しムッとする。いやなわけがないだろう。おれたちはすきあって、つきあっているんだから。
「べつにいい」
そう言ってエレベーターの『開』のボタンを押す。早くしろよ、と南波の腕を掴んで狭い箱に押しこめた。
「………」
「………」
それから、部屋に入ってから、南波は一言もしゃべらない。二つのベッドに二人で並んで横になっても一言も。おやすみ、の一言さえも。
(なにか南波の気に障ること、言ったか…?)
覚えていない。心あたりの、疲れてるときに話しかけると怒る、も、三ヶ月も前の話だし、ちゃんとあやまった。
それなのに?
「おい、南波、」
それなのに、口もきかない、二人っきりをいやそうにする、とか、ふざけるなよ。
「こっち来いよ」
ムッとする。南波にいじわるがしたくなった。ふざけるなよ、言いたくなった。
おきあがって、ベッドを叩く。早くしろよ。命令する。
「…………にったぁ〜!」
さっきまであんなにそっけなかった南波は、いきなり情けない声を出しておれのベッドにダイブして抱きついてきた。
たしかに、おれは、あんたに、こっち来いよ、と言ったけど!
おれが急な展開に目を白黒させていると、南波は深く息をついて、一気に溜めていたもの吐き出した。
「ほんとは部屋に入って二人っきりになった瞬間から、ぎゅーってしたくてたまらなかった」
やなやつだよな、おれ、ケンジはなんにも悪くないのに、おまえといっしょの部屋じゃなくて、すごくがっかりした。それで、ほんとは一人部屋にしてもらえるのに、新田と相部屋でいいです、って、おれ、じぶんから言って…。でも、でも、いざ二人っきりになったら、恥ずかしくって、いきなり抱きついて引かれないかな、とか、こわくて、でも、
「でもさぁ…、」
そう言いながら、南波は頭を肩にぐりぐりと押しつけてくる。背中をぎゅうぎゅう抱きしめてくる。恥ずかしそうに、耳まで真っ赤にして。
……なんてかわいい生きものなんだ!
腕の中の鼓動が愛おしくてたまらない。ばかだな。引いたりなんかするもんか。ばかだな、あんたは、ほんとにばかだな…。
「にったぁ、すき、」
くっそ、かわいい。かわいい。このままめちゃくちゃに甘やかしてやりたい。
でも。南波を引きはがして、宣言する。
「明日は早いからしない」
えええ、この流れでしないの〜!
南波が心底がっかりした声で叫んだ。新田のまじめ、あほ、期待したおれがばかみたい。
「ごめん」
「じゃあ、キスしてよ」
それから、しなくていいから、このまま二人でぎゅーってしたまま寝よう。
「わかった、わかった」
南波を再び抱きしめて、そのままベッドに横になる。腕の力を強めながら、お互いの顔を近づけていく。
「おやすみ」
つづきはあの赤いソファーで。