きみのお父さんになりたい
「貸してみなさい」
子どものころの記憶を身体が覚えているのだろうか。数十年ぶりだというのに、あの空に吸いこまれるほどよく飛んだ紙飛行機は、すいすいと折ることができた。ここは山折り、ここは谷折り、ここは重ねて、ここは、また、山折り。
「……ッ、すっげぇーッ!」
空に吸いこまれる軌道も、悲しいくらい子どものころのままだった。白い機体が太陽の光を反射して、チラチラとまたたくその明るさも、光に目を細めるじぶんさえも。
「…どうしたんだ」
あの少年と会ったのは、子どものころの記憶を思い出したのは、妻と息子たちが去ってから、何回目の朝だっただろうか。
いつもの習慣で早くに目が覚めたわたしは行くあてもなく、町を歩いていて、そうだ、公園に寄って、ベンチで缶コーヒーでも飲もう、としたときにあの少年と会ったのだった。早朝の公園で小学生ほどの少年がうずくまっていたから、どうしたんだ、と声をかけた。
「紙飛行機?」
「そうだよ!おれのが1番飛ばなくて、みんなにばかにされて悔しいから…、」
だから、その練習!と叫んで投げた少年のとびっきりは、ひゅるひゅると曲がりくねって情けなく墜落した。
わたしはつい、これはひどい、と苦笑してしまって…。それを聞いた少年は耳と頬を赤くして、とびっきりを踏み潰した。どうせおれなんて、どうせおれなんて、と呟きながら。
その少年の惨めさに、わたしは罪悪感を感じて手を伸ばした。ほら、きみ、ちょっと、
「貸してみなさい」
子どものころのままの白い機体を公園の植え込みで探しながら、少年はわたしに次々と質問した。
おじさん、すごいね、どうやって折ったらあんなふうに飛ぶようになるの、あんなふうに飛ばせたら気もちいいだろうなぁ、いいなぁ、ねぇ、おじさん、なにか秘密とかあるの、折り方に秘密、ああ、いいなぁ、おじさん、おれに秘密、教えてよ、いいでしょ、ねっ、おじさん、お願い、
「あった」
まだ蕾もない金木犀に刺さっていた。それを少年の小さな手にわたす。
「これはきみにあげるから、がんばって秘密を盗みなさい」
そう言うつもりだった。そう言って帰るつもりだった。
でも、できなかった。なぜかはわからない。足が固まって踵をかえすことがどうしてもできなかった。
「……ああ、わたしは毎朝、この時間に散歩をしているから、ここに来たらまた会えるだろう」
いつのまにか口が動いていた。
ハッとして、ちがうんだ、悪い、忘れてくれ。とあわてて否定しようとしたけれど、少年が瞳を輝かせて、うれしそうに、
「ほんとっ?」
なんて言うものだから、わたしは首をたてにふった。そうだよ、ああ、もちろんだとも。
「おじさーん!見ててよ、おれの紙飛行機!ぜったいおじさんのとこまで飛ばすから!」
わたしの妻は、わたしが家庭をかえりみないで、じぶんに関心もなく、空ばかり飛んでいるのがいやになったのだそうだ。もうがまんできない、と小さく呟いて、スポンジから洗剤を滴らせながら妻が立ちすくんでいるのをわたしはたしかに見た。でも、逃げるように空を飛んだ。妻にヒステリックに罵られるのはどうしても避けたかった。
最終的に避けられたのはじぶんだったけれど。
数日後、家に帰ると中にはなにもなかった。だれもいなかった。ただソファの跡の残るカーペットに、緑の紙が落ちていた。
もう顔も見たくない、という妻の言葉に打ちのめされ、親権をとるのはまず不可能だと思ってください、という弁護士の言葉に打ちのめされ、息子たちの顔がすぐに出てこなかったじぶんに打ちのめされた。
わたしと妻が離婚したのは、わたしが息子たちの人生から手を離したのは、11月1日。
まるで今日のような、金木犀の香りにむせてしまいそうな肌寒い秋の日だった。
「お、じ、さ、ん!」
「わかった、わかった!」
少年が怒りを滲ませた声でわたしを呼ぶ。
「おじさん、おれの話、聞いてたッ?」
「ああ、聞いてたよ!」
しかたないな、と笑いながら、少年を宥めるように手をふった。
「お、と、う、さ、ん!」
瞬間、少年にふっていた手が固まっていくのがわかる。指先が冷えていくのがわかる。顔から血の気が引いて、心臓の鼓動が早くなる。呼吸が荒くなる。覚えている、覚えている。
昔も、こんなふうに、しかたないな、と笑いながら、手をふったことがあった。
「おじさーん?」
わかった、わかった、わかった、わかってしまった。
わたしはあの朝、少年の瞳が、もう会えない息子たちの瞳と重なったのだ。
あの朝、少年に父親の顔でうなずいたあの朝、たしかに、少年の瞳は息子たちの瞳だった。たしかに、たしかにわたしにはそう見えた。顔がすぐに出てこなかった息子たちの瞳に見えた。
だから、また、逃げるように踵をかえすことはできなかった。それだけはもうできなかった。してはいけないとさえ、思った。
わたしは今、息子たちにできなかったことをしている。逃げるように空を飛んでいたあのときに、息子たちにしてやれなかったことを、今、している。見知らぬ少年を、もう会えない息子たちに重ねて、父親ごっこをしている。
「おじさん、大丈夫―?」
「ああ、なんでもない!」
そうだ、わたしは父親ごっこをしている。
いくよー!と叫んで投げた少年のとびっきりは、わたしに向かって、まっすぐ飛んできた。白い機体が太陽の光を反射して、チラチラとまたたいて、あのときの金木犀のようにわたしの胸に刺さった。
まるでわたしの罪のように。
心の中で息子たちに、何回も何回も、ごめんな、ごめんな、と強く謝罪をくり返した。
「やったよ、おじさん!」
飛び跳ねて喜ぶ少年に、すごいぞ!と笑いかけながら、視界がぼやける。心の中で息子たちに、何回も何回も、ごめんな、ごめんな、と強く謝罪をくり返した。
同時に、少年にも、謝罪をくり返す。わたしの独りよがりにつきあわせてしまって、父親ごっこの駒にしてしまって、ごめんな、
(ごめんな、)
でも、わたしは、独りよがりでもいいから、父親ごっこでもいいから、それでも、
(少年、わたしは、)
きみのお父さんになりたい。