ありがとう
「あんっ、」
乱暴に扱われて、気もちいいなんて、おれはばかだとつくづく思う。
「ん?どうしたの、ムッちゃん、髪の毛、掴まれるのすきでしょ?」
「あっ、痛ッ、」
「ね?そうだよね?お返事は?」
ぎゅうと髪の毛を強く掴む日々人に、うん。と声を漏らす。
もっとひどくして、と言外に含ませた声だ。
でも、日々人はおれを気もちよくなんてさせてくれない。
じぶんのすきなように腰をふり、噛みつき、射精し、終わる。
こいつはおれにやさしくしようなんていう気はさらさらないのだ。
だから、おれは日々人の乱暴なセックスにじぶんから慣れていくしかなかった。じぶんから快楽を探すしかなかった。
でも、そんなセックスでもよかった。
日々人がおれを選んでくれるなら、
「あー、ムッちゃん、もっと締めてよ。ほら、早く、」
家畜のように尻を叩かれても、地べたに這いつくばらされても、
「ん、うっん、」
なんだってよかったのだ。
「そうそう、…んッ、ムッちゃんがえっちで助かるよ」
最終的に、日々人がおれを選んでくれるなら、なんだって。
「また?」
どうして、なんて考えることはもうやめた。考えてもしかたがない。
日々人は壊れてしまったのだ。
「そうそう。あとちょっとで勝てそうなんだよね〜。だからさ、」
手をさしだしてにっこり笑う。
「にまんえん」
ちょーおだい。
(いいんだ、べつに。最後におれを選んでくれるなら…、)
いけないことだと思いつつも、おれは財布を開く。
こんな紙きれで日々人がおれを選んでくれるなら、おれが選ばれるなら、とじぶんに言い訳をしながら。
あの夏の甲子園、日々人の腕は肩より上にあがらなくなった。むちゃくちゃなピッチングで日々人の肩は粉々に砕けて、(日々人は粉々に砕けたと言っていたけれど、ほんとうは粉々に砕けてはいなかった。パズルのピースがはまらなくなったようなものらしい。だけど、永遠に)日々人の心も壊れてしまったのだ。
日々人は欲ばりな奴で、夢をあきらめることを悪だと思っているような潔癖な奴で、そんな日々人だから、宇宙飛行士と甲子園という二つの夢をあきらめたくなかった、いや、あきらめられなかったんだと思う。だから、あんなむちゃくちゃなピッチングをくり返したんだと思う。肩のピースが永遠にはまらなくなるくらい、むちゃくちゃなピッチングを。
そんな日々人だったから、肩が壊れたとき、いっしょに心も壊れてしまって、あれだけ夢に潔癖な奴だったから、落ちるところまで落ちてしまった。純粋で、硝子のように透きとおった心をもっていたから、日々人は純粋だったから。
今の日々人は、女に酒に煙草にギャンブル、働かずに無為に時間を消費して生きている。女の家に住みついて、女やおれに金をせびって、酒と煙草を飲み込んで、時間を潰すためにギャンブルをして、ときどきおれと獣のようなセックスをする。
そんなふうに生きている日々人と、日々人を軸に生きているおれ。日々人にわたすための金を稼いで、日々人の気まぐれに合わすために時間を空けて、日々人に依存して生きている。
悪いことだってわかってる。よくないことだって。でも、でも、最後におれを選んでくれるなら、それでよかった。
「やった。…ねぇ、ムッちゃん、あといっこ、お願いしてもいい?」
いいよ、とおれは返事をする。なんでもいいよ、最後におれを、
「部屋を借りたいんだ。女の子といっしょに暮らしたくて、」
選んでくれるなら。
「ムッちゃん、だから、ちょうだい。おれが家賃を出す、って約束したんだ。もう嘘つけないんだよ、ねぇ、ムッちゃんしか頼りにできないんだ」
女の部屋に住みついて、酒と煙草とギャンブルをして、無職のおまえが、女の子と暮らしたい?
女は利用するものだろ?と声高に言っていたおまえが?
壊れてから約束なんて守ったことのないおまえが?
壊れてから嘘ばかりついて生きているおまえが?
おまえが?おまえが?おまえが?
そうか、おれを捨てて、おれを捨てるほど、おれを選ばないくらい、おまえはその女の子が大切なのか。
そうか、そうか、そうか、おれを選ばないくらい…、
「あの子なら大丈夫、おれ、こんどこそ、大丈夫な気がするんだ」
そう真剣な瞳をして言う日々人に、ちょっとまって、と声をかけて、机の引き出しをあさって、はい、と通帳をわたした。
まるでじぶんの声じゃないみたいだった。
「…ッ、ムッちゃん、こんなにどうしたんだよ」
「貯めたんだよ。日々人が新しい人生をスタートするときにわたそう、って決めてたんだ」
そうかぁ、日々人、よかったなぁ、よかったなぁ、よかった…。
おれの喉はそう呟いていたけれど、おれの顔は聖母のように笑っていたけれど、おれの瞳からは露のような涙が零れていたけれど、まったく現実味がなかった。
まるでじぶんの身体じゃないみたいだった。
「ありがと、ムッちゃん。またえっちしてあげるからね」
日々人はおれを抱きしめて、おれに甘く囁いてくれたけど、おれの心は、冷たく笑っていた。
そうか、日々人、おまえはそんなに大切な女の子と暮らす部屋をおれの金で手にいれて、ギャンブルもおれの金でして、おれとまだセックスする気でいるのか、おれより大切な女の子がいるのに?
そうか、そうか、そうか、そうか、
「日々人…ッ、」
おれは日々人の身体を切なそうに抱きしめながら、思った。
日々人、おまえはおれを選んでくれなかったね。
『ヴーヴーヴーヴー』
ケータイショップのおもちゃみたいなテーブルが震える。店員の女の子に、すみません、と断って、受話器をあげるのボタンを押した。
「ねぇ、ムッちゃぁん、通帳の暗証番号わかんねぇんだけど」
なんでいつものおれの誕生日から変えたんだよ、ぐず!と日々人はおれを叱責した。
昨日までのおれだったら、きっとこの叱責もうれしかったんだろう。日々人がわざわざおれに電話をかけてきてくれた。その事実だけで、もう、うれしくてうれしくて、
でも、でも、日々人、おまえはおれを選んでくれなかったね。
「ああ、暗証番号な、最近ぶっそうだから変えたんだよ。暗証番号、暗証番号、なんだっけな…。ごめん、今、ちょっと出かけてるから…、」
はぁぁ〜?なにやってんだよ、ばかじゃないの?もういいよ、他の女に借りるから、
日々人、おまえは今、おれがおまえに捨てられそうで焦ってると思ってる?それとも、おまえから電話がきてうれしがってると思ってる?ニヤニヤしながらおれを責めたり、引いたりしてる?
「あっ、まって、まって、すぐ家に戻って確認するから!またすぐに電話するから!」
どちらでもないよ、おれ、今、こわいくらい無表情だと思う。声色だけでうれしがったり、焦ったり、ふしぎだね、顔の筋肉は動いてないのに、声帯を震わせるだけでおまえを騙せるなんて。
「わかればいいんだよ!早くしろよな!」
そう叫んで日々人は投げ捨てるように電話を切った。ブチッ、と通話が切れたその音が、まるで、おれたちの繋がりが切れた音のようで、薄く笑った。
「お客さま、よろしいでしょうか?」
日々人、おれ、あのマンションから引っ越すよ。ぜんぶ、おまえを思い出させるものぜんぶ、おまえとセックスした赤いソファーやおまえがおれを殴ったアルミの鍋やおまえが似合うって褒めてくれたスーツもぜんぶ、ぜんぶ捨てて、新しい部屋で新しい家具に囲まれて生きるよ。
「あ、はい、大丈夫です、お願いします」
日々人、おれはおまえがおれを選んでくれたら、それでよかったんだ。幸せだったんだ。でも、おまえはおれを選んでくれなかったから、だから、これでさよならだ、日々人。
「説明は以上です。では、解約いたしますね。この書類にサインを、」
そうだ。おまえとゆいいつ繋がれた、この手に馴染んだ携帯電話ともさよならだ。おれたちを繋ぐものはもうなにもない。
「はい。この欄でいいですか?」
おれはおまえのこれからを応援することしかできないから、そのためにはおれはおまえのそばにいてはいけないから。わかるだろ、もう依存し合う関係はだめだ。心を蝕んでいくよ。
「はい、そうです」
日々人、おれ、結婚するよ。結婚して、嫁さんと子どもといっしょに、おまえを忘れて生きていくよ。だから、おまえもおれを忘れて、その女の子といっしょに、いっしょに、
『ヴーヴーヴーヴー』
ケータイショップのおもちゃみたいなテーブルが震える。捨てられる運命のディスプレイには『日々人』の文字が踊っていた。昨日までのおれだったら、この瞬間を泣くほどまってた。
「お客さま、あの、」
「大丈夫です、3コールでぜったいに切れますから、」
日々人、暗証番号はね、暗証番号は、
「ほら、切れた。もう大丈夫です、よろしくお願いします」
0706。
「はぁ、わかりました、」
おれたちが夢を誓った、あの夜だよ。
(おまえはもう忘れちゃったかな)
「では、解約いたしますね」
…じゃあな、日々人、今まで、
「はい」
(ありがとう)