パセリ



瞳がこぼれるくらい、ずっとあなたを見つめていました。

(…あっ、寝癖、)

中学生ぐらいのとき、すきな女の子の髪に寝癖がついてるのを見つけたら、一日ずっと幸せで、頭がふわふわしてたなぁ。
そう考えると、今の状況もおかしいことはないのかもしれない。中学生からつづく、いわゆる性質ってやつだ。ただ…、

「南波さん、寝癖ついてますよ」
「んっ、おっ、おお〜、ほんとだ。ありがとう」

その相手が『すきな女の子』から『すきな男の人』に変わってはいるけれど。

(こんなこと、入社したときは考えてもいなかったなぁ)

キーボードを叩きながらつくづくそう思う。
新入社員だったおれは、車の開発という長年の夢に酔っていて、人間関係のあれこれとか、まったく考えていなかった。
もちろん、直属の上司があの『南波六太』になるなんて、まったく。
さらには、その『南波六太』に恋をするなんて、まったく。

「南波さんって…、昨年、○○賞を授賞したあの南波さんですか…?」

はじめての顔合わせのとき、感極まったおれは、失礼を承知でそう訊いてしまった。
まだ大学生だったおれは、○○賞を授賞した車の機能性を兼ねたデザインに惚れ惚れしていて、ぜったいにこの会社に入社して『南波六太』に会うんだ!と鼻息を荒くしていたので、これはまさに奇跡だった。
南波さんは鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていたけど、すぐに、「ありがとう。その南波はおれです」と言って、ふにゃん、と笑った。

今思えば、もうその笑顔で恋に落ちていたのかもしれない。
南波さんの前歯には、昼に食べたんだろう、たこ焼きの青のりがついていた。

その2ヶ月後、「初対面であんなこと言う奴はじめてだったよ」と南波さんにうれしそうに言われた。
おれは仕事に慣れることに必死で、南波さんの技術だとかに目を奪われる暇もなかった。
今日はそんなおれを見かねた南波さんが飲みに誘ってくれたのだった。

「え、なんでですか。南波さんといえば、○○賞じゃないですか」
「……南波日々人って知ってる?」

ふしぎそうにからあげを頬ばるおれに、南波さんは同性のだれかの名をあげた。

「知りません。だれですか?」
「宇宙飛行士だよ」
「はぁ、宇宙飛行士」
「おれの弟」
「へぇっ、南波さんの弟さん、宇宙飛行士なんですか、それはすごいですね。……えっ、それで?」

しばらくの沈黙。
そして、南波さんの笑い声が響く。
おれはなにがなんだかわからない。

「なっ、なんですか、南波さん、どうかしたんですか」
「おれさぁ、ずっと『南波日々人の兄』って言われてたんだよね」

そう言ってこない奴、ほんと久しぶり。
そう言って南波さんはうれしそうに、でも、ちょっぴり悲しそうに笑った。
今思えば、もうその笑顔で恋に落ちていたのかもしれない。

でも、そのときのおれは心のもやもやをごまかすように、「南波さんは南波さんですよ」と小さく呟いて残ったビールを飲み干した。

それからだ。おれが南波さんをよく観察するようになったのは。

「あっ、ほらあの人だよ、『南波日々人のお兄さん』」
「あれが『南波日々人の兄』かぁ。あんがいふつーじゃね?」
「へぇ、『南波日々人の兄』なのにぜんぜん似てないんだな」

結果、おれがまったく周りが見えていないことがわかった。
南波さんは『南波日々人の兄』といたるところで囁かれていた。

(どうして今まで気づかなかったんだろう?)

そう疑問に思っていた昔のおれに言ってやりたい。
前を歩く南波さんしか見えていなかったからだよ。

まあ、それはそれだ。南波さんの世間の評判が『南波日々人の兄』だとしても、おれにとったら、『○○賞を受賞した憧れの人』で『直属の上司』で、……ただの『直属の上司』だ。

ただそれだけだ。それだけのはずなのに、もう疑問は解けたはずなのに、どうして今も南波さんから目が離せないんだろう。

南波さん、耳の下にほくろあるんですね。南波さん、また生姜焼き定食食べてるんですか。南波さん、緑茶は伊右衛門派ですよね。南波さん、徹夜すると髪の毛がへにょってなりますね。南波さん、けっこう甘いものすきですよねぇ。

このころにはもう完全に南波さんがすきになっていた。
でも、おれは認めたくなくて、ずっと見て見ぬふりをしていた。

けれど。

「えっ、南波さん、パセリまで食べるんですか?」

「小腹が減りましたね」と入った喫茶店でのことだった。
南波さんがサンドイッチの彩りのパセリをひょいと口に入れたのは。

「えっ、なんで?」
「なんでって…」

驚いた。そんなのべつにわざわざ食べなくてもいいのに、変な人。

「だって、ちゃんと食べないと、パセリ農家の人に失礼だろうが」

でも、南波さんに、まじめな顔で言われちゃって、

(あっ、おれ、この人のこと、すきだなぁ)

すごく自然に、そう思えた。こんなことで自覚するなんてばかみたいだけど、ああ、すきだな、って。

南波さんが、すきだな、って。

でも、自覚したからといってなにか行動をおこす気にはならなかった。たとえば、告白とか、そんなことはぜんぜん。
見つめるだけで満足、なんて、中学生みたいだけど、ほんとうに見つめるだけで満たされて、幸せだったから、告白なんてことはぜんぜん、考えてもなかった。

「クッ、クビだクビだーッ!」

南波さんが部長に頭突きしてクビになるまでは、ほんとうに見つめているだけで満足だったんだ。

南波さん、ねぇ、『南波日々人の兄』って言われること、いやだったんじゃないんですか、嘘だったんですね、弟さんの悪口を言われて、上司に頭突きするくらいには、すきなんでしょ、弟さんのこと、ねぇ、

(ああ、おれ、この人のこと、すきだなぁ、)

天然でぬけてて、要領悪くて、まじめなのに、損ばっかしてる、南波さんが、すきだなぁ、おれ、…すごく。

それからはすごく早かった。○○賞をとって、会社に貢献してる人なはずなのに、辞めさせられるときって、こんなにあっけないものなのかなぁ、と南波さんが頭突きをして二日後に、安い居酒屋の送別会で、味のしないビールを飲みながら思った。

これで南波さんとさよならなんだ。もう南波さんを見つめていたころには戻れないんだ。あの満たされていく感覚は、もう、味わえないんだ。

「みんな、ほんとーっに、ありがとおーっ!」

べろべろに酔った南波さんがビールジョッキ片手に叫ぶ。
「ありがとう、ありがとう、南波さん、さよならですね」
なんて、言えない。なにも言わないで、気もちの整理なんてつくわけがない。

見つめているだけで幸せでした。

この気もちに嘘はないけれど、ないけれど、ない、けれど、もう、これで最後だから、

「おれ、南波さんのこと、ずっとすきでしたよ」

南波さんが酔いをさましに居酒屋の外に出たのを見て、たばこ、と嘘をついて追いかけた。これを逃せばもうぜったいに言えない、と頭のどこかで確信していた。
南波さんは真っ赤な顔で扉の前に座り込んでいた。いつものように「邪魔になりますよ」と肩を支えて移動させる。ああ、これも最後なんだな、と感傷に浸った瞬間、いつ言えばいいのか、と口の中で温めていた言葉がぽろりとこぼれた。
おれ、南波さんのこと、ずっとすきでしたよ。

「おれもだよ。おまえはほんとうに、いい後輩だった」

でも、南波さんは、おれの告白を、必死のおれの告白を、そう言って、にへら、と笑って、消してしまった。
ひどい人だ。天然でぬけてて、要領悪くて、まじめなのに、損ばっかりな、ひどい人…。
でも、ああ、やっぱり、すきだ。

すきだ。ありがとう、南波さんを、すきで、おれはほんとうに、

「南波さんの後輩で、おれはほんとうに、ほんとうに、」

幸せでした。

「南波六太ってどういう人だったんですか?」

「なんだよ急に…」と後ろの後輩をふり返る。後輩は新聞の一面記事を指さしていた。南波さんがあの微妙な笑顔で、月面でピースしている写真だった。

「この『南波六太』って、以前、この会社に勤めてたんですよね?」

新しくできた後輩に、「ああ、そうだよ」と返す。
南波さんが部長に頭突きして、会社をクビになってから、もう何年になるだろう。
南波さんのいない毎日は短くて、なにも見つめない毎日は、一瞬ですぎてしまうから、何年たったかなんて、ぜんぜん…。

「先輩、この人、どういう人だったんですか?」

南波さんは会社をクビになってから、おどろいたことに、宇宙飛行士になった。
テレビのニュースで南波さんを見たときは、思わず笑ってしまった。
「なあんだ、南波さん、やっぱり、弟さんのこと、すきなんじゃないですか」

微笑ましく思う。でも、淋しい。南波さんの額に傷があった。おれの知らない傷だ。あのころはどんな小さな傷でもわかっていたのに。
南波さん、まだ甘いものはすきですか。南波さん、まだ徹夜したら髪の毛の元気がなくなりますか。南波さん、アメリカにも緑茶ってあるんですか。南波さん、まだ生姜焼き定食を食べてますか。南波さん、耳の下のほくろはまだおれしか知りませんか?

南波さんのことがすきで幸せでした。と、あきらめたはずなのに、気もちの整理をつけたはずなのに、うまくいかないなぁ、やっぱりまだすきだ。女々しいったらないや。

あのときは、数年前はまだ、うじうじしていて、南波さんの姿が見たくて、新聞を目を皿のようにして探していたけれど、時間が解決してくれるってほんとうだ。
おれはもう結婚して、子どもまでいる。

「どういう人って…、」

天然でぬけてて、要領悪くて、まじめなのに、損ばっかしてる、後輩の想いに気づいてくれない、鈍感で、ひどい人だったよ。

…なんて、言えないから、おれの一番大切な思い出を話そう。

「サンドイッチの、ほら、彩りのパセリあるだろう、飾りの」
「はぁ、ありますね」
「あれをな、ひょいって、食べる人だったよ」
「ええっ?」
「ちゃんと食べないと、パセリ農家の人に失礼だろう、って言ってた」

それは…、なんというか、変な人ですね…。

新しくできた後輩は、絶句、という顔をしたまま、「でも、そのくらいじゃないと、宇宙飛行士になんてなれないのかもしれませんね」と言った。
おれは、「そうかもなぁ」と返しながら、思った。

そんな変な人のことをすきになったおれも、パセリなんかが理由ですきになったおれも、

(宇宙飛行士になれるのかな)

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