過去を生きる
変わらないことが強さだと信じて今まで生きてきた。
膿まず腐らず淀まず、美しい完全な状態で止まったまま生きていた。それこそが真理だと、信じて呼吸してきた、今までずっ、と。
(それが今は、)
変わらない夢を変わらない思想で変わらない姿で追いつづけることがおれにとっての、いわゆる人生というもので、その道から逃げることは弱さだと思ってきたし、その道を変えることも弱さだと思って生きてきたから、愛するムッちゃんがどんどん弱くなっていくことが悲しかったし、つらかった。
すきな人が弱く、じぶんの嫌悪する姿になっていくことは、まだ幼いおれには耐えがたく、ゆるせないことだった。
どうして変わってしまったんだ、と激しく糾弾して責めたてたかった。おれのすきなあのときの完全に戻って、と泣いて泣いて懇願したかった。
(そんなムッちゃん、もうすきじゃねぇよ)
おれにとって、南波六太という人間は、兄という名の憧れのヒーローだった。
ヒーローは完全でなくてはいけないし、途中で思想が変わったらだめだ。
ずっとずっと変わらずに頂上に君臨していなきゃだめなんだ。
それなのに、だめなのに、ムッちゃんは変わってしまった。弱くなってしまった。夢から逃げて弱くなってしまった。
おれのすきなムッちゃんは、おれのすきなヒーローは、死んでしまったんだ。
なら、おれが生き返らせてやる。
また昔のおれのすきなムッちゃんにしてあげる。完全にしてあげる。ヒーローに復帰させてあげる。
完全なムッちゃんならまた愛してあげる。
だから、ムッちゃんが会社をクビになったとき、チャンスだと思った。
これでムッちゃんは完全になる。完全に戻る。
おれのすきなムッちゃんになる。
また二人で変わらない夢を変わらない思想で変わらない姿で追いつづけようね?
(そう思ってた。それが今は、)
完全なムッちゃんを愛してた。でも、なにかが壊れていたのかもしれない。
おれの愛は完全じゃなかったのかもしれない。
兄の顔。おれの愛している美しい完全な兄の顔、ヒーローの顔。その顔にときどき見え隠れする自信のない表情、
その表情をゆっくりと咀嚼する、あのぞくぞくする感覚。
おれに追い越されることが恐ろしいの?おれのヒーローじゃなくなることが恐ろしいの?ねぇ、ムッちゃん、なにに怯えているの?
かわいいね、そんなムッちゃんもすきだよ。愛してるよ。
完全を求めていた裏で、歪みがあったのもたしかだ。
そんな歪みがあったからかな。今、おれの思い描いていた絵じゃないのは。
ムッちゃんはどんどん完全に美しく強く、昔の、おれのすきな姿に戻っていった。
ときどき見え隠れする自信のない表情も昔のままだ。
うれしかった。涙が出るくらい。ずっとずっとこの姿を求めていたから。
でも、ムッちゃんはまたどんどん変わっていった。
昔よりも、さらに、完全に美しく強くなっていった。
ときどき見え隠れする自信のない表情は消えていった。
息が苦しい。
こんなのおれが求めていた兄じゃないヒーローじゃない完全じゃない、こんなのムッちゃんじゃない。
それなのに、惹かれてしまう。どうしようもなく。目が追ってしまう。ずっと見ていたいと思う。
どうしてだろう。過去よりも今のほうが、綺麗だ。
(じゃあ、)
じゃあさ、完全ってなに?変わらないことが強さなんじゃないの?今までのおれの人生ってなんだったの?
そんなとき、ムッちゃんがどんどん綺麗になっていったとき、じぶんがもう月に立てないことを知った。
死にたくなった。
ムッちゃんは知らない姿になっていくし、長年の夢は潰えるし、いったい、今までのおれの人生はなんだったんだ。
もう月に立てない。もうおれはあそこに行けない。そう思いながら、窓の外から月を見る。
そこにはムッちゃんが映っていた。
正確に言うと、ときどき見え隠れしていた自信のないムッちゃんの顔そのままのおれが、映っていた。
だいきらいだったあの弱いムッちゃんの顔をしたおれが。
変わらないことが強さだと信じて今まで生きてきた。
膿まず腐らず淀まず、美しい完全な状態で止まったまま生きていた。それこそが真理だと、信じて呼吸してきた、今までずっ、と。
(それが、どうしたって言うんだ。ムッちゃんはどんどん変わっていって、昔よりも魅力的になって、おれは変わらないまま、弱くてだいきらいだったあのころのムッちゃんそっくりになった。変わらないことが強さじゃないのか。変わることが弱さじゃないのか。じゃあ、今のおれは?)
自信のない表情のおれ、それを気づかうムッちゃん、月に立てない現実、今までの人生、まちがっているかもしれない思想、完全とは?
もう、ぜんぶがいやになった。息が苦しい。死にたくなった。なにもかも見たくない。捨ててしまいたい。
月夜の晩に家を出た。なにもかも捨てて家を出た。未来を消して過去に生きたいと思った。
だいきらいだったあのころのムッちゃんそっくりの表情をして、だいきらいだったあのころのムッちゃんと同じように、ムッちゃんを捨てた、ムッちゃんと向き合う努力を捨てた、ムッちゃんから逃げ出した、どんどんどんどん弱くなっていく、どんどんどんどんじぶんがきらいになる。
息が白い。寒い。もうなにも考えたくなかった。