月の裏のベッドにて
「日々人も…、いつか吾妻さんみたいに結婚して、家庭をもつんでしょうか…」
おいおい、肌を重ねたあとに他の男の話をするのか、とかわいい猫に言ってやりたい。
それはルール違反じゃないのか?なぁ、猫ちゃん?
でも、泣きそうな瞳を見ていると、つい、よしよし、かわいそうに、と慰めてやりたくなってしまう。
おれはこの薄い膜の張った瞳で、いくつの罪をゆるしたのだろう。もう数えきれない。
「さぁな。どうした、なにかあったのか?」
うなじをかりかりとかいてやりながら、話をするきっかけをつくってやる。
ここまでしてやらないと、このずるい男はじぶんから話そうとはしない。吐き出したくてたまらないくせに…。めんどうな男だ。
そんなところが愛しいのだけど。
「………今日、日々人が、知らない女の人と歩いているところを見てしまって、」
そんなことで?と心の中でため息をつく。呆れてしまう。なんて幼稚な相談だろう。中学生でもあるまいし、そのまま本人に訊けばいいじゃないか。
…いや、訊けないから、おれのところに来たのか?
ああ、そうか、傷を癒してほしくておれに抱かれに来たのか。まるで中学生のような幼い恋をしているくせに、セックスで傷を癒そうとここに来たのか。
「…ッ、吾妻さん?」
うなじに爪をたてる。
なぁ、かわいい猫ちゃん、きみはおれのことをなんだと思っているんだ?ミルクをくれるやさしい母親か?寒さをしのぐための毛布か?淋しさをまぎらわすだけの鼠か?
おれになら甘えてもいいと、なにを言ってもいいと、傷つかないとでも思っているのか。
なんてずるい男だろう。なんてひどい男だろう。
それなのに、おれはどうしてこんな、いやらしい子どもがいいんだろう。どうして甘い罠から抜け出せないんだ。
「…なにも、」
微笑みながらそう言ってやる。おれに怯える小動物の瞳が愛おしい。
そんな目をされると、ズタズタに引き裂いてやりたくなる。首に噛みついて、むりやり犯してしまいたくなる。
いつもはつけない赤い痕を白い肌に散らしてやりたくなる。
おれの隠れた獣が目をさましそうになる。
「吾妻さん、おれ、どうしたらいいんでしょう。昼の光景が瞼の裏にちらついて、あいつの前で笑っていられる自信がないんです」
へぇ、他の男と寝ることはできるのに?
心の中で悪態を吐き捨てる。そんなことを言ってもしかたがないとわかっているのに。
なぁ、猫ちゃん、きみには罪悪感というものがないのか?
おれには家族がいる。守るべき妻と子どもたちがいる。それなのに、きみと会って寝ているのは、おれの弱さからだ。おれの責任だ。きみのせいじゃない。
でも、だからといって、きみは、きみの恋人の話をしていいわけじゃない。そうは思わないのか?
…思うわけがないか。きみはまだ鈍感な子どもだものな。おれになら甘えてもいいと、なにを言ってもいいと、傷つかないと思っているような、ひどい男だものな。
それでも、おれはきみが愛おしいよ。
だから、月の裏のベッドの上で、菩薩のような微笑みで、どろどろに甘やかしてやる。
「………泊まっていくか?」
父親の手のひらで顎を掬いあげて、訊いてやる。
泊まっていくなら、きみの悲しみも淋しさも焦りも、すべて忘れさせてあげよう。
そのかわり、きみの愛しい弟は、今夜、一人になるけれど。
「あ、ずま、さ、」
唇がつきそうな距離で、目で、どうする?と囁く。
顎を包む手のひらは弱くやさしく、いつでもふり落とせるように。
いつでも拒めるように。
「帰ります」
おれは、そうか。と顔と手のひらをはなしてやった。
早くシャワーを浴びてきなさい。まるで先生のようにやさしく指示をする。
父親の目で見守ってやる。
のろのろとベッドからおりながら、ごめんなさい、と言うきみに、なにが?と訊く。
楽な関係が一番だろう?という立場を崩さずに、この関係に溺れているなんて表情に出さずに、なにが?と、おれは訊いてやる。
あいつに会うために、心の整理をつけるために、無意識におれを利用した、なんて、気づかせずに帰らせてやる。
「吾妻さん、今日は、あの、ありがとうございました」
猫はそう言い残してドアを閉めて出て行った。
ありがとうございました、だと。ほんとうに、無意識で鈍感でひどい男だな、あいつのかわいい猫ちゃんは。
映画なら、ここで煙草の煙を吐き出すシーンなんだろうが、あいにく喫煙者じゃないおれは、ミネラルウォーターをあおるだけ。絵にならないな、と苦笑する。
ひどい男だけど、それでも、なぜだか愛おしい。溺れるじぶんもきらいじゃない。
おれのものにならない猫は月の裏から表へ必死に駈けて行く。
ばかな男をベッドの上に残したまま。