海へ行こう



「海に行きたい」

と南波が言った。秋の深まった、そろそろ新しいコートが欲しいな、という季節だったので、おれは、どうしてこんなときに、とふしぎに思ったことを覚えている。

そんなおれの表情に気づいたのか、「泳ぎたいわけじゃないから」と間を繕うように南波は言った。
「じゃあ、なにしに海に行くんだよ」とあまり気分ののらないおれは訊いた。

「べつに…、波うちぎわを裸足で歩いたり、砂の城を作ってみたいなと思っただけ」

その言葉を聞いてすぐに、小さな、でも、細かな装飾がたくさんある砂の城をもくもくと作っている南波と、その後ろで暇そうに文庫本を眺めているおれが浮かんだ。
そんな日もたまにはいいかもしれない。

「じゃあ、行こうぜ。今週の日曜日に、晴れたら」

そう言うと、南波は目をまんまるくして、「新田が賛成してくれるとは思わなかった」と笑った。
なんて奴だ。気を悪くしたおれは、やっぱりやめだ、と口を動かそうとしたけれど、

「でも、うれしい。なぁ、新田、手をつないで波うちぎわを歩いてくれる?」

南波がほんとうにうれしそうに訊くから、おれは、しかたなく、ああ、とうなずいた。

「そのかわり、昼はカツサンドな」
「いいよ。たくさん作って、魔法瓶に緑茶を入れて、ビニールシートの上でいっしょに食べよう」
「またおれがキャベツの千切りするから」
「太さのちがうやつだろ?」
「なんだよ、悪いか」

それが火曜日の夜のこと。明後日は晴れるだろうか、明日のうちに下ごしらえはすましておかないとな、とベッドでぼんやり考えながら、海にもっていく予定の文庫本のページをぱらぱらとめくっていた。
もう夜はふけて、窓の外は墨をこぼしたみたいに暗かったが、まだ南波は帰ってきていない。
今晩はアメリカに出張中の旧友と飲みに行く、と聞いていた。たぶん久しぶりに旧友と会ってはしゃいだ南波は飲みすぎて帰ってくると思う。あいつはべろべろに酔うと、吐きはしないが、ふろに入らず寝ようとする。じぶんのベッドで寝られるわけじゃなくても、それが気もちの悪いおれは、ふろに入らせなくては、と寝ずにあいつをまっていた。
でも、もうそれも限界らしい。おれの瞼は今にも落ちてきそうで、あいつをまたなくちゃ、明かりを消さなくちゃ、と頭のすみで思いつつも、眠りの誘いに負けそうだった。

「寝ないこだーれだ!」

そんなときだ。シーツをかぶった南波がおれに飛びかかってきたのは。

「わぁっ!」
「だれだー!おまえか?おまえか寝ないのは!」
「やめっ、南波、くすぐってぇから!」

もちろん目が覚めて、急いで南波を引き離した。
「おまえ、ふろに入らずにベッドに入るなって言ったろ!」と怒っても、酔っぱらいにはどこ吹く風で、へらへらと笑っていた。
南波はおれの言葉を無視して、「新田、なつかしい?」とうらめしやのポーズで訊いてきた。

「なにが」
「『ねないこだれだ』。絵本だよ。子どものころ、読んだことない?」
「ない」
「おばけが夜ふかしする子どもをつれていっちゃうんだって。子どもが本気で怖がって泣くんだって」

そうか、と抱きしめた。なんとなく南波と南波の旧友がなにを話したのか、わかってしまったから。

「新田、ほんとうに手をつないで歩いてくれる?」
泣きそうな声で南波が訊いた。
「ああ、もちろんだ」
おれは言う。なるべく力強い声で。

「そっか、」
「ああ、」
「じゃあ、おれ、海に行けなくてもいい」

一生、行けなくてもいい。

南波はそう呟いて黙った。おれは南波の寝息が聴こえるまでの数分間、ずっと抱きしめたまま、髪を撫でていた。
ふろになんて入らなくてもいい。そんなことで怒ったらだめだ。せめて今日だけは、ぜったい、朝までこのまま抱きしめていなくちゃだめだ。

なぁ、おまえ、まだ結婚しないの、とでも、言われたのか。

ぎゅうと腕の力を強めた。どうか、朝になったら、南波が言われたことを忘れていますように。傷ついていませんように。

そして、太さのちがうキャベツとサクサクのカツでたくさんのカツサンドを作って、魔法瓶に緑茶を入れて、日曜日に、晴れたら、

海へ行こう。

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