日々人がいなくなってもうずいぶんたつのに、おれはまだ一人の家に慣れない。一人暮らしなんてとっくの昔に経験済みだし、一人特有のリズムだって知ってる。それでも、おれはこのむだに広い家に身体を慣らすことができないでいた。でも、理由はうすうすわかってる。日々人がいたからだ。おれが住みはじめるより、ずっと前から日々人がこの家に住んでいたからだ。だから、日々人がいないのに、家のいたるところから日々の気配が滲み出ていて、おれはいつまでたっても一人に慣れない。はっきり言って恨めしい。つい作りすぎてしまう料理や、ぐちゃぐちゃなコードであいつを思い出してしまう。出て行ったのはあいつなのに、おればかりが心配している。ガキのころからまったく変わらない。


今日はシールだった。新しくおろした食器用洗剤の底に剥がれかけのシールがついていた。おれはなかなかとれないそのシールにイライラして、つい声を荒らげてしまった。おい、日々人、おまえはどうしてこうもだらしないんだ。言ってから気がついた。日々人はこの家にいない。必要以上のボリュームの声が反響して、すぐに静まった。おれは一人だと強烈に認識した。

そうか、日々人はこんなにつらくて淋しい、音のない場所を一人で過ごしていたのか。そう考えるとなぜだか涙が溢れてきてしまって、とても焦った。でも、きっと日々人もこの淋しい空間で涙を流したのだろう、と思うと焦る気もちは消えて、ただただ涙を流すことに集中した。まるで日々人のつらさや淋しさを供養しているようだった。日々人は今のおれよりもつらくて淋しくて、悲しくて怒れて、でも、やりきれなくて、大変だっただろうなと思う。おれはこの広い家にたしかに楽しさや幸せがあったことを知っているけれど、日々人は知らなかったのだから。この家にたしかに自分以外の人が住んでいて、味つけが濃いことに文句を言ったりとか、そういう一人ではできないことをしていたことを知らなかったのだから。ほんとうに、一人で、一人でしかなくて、広い家にだれもいなくて、自分がどこにいるのかわからなくて、大変だっただろうな。しかも、ほんとうは同じ家に住んで同じ夢を追うはずだった兄は、昔の約束なんてすっかり見て見ぬふりをして、遠い日本で車の開発にうんうん悩んでいるんだから。たまに電話をかけてきたと思ったら、賞を獲ったと嬉しそうに報告してくるんだから。そのときの日々人の怒りやあきらめを混ざった、なんだかやりきれない気もちを想像して、さらに涙が溢れた。

おれは、日々人がガキのころからなにも変わらずに、月までの一本の道をまっすぐ歩いてきたと思っていた。でも、ちがう。おれがそう思いたかっただけなんだ。あいつはおれとはちがう、特別な人間なんだ。だから、おれが今ここにいるのはしかたのないことなんだ、と。でも、ちがった。あいつはぜんぜん特別な人間なんかじゃなかった。2006年の7月9日のテープを聴いたとき、はっきりと思い出した。あの草木の香りに満ちた夢の空間を、夢を追っていたあの空気を、日々人が忘れなかっただけなんだ。たぶん昔からずっと、おれが蓋をして心の奥へ奥へしまいこんだときからずっと、日々人はそれをなんどもなんども思い出して、反芻して、忘れないようにしていたんだ。もちろんこの家でもずっと。ずっと一人で、なんどもなんども。どれだけつらかっただろう。一人で知らない土地、知らない言葉、知らない人。それらにただ囲まれて生活しているだけで息が詰まりそうなのに。今はもう隣にいない、兄との約束を思い出すのは。やりきれなかっただろう。なにをしているんだと自問自答をした夜もあっただろう。あきらめてしまえばよかったのに。あきらめたら、楽になれることなんて、とっくにわかりきっていただろうに。それでも、あきらめきれなかった、あいつの執念には、感謝しつつも、呆れてしまう。日々人、おまえ、どれだけおれのことすきだったんだよ。呆れてしまう。そして、また瞳が滲む。そんな日々人のつらさをだれよりも知っていたのは、他でもない、おれじゃなかったのか。

おれも、やっと、と思ったけれど、日々人はもっと、やっと、と思ったにちがいない。やっと夢が叶う。もちろんすぐに月に行けるわけじゃない。それはわかっているけれど、やっと、一歩を踏み出してくれた。うれしかっただろうな。夢を思い出した兄と、昔みたいに宇宙にどっぷりと浸かれるのは。そうだ。日々人が求めていたのは、昔みたいな関係だったんじゃないか。ただ宇宙の話だけをして、無邪気に瞳を輝かせていた、あのころの。やっと、と思っただろう。うれしかったにちがいない。あいつはとうとうその気もちを吐き出さなかったけれど、うれしくてうれしくて。
 
だから、ショックだったんだ。PDになって、もう終わりだと思っても、それも乗り越えて。やっと、やっと、約束を叶えにきてくれたんだ、終わらせてたまるか、終わらせてたまるかよ、と唇を噛みしめて耐えてきたのに。月に行けないと聞いたとき、あいつの張りつめていた糸はプツンと切れてしまったんだろう。きっとおれの近くにいるのもつらかったんだ。あたりまえだ。おれがもっと早く一歩を踏み出していたら、あいつは一人でいることもなく、夢だって叶っていたかもしれないんだから。あいつはやさしいから。こんなどうしようもない兄をまっていてくれるくらいやさしいから、きっとおれを罵りたいのをぐっと抑えてきたんだろう。でも、もうつらくて、悲しくて苦しくて、がまんできなくて、おれの前から消えたんだ。
 
ごめんな、と今になって思う。今までずっと悪者になるのが怖くて言えなかった。おまえのやさしさに甘えてた。ごめんな。不甲斐ない兄ちゃんで。ごめんな、おまえを一人にさせて。ごめんな、おまえの涙を拭いてやれなくて。ごめんな、一番そばにいてほしいときに、隣で手を握ってやれなくて。あと、ずっとまっていてくれて、ありがとう。なぁ、日々人、おれはおまえにまだなにも言えてないんだよ。たくさんのごめんも、ずっと言いたかったありがとうも、まだなにもおまえに言えていないんだ。だから、なぁ、早く帰ってこい。心配させやがって、って一発殴らせろよ。それから、たくさん話をしよう。おれたちはまだ言ってないことや、知らないこと、たくさんあるんだ。それを知りたいし、おれはおまえに言いたいよ。

日々人、ごめんな、ありがとう、って。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -