「ぼくは脚がすきだ」

ふ、と会話にできた隙間を縫って。

「金よりもすきだ。酒よりもすきだ」

急にとつとつと語り出したSを奇怪なものでも見るかのように。Nは凝視した。

「世の男たちが狂うなによりも、ぼくは脚がすきだ」

しかし、はじめはとまどっていたNも。話のおちがわかったのだろう、声に嘲りを少々まざらせて。言った。

「ははん、わかったぞ、どうせ、最後になって、だが、一番すきなものは膣だ、とでも言うんだろう」

最後にNは、きみはそういう奴だものな、と小さな声でつけたした。Nは昔、Sに女を寝盗られた(と、Nは思っている。確信はあるが、きちんとSに訊いてはいない)ことがあるのだ。

「おいおい…、」

だから、Nは内心、ざまあみろ、と思いつつ、先の言葉を吐いたのだ。ざまあみろ、ざまあみろ、と。しかし、Sから返ってきたのは。

「ばかじゃあないのか、きみは」

まさかだ。Sから返ってきたのは、ばか!

「ばかだと」
「ああ、ばかだ」
「なぜ」

なぜ、だって。ねぇ、きみ、よく考えてもみろよ。

「ぼくは、ちゃあんと、世の男が狂うなによりも、と言ったじゃあないか。女だなんて、膣だなんて、男が狂う一番じゃあないか。はぁ…、なぁ、N、きみは、ぼくが言ったことを聞いてはくれないのかなぁ」

殺してやりたい。とNは思い、きゅっ、とポケットの中のナイフを握った。自分を嘲り軽蔑し辱めたSを殺してやりたい。ああ。とナイフを走らせようと。した瞬間。

「だいたい…、もうぼくは女に飽きているというのに…」

Sはつぶやいた。ため息(先のため息とは少々…色がちがった)と共に。

「女に飽きているだって」

Nはおどろき、ナイフから手をはなした。

「おいおい…、ふざけたことを言うんじゃあないよ。だって、きみは、寝たじゃあないか。ぼくの…、」

Nの言葉はそこで止まってしまった。そのつづきを言うには、Nのプライドは少し高すぎた。

「婚約者と」

しかし、Sはさらりとつづきを口にした。まるで罪悪感など微塵もないような。Nの腹はまたぐつぐつと煮えはじめた。

「…やっぱり、寝たんじゃあないか」
「ああ、そうだね、寝たよ。ぼくはきみの婚約者と。…まあ、いい気分にはならなかったけれど」

SはNの目を見て、言いきった。Sの目は、なにか悪いかい、とNに訊いていた。

「た、他人の婚約者と寝たくせに、しかも、その他人が目の前にいるというのに、きみの、きみの、その態度はなんなんだい」

やっぱり、やっぱり、殺してやる。決意を新たにナイフを握りしめたNを。悲しそうにSは見た。

「そりゃあ、きみを愛しているからさ」

Sは唇を舐めたあと、また、愛しているからさ。と先より大きな声で言った。

「ばかなことを言うんじゃあないよ」

Nは二回目の、愛しているからさ。の、さ、のあとすぐに否定の言葉を口にした。Sは一瞬、泣きそうな顔をして。早いよ、と呟いた。

「なにがだい。そりゃあ、早くもなるさ。いきなり男に愛している、愛しているなんて言われたら、そりゃあ…」

Nの頭は一面では狼狽していた。あたりまえだ。いきなり男から告白されたのだから。しかし、もう一面では冷静に理解していた。そういえば、Sは自分にだけ不自然なほど傲慢であったなぁ、と。そして、さらにもう一面では。

「いけないのかい」
「いけないとは言ってないじゃあないか」
「では、ぼくと接吻してくれるのか」
「おっ、おいおい、きみ、冷静になれよ」
「冷静になんていられないよ。きみと二人きりなんだ」

さらにもう一面では。こいつはいい。とNはそっとほくそ笑んだのだ。こいつは、Sは、ぼくの言葉に傷つくだろう。ぼくを愛してしまったがゆえに。ぼくの言葉にずたずたになるだろう。

「はぁ…、気味が悪いな…」

Sの眉がぴくりと動いた。Nは心の中でしめたと叫んだ。

「気味が悪い、気味が悪いよ。だって、きみ、男、しかも、長い友人に、愛していると言われて、気味が悪いわけがない」

Sは顔を伏せた。Nの言葉から逃げるために。それは、Sが、いつでも毅然としているあのSが、今まで見せたことのなかった態度であった。

「ずいぶんと…、ひどいことを言うんだね、きみは…、気味が悪いだなんて…」
「ああ、すまない。が、しかたないだろう。ぼくも混乱しているんだ」
「聞きたくなかったかい」
「なにが」
「愛している、と」
「ああ、そうだね。できれば、一生、聞きたくなんてなかったね」

Sの心がずたずたに破れていく音を聞きながら、Nは快楽に酔いしれた。いつも自分を傲慢な刃で切りつけてきた、あのSが。
自分の言葉に傷ついている。Nは愉快だった。

(二十歳の誕生日。伯父にもらった上等の葡萄酒を呑んだ。あのときもすばらしくいい気分だったが…、今はあれ以上に気分がいい)

ふと、Sがおもむろに顔をあげた。NはSの瞳に涙の膜を発見し、狂喜した。NはSとの長いつきあいの間、Sの涙を見たことがなかったのである。しかし。

「きみに頼みがある」

Sは叫んだ。Nには叫んだように聞こえた。そこにはどこか傲慢な響きがあり、Nの気もちは萎れていった。

「きみはいつからぼくがすきなんだい」
「…N、頼みがあるんだ、聞いてくれ」

気にいらない。どこまでも傲慢なSをNはあらためて憎いと思った。ああ、気にいらない。残酷な言葉を吐こう。

「S、よく聞きなよ。ぼくは今すぐきみに茶をかけて罵ったり、明日からきみを無視することだってね、可能なんだよ。はぁ…、なぁ、S、きみは、ぼくのやさしさを察してはくれないのかなぁ」

Nはありったけの演技力を総動員させて、自分の顔を悲しい表情にした。本当は大声で嘲りたかったけれど。

「ごっ、五年前からだよっ」

Nはおどろいた。予想していたよりも、はるかに長い年数だったから。

「五年だって」
「悪いかい、ああ、悪いだろう」
「悪いなんて言ってないだろう」
「じゃあ、ぼくと接吻してくれるのかい」
「はっ、いやだね」

五年、五年、五年。Nは五年という長さを耐えたSを横目でチラリと盗み見た。Sの顔は絶望と絶望とほんの少しの傲慢が浮いていた。わからない。

「……きみは、」

五年、五年、五年。五年も耐えたというのに、なぜ、なぜ、今なんだろう。

「まだ希望があると思っているのかい」

だから、Sは傲慢でいられるのだろう。気味が悪いと、罵られても。拒絶されても。

「まっ、万の一でも…思っていたら…、こんな気もちに…っ、なっていないさっ」

嘘だね。とNは言葉を打った。心の中で、だって、きみの顔にはまだ傲慢が浮かんでいるんだもの。と嘲りながら。

「それなら、なぜ、告げたんだい。希望がないとわかっていたのに、なぜ」

Nととてもいじわるな気分でSを言葉の刃で撫でる。傷つけ、傷つけ。ひっ、ひっ、ひっ。

「そっ、それは、それは…っ、」

Nは、ひゅっ、と、Sの喉元にナイフを突きつけたが、すぐにやめた。

「ああ、そういえば、頼みってなんだい」

Nは、Sがどれだけ長く、五年だろうが十年だろうが、Nを想い涙を流そうが、そんなこと、どうでもよかったのだ。なぜなら、NはSを傷つけたいのだ。想いは長ければ長いほうがいい。それだけSが傷つく。

「き、きいてくれるのかいっ」
「きかないとは言っていないだろう」

まあ、断るけどね。とNは心の中で笑う。

「わ、私と…、まぐわってくれないかッ」

Nはしばし…、絶句した。あまりにもSが傲慢であったからだ。

「…きみぃ、よくそんなことが私に言えたねぇ」

望みがないとわかっていたろう。わかっているのになぜそんなことを訊くんだい。

「い、言わなければ、始まらないからだ」

ははっ、きみは傲慢だね。とNは葉の隙間から風のような声を出す。

「軽蔑するね」

きみのことを、今日も昨日も明後日も。




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未完

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