「ねぇ、阿部、知ってる?」
「男はね、子どもが産めないんだよ」
今日、残業を終えて、仕事から帰ってきたら、あいつが消えていた。
最初からおかしいとは思っていた。ただいまと言ったあとの、おかえりがなかったからだ。まあ、そのときは、寝ているのかと思って、あいつの顔を見に行くより先に、風呂に入ったんだが。風呂から出て、ビールを飲みながら、リビングに行ったら、寝ていると思ったあいつがいなかった。じゃあ、寝室にいるかと思ったが、そこにもいなかった。おかしい、と思った。あいつは律儀な性格で、遅くなるときは必ず、必ず連絡するのに、おかしい、と思った。胸の奥がざわざわしていた。だが、俺はそのざわざわを無視して、念のためだ、連絡を忘れただけだ、珍しいこともあるんだな、と、あいつに電話をかけた。ら、
『現在、この番号は使われておりません』
ざわざわざわざわざわざわ、もしかして、と、辺りを見回せば、あいつの使っていたものがなかった。服、時計、本、歯ブラシも、食器も、全部なかった。全部なかった。あいつのものはもともと少なかったから、すぐには気づかなかったけれど、確かになかった。信じたくなかった。あいつのものを、あいつを、家中ひっくりかえして探したけれど、なにひとつ、あいつのものは出てこなかった。
あいつが消えた。きれいさっぱり消えてしまった。俺になにも言わずに、消えてしまった。
『ピンポーン!』
あいつだ、と思った。帰ってきた、と思った。だけど、それは一瞬だけだった。
「阿部!いるんだろ?さっさと開けろよ」
落胆。無視したかったが、しかたない。
「よぉ」
「開けんの遅ぇよ」
「うるせぇ。…こんな夜中になんの用だよ、泉」
「手紙あずかってんだよ」
「手紙ぃ?」
「栄口からの」
ポストに入ってたんだよ。阿部宛てだったからもってきた。あと、迷惑かけてごめん。ってメモも入ってたけど、おまえら喧嘩でもしたわけ?…って、おい、阿部!
泉の言葉を遮って、手紙をひったくる。そこには、俺への謝罪と、感謝が書いてあった。あと、鍵も入っていた。
『阿部、ごめんな。俺はおまえがすきだよ。すきだから、さよならしよう。ごめんな。ありがとう。ありがとう。さよなら。』
たったの三行。たったの三行で、俺たちの関係を、俺たちの生活を、終わらせたつもりなのか、あいつは。
ふざけるな、と思った。
「…おい、泉、あいつからの手紙ってこれだけか?」
「そーだけど」
「本当か?本当に本当に本当に本当か?」
「しつけぇな!それと迷惑かけてごめんってメモだけだよ!」
「…嘘ついてたら容赦しねぇぞ」
「はぁぁ?なんだよ、やっぱ喧嘩か?なにムキになってんだよ」
「…これ見ろ」
「手紙?」
泉の顔がどんどん引き攣っていく。
「…なにこれ、マジ?」
「マジだよ。電話も通じねぇ。荷物もねぇ。鍵も返された」
「心あたりは?」
「ねぇから困ってんだよ!そう言うてめぇはなんか知ってんじゃねぇのか?」
「俺だって知らねぇよ!…だいたいあいつはかんたんに本音を言うタイプじゃねぇだろ」
そうだ。あいつはかんたんに本音を言わない。言えと脅しても言わない。絶対に言わない。頑固なのだ。どうしようもなく。
「どうせ他の奴らにも連絡先とか教えてねぇだろうな」
「ケータイも変えたっぽいし、な」
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未完