『最高の男って、新しい男のことだよ』
(山田詠美著『A2Z』より)
(ああ、ほんとうにそのとおりだ)
わたしも昔(と言っても、ほんの3年前)は恋多き女だった。毎夜、宝石のようなカクテルを飲みながら、大人の男と大人なかけひきをして、そのまま一夜だけベッドを共にしたり、それが大恋愛に発展するような、そんな女だったのに。
『あっ、まなみさん?お久しぶり。…あのねぇ、その、不躾で悪いんだけど、あなた、子作りはうまくいってるの?べつにあなたを責めてるわけじゃないのよ。でもねぇ、もう結婚して3年もたってるのに、その、まだ、なんてねぇ?あの子に、そうね、あなたには悪いんだけど、相談させてもらったの。わたしたちも、ほら、もういつお迎えがくるかわからないじゃない?そう、あの子にね、訊いたら、出張ばかりだけど、やることはちゃんとやってる、って。…ええ、そうね、だから、まぁ、そうね、あなたに、ちょっと、その、問題があるんじゃないか、って思ったの。ああっ、べつにわたしたちはあなたを責めてるわけじゃないのよ。ただ今まであなたは断ってきたけど、ええ、不妊治療、受けてみたらどうかな、って、提案をね。まぁね、ばばぁのおせっかいなんだから、無視してくれてもいいのよ。でも、そういう道がある、っていうことを心にとどめておいてほしいの。だって、あの子と結婚したときから、あなたはわたしたちの娘なんですもの。ね?今日のこと、よく考えてね。近いうちにみんなで話し合いましょう?きっとすっきりするはずよ。ねぇ、まなみさん?きっとよ』
今では姑に子どもを急かされてるただの専業主婦よ!
(うそつき!いつまでたっても子どもができないわたしを責めてるくせに!じぶんの息子が問題だと思いたくないからわたしに責任をなすりつけてるくせに!どうせわたしの意見なんて聞いてくれないくせに!)
それに、あんた、じぶんのこと、ばばぁ、だなんて思ってないでしょう。じゃないと、あんなデザインの靴を履くはずがないものね!
「ぜったいに受けてやるもんですか」
だいたい、わたしは子どもなんてほしくないのよ!子どもなんて、キーキーうるさくて、反抗するし、なまいきだし、ぜんぜんかわいくない!
「不妊治療なんて…、」
ぜったいに受けてやらない。拒否する権利はわたしにあるのに、あいつはそれを殺して、むりやりさせるにちがいないのよ。わたしなんかどうでもいいのよ。じぶんのかわいい息子の血が流れてる子どもがほしいだけで、それを孕む雌豚なんて、だれだっていいのよ。…それに、わたし、知ってるんだから。
『まなみさん?』
あいつがわたしのなまえを不安そうに呼ぶこと。あいつはわたしのなまえを、息子の妻になって3年もたつ女のなまえを、いまだに覚えてないってこと。わたし、知ってるのよ。わたし、知ってるんだから!
「お義母さま、わたしのなまえは『愛美』と書いて『めぐみ』と読むんですよ」
いつか言ってやる。いつか言ってやる。
「お義母さま、わたしがまさひろさんと結婚したのは、まさひろさんが『お願いですから、ぼくと結婚してください』ってわたしの靴を舐めながら、涙を流して懇願したからなんですよ」
いつか言ってやる。いつか言ってやる。
「お義母さま、だって、あんまりにも惨めだったんですもの」
いつか言ってやる。いつか言ってやる。
「お義母さま、それなのに、お義母さまはわたしのなまえすら覚えてくださらないんですね」
いつか、
(いつかって、いつよ…)
そうよ。わたしは飼い馴らされた豚。働かなくても生きていけるぬるま湯のような生活にすっかり馴れきって動けないの。
(夫はきらい。姑もきらい。親戚もきらい。舅はわからない。義弟は、)
…そういえば、結婚したのよね。せいじさん。なまえみたいに誠実そうでやさしそうないい男。結婚相手は、なおこさん。かわいらしさに毒のありそうないい女だった。
(ああ、失敗した!弟にしておけば!)
せいじさんに会うたびにそう思ったけれど、もう結婚したんだもの。そう思うことはもうないはず。ただ…、せいじさんと結婚したなおこさんは羨ましい。
(きっと、なおこさんはあいつに厭味なんて言われないのよね。すぐに子どもができて、あいつはうっとおしいくらい喜んで、わたしに『先を越されてしまったわねぇ、まなみさん?』って、厭味を、厭味を、)
ああっ、ああ、ああ、やっぱりむりよ。
(ああ、失敗した!弟にしておけば!)
まさひろさんはあたしの靴を舐めながら、涙を流してくれたけれど、わたし、そんなのちっともうれしくなかった。ただ、薬指に小さなダイヤの指輪をうやうやしくはめてくれるだけでよかった。わたしはそれがほしかったのに。
(あのときは、失恋して、自暴自棄になってたから…、)
いいわけね。知ってる。自棄になってはいけません。わたしのように後悔したくないのなら。
(結婚式のなおこさんの指にはキラリと光る…、)
やめよう。もうやめよう。つらくなるだけだから、もう、もう、やめよう。
「しかたないのよ、今さら、」
ピンポーン。
息を飲む。え、嘘、もしかして、まさひろさんが帰ってきたの?まだ聞いていた日まで3日もあるのに、どうして帰ってきたんだろう。ううん、もしかしたら、あいつかもしれない。話し合いをしに来たのかも。まさひろさんがいないチャンスをあいつが逃すはずない。それとも、せいじさんとなおこさんが義姉にあいさつに来たのかもしれない。どれにしても…、
「どうしよう、掃除してないのに…、」
ああ、もう、最悪!
ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。
「はいはい、わかったから…、」
わたしは、手櫛で髪を梳きながら、怠そうにドアを開けた。
ガチャ。
「はーい、どちら、さ、ま…、」