日本で地球温暖化が騒がれはじめた時だった。南極の氷が崩れてゆく映像が流れはじめた時だった。
『南極の氷といっしょにわたしの心も熔けだしたのね』
ぼくにはそれが『そう、わたし、もうすぐ死んじゃうのね』と聴こえた。妻は末期の癌だった。ぼくは必死でそれを隠していたはずなのに、妻は気づいていたのだろうか。…今となっては、訊けないけれど。
『でもね、おねがい、あなた、掬いあげないで。そのまま海に流してちょうだい』
妻がテレビを、南極の氷が崩れてゆく映像を、睨みながらそう言った。祈るように…、絞りだした声だった。
『海に……、』
ぼくは悲しくて悲しくて悲しくて、妻の死を、ずっと避けつづけていた妻の死を、近くに感じて、悲しくて悲しくて悲しくて、死なないでくれ、死なないでくれ、なぁ。
『……おねがいね、あなた、』
ふりむいて、ぼくを見つめて、聖母のようにほほえんで、妻は言った。ぼくは悲しくて悲しくて悲しくて、悲しくて、泣いてしまった。死なないでくれ、と祈りながら。
身内には反対された。もちろん妻の家族にも、ふざけるな、と罵られた。けれど、ぼくはそれが一番ふさわしいように感じたし、それがぼくの、夫の義務だとすら、思ったから。
「どれだけ反対されても、妻の遺骨は海に流します」
そう断言した。妻の家族から縁を切られてしまったけれど、悔いはなかった。
『でもね、おねがい、あなた、掬いあげないで。そのまま海に流してちょうだい』
だって、あのとき、たしかに妻は言ったのだ。祈るように、聖母のような笑顔で。そして、ぼくも、たしかに、うん、とうなずいたんだ。だから、だから、ぼくは、
『……おねがいね、あなた、』
ぼくは妻の遺骨を海に埋葬する。妻の墓は海だ。海の墓に妻は眠る。妻は海になって、世界を回る。ぼくはおいていかれたっていい。妻の墓は海だ。妻は海だ。ぼくはおいていかれたっていい。おいていかれたって、いいんだ。
きみの望みなら、きみの願いなら、きみが幸せなら、なんだっていいんだ。
海の墓
日本で地球温暖化が騒がれはじめた時だった。南極の氷が崩れてゆく映像が流れはじめた時だった。
妻を海に埋めたのは、