青い男だった。どこが(なにが)、と訊かれても困ってしまうのだけれど。だって、あたしもその男のなにが(どこが)青いのかわからないんだもの。とりあえず、外見じゃない。瞳も髪もカラスみたいに真っ黒だったし。なんていうのかな。オーラというか…、性格というか…。うまく説明できないけれど、とにかく青い、青い男だったことだけは覚えている。

青い男

「おれの第一印象をあててやろうか」

青い男のことは、初めて見たときから、たぶんすき(に擬態したなにか)になってた。気になって、考えて、眠れない。なんて、まるで恋みたいだったから、きっと。

「青いなぁ、って思っただろ」

あたり?って笑った青い男の顔を見た瞬間、あっ、そうか、この人のこと、すきなんだ、あたし。ってかんちがいしちゃった。

「別れよう、もうだめだよ、あたしたち」

だから、すぐに終わってしまった。あたしのかんちがいだったし。青い男は遊びだったし。恋じゃなかったんだもの。今のあたしからすれば、よくもったねぇ、と褒めてあげたいくらい、ペラペラな…LOVEだったから。

「うん、わかった。じゃあな、なおこ」

あたしは、やっぱり青い男のことがすきだった(そのときは、そう信じてなきゃむなしくて死にそうだった)から、別れよう、まで、悩んで迷って泣いて、必死に絞り出したのに、あいつは2秒でBUYBUY、ふざけないでよ!

「えっ、ちょっ、まってよ、……ッ!」

悲しいよね。あたし、あいつの、青い男のなまえすら、最後まで知らないままで。呼び止めることもできなかった。


「なおこ、ほら、そういえばさ、知ってる?あんたが昔つきあってた、青い男の噂」

知りたくない。聞きたくない。って、女ともだちの話をナイフでばっさり切り裂く。女ともだちは、あ…っ、あー、ごめん、なおこ、(忘れてたけど、そういえば、フラれたんだっけ、こいつ、めんどくせ)って言ってくれる。べつに深くまで訊いてこないなら、なんて思われたってかまわないから。でも、ときどきいるんだよね。

「えー?なんでぇ?知りたくないのぉ?」

こういう女。聞きたくないし、知りたくないし、どうでもいいの。って言ってるのに、ベラベラしゃべる女。殺してやろうか、って思う。だって、知りたくない。青い男が女を捨てた、とか。あたしと同じ、捨てられた女がする話なんか。(そう、ベラベラしゃべる女はあとで他の人に訊くと青い男に捨てられた女だった、みんな)


「はっ、そりゃ、青い男があんたの話をしたからでしょ」

あたしはただベラベラしゃべる女(今日の女のマニキュアは真っ赤だった)に訊いてみただけだ。ねぇ、なんであたしにそんな話するの?って…、そしたら、怒り狂って、冷ややっこ(居酒屋でからまれたのだ)をあたしの顔にグシャッ。もうあたし、びっくりして、笑っちゃった。

「やっだ、ねぇ、冷ややっこまみれなんだけど、あたし、写メってよ、ほら、」

笑えない。と友だちに冷ややかに言われて、小さく口を開く、どうしてあたしばっかり。そして、嘲りまじりで、はっ。

「嫉妬したんでしょ、あんたに」

あたしが、なんで?って顔をしていたんだろう。友だちは、やだやだ、醜いねー、と笑いながら、話してくれた。なおこ、もっと敏感になりなよ、って。

「あんた、青い男に昔の女の話された?」

あたしは首をふる。青い男のなまえすら教えてもらえなかったのに、女の話なんてされるはずがない。

「あんた、青い男に昔の女の話されたら、どう思う?」


あのとき。青い男はあたしにやさしかった。ただただぬるま湯のように、やさしかった。でも、やさしいだけで、あたしを愛してはくれなかった。

「やさしいだけじゃ、いや、なんて、」

わがままだなぁ、なおこは。そう言って青い男は薄く笑ったけれど、あたしは笑えなかった。青い男があたしを愛してないって、はっきりわかったから。

「別れよう、もうだめだよ、あたしたち」

それはずっと悩んで迷って泣いていた、あたしにとって、別れよう、を決める言葉だった。

「昔さ、なおこって女がいたんだけど…」

あのとき。あのとき、青い男の口から他の女のなまえが出ていたらあたしは、あたしは、たぶんその女に会いに行く。どんなにみじめだって、会っても意味なんてないって、わかっているのに止められなくて。


「でもさ、あのこたちにも、プライドはあるんだろうね。青い男と別れてからあんたに会いに来たんだから…」

まだつきあっているときに、あたしに会い来るということは、負けを認めることだから。それだけは許せなくて、でも、止められなくて。

「なおこ、冷ややっこぐらい、許してあげなよ」

悲しくなった。ベラベラしゃべる女たちに迷惑ばかりかけられてきたのに。気もちがわかるから?青い男に捨てられた女たちの結束?でも、あたしに同情されることほど、あの女たちにとって悔しいことはないだろうから、あたしは、いやだ、と呟いた。


「ねぇ!なんであんた、つきあう女つきあう女に、あたしの話するの?」

豆腐まみれの夜の道で。一生で一番、今夜で一番、会いたくない男に会ってしまった。ばったり。

「なおこ、それ、精液?」

じゃないよな。固形だし。開口一番、青い男は失礼だった。そうだ、そうだった、こいつ、ときどき、すっごく失礼な奴だった。やさしいだけの男じゃなかった。

「ちがう!これは豆腐!…あんたがフッた女に、ぶつけられたんだよ!」

怒りにまかせて叫ぶ。涼しい顔をして、あたしに声をかけることができるこの男が憎い。思い出を美化していたあたしも憎い。

「へええ、すごい女だね。でもさ、なおこ、ベタベタだから、拭いたほうがいいよ」

タオルでガシガシと頭を拭かれる。まぬけだ。犬みたいなあたしも、きっとなまえを覚えられていない、あたしに豆腐をぶつけた女も。泣きたいくらい、みじめだ。

「…あんた、その女、だれだかわかる?」

青い男は少し止まって、心あたりがありすぎるなぁ、と言った。死んじまえ。

「マニキュアがね…、真っ赤だったよ」

血みたいだった。ああ、あたしがそこまで言ったのに(あんな女のために!)、青い男はまだはっきりしない顔をしていて、ああ、もう、やっぱりこいつさいあく。

「………帰る」

あたしは疲れて呆れて悲しくなったっていうのに、青い男は、えっ、もう行くの?久しぶりの再会なのに?なんて言いやがるから、あたしは会いたくなかった。できれば一生ね。BUYBUY。そう早口で言い終えて、走って逃げようとした。

「あっ、まって、最後にひとつ!」

けど、ずっと疑問だったことを訊いてみたくなって、叫んだ。

「ねぇ!なんであんた、つきあう女つきあう女に、あたしの話するの?」

そうだ。だって、わざわざあたしの話をする必要はないのだ。 今までのように、なにも言わずにいればよかったのに。

「どっちがいい?」

青い男が笑って訊く。あたしは赤面した。でも、必死に、ほんとの!と答えた。


青い男があたしの話を、つきあっている女にする理由。可能性はふたつある。ひとつは、あたしがきらいだから。きらいだから、わざわざ女をけしかけるようなまねをする?もうひとつは、あたしがすきだから。あたしがすきだから、ついついつきあっている女にも、あたしの話をしてしまう?

青い男から言わせなければ、だめだ。青い男はやさしいから、すぐに嘘をつく。すがりつきたくなるような、嘘をつくから。


「なおこがさ、はじめてだったんだよ」

でも、でもでも、あたしも、本当はすがりつきたかった。すがりつけたら、楽なことを、あたしは知っている。本能が叫んでる。だって、だってだってだって、すがりつけたら、あのときのむなしさが、押し潰されそうなむなしさが、なくなる気がするから。すがりつきたいじゃない!

「俺をフッた女、なおこがはじめてだよ」

ねぇ、でも、知ってた?男のきれいな嘘にすがりついた女って、とってもみじめなの。あたしはみじめにはなりたくなかった。だから、青い男がみっつめの答えを言ったとき、あたしはずいぶん安心したことを覚えている。

「そっか、あんた、いっつも自分からフッてたんだっけ。そっか、あたしがはじめてなんだ、はじめて、あたしがはじめてあんたをフッたの……」

すきでもなく、きらいでもない。だから、あのときのむなしさは消えないけれど、あたしは満足だった。ずっと知りたかった答えを知ることができたから。あたしは青い男の、あたしに傷を残した青い男の、心に住んでいるんだ、と。悲しい?と青い男があたしに訊いた。

「まさか。満足だよ。今日、あんたに会えてよかったかも」

俺も。と青い男が歩きだす。あたしと逆方向に、しっかりと。あたしはただただ満足だった。青い男は生きている。

「なおこ!」

なぁ、俺のなまえ、知りたい?あたしは、すぐに、知りたくない。と断ることができた。あんなに後悔して、知りたい知りたいと渇望していた、さっきまで。それなのに、今はぜんぜん知りたくない。ふしぎね。

「うん、わかった。じゃあな、なおこ」

まるであの日みたいに青い男は去っていく。でも、あたしは爽快だった。新しい風に乗って、どこまでも行けるような気さえした。あたしは生まれかわったのだ。もう青い男にとらわれていたさっきまでの、あたしじゃない。

「「BUYBUY!」」

二人の声が重なって、夜の街に弾けて消えた。青い男の後ろ姿が……、夜に、

「じゃあね、じゃあね、じゃあね…、」

夜に溶けた。青い男は最後まで青かった。


あたしは豆腐まみれで少し泣いた。明日からは強く生きていけるような気がする。

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