目の前も見えない
『江戸の桜は今日が満開のピークでしょう』
土曜の朝、無心で納豆をかき混ぜていた耳の端でそんな言葉を聞いた。
朝食を済ますと神楽は定春と散歩に出た。
ぶらりとかぶき町を回ってそしていつもの公園に来た。満開の桜の木々が平凡な公園を鮮やかに彩っていて、目の前にひとつ風が吹き抜けていった。
神楽は定春に乗ったまま、桜の木に近づいて根元からそれを見上げた。桜が咲いていることは知っていたが、こうして落ち着いて近くでみるのは初めてだろうか。遠目でぱっとしか見ていなかった桜はただ桃色の固まりのように把握していたが、小さな花をひとつひとつ見るとその色はとても淡く、何本にも分かれた幹や枝に映えていた。そしてこうして木の下に立っていると、とても良い香りが神楽の周りを包み込んだ。
うっすらと酔うような甘い香りが。
「良い香りアル」
花の固まりのひとつを枝ごと定春の鼻に持ってゆくとくしゅん、と小さくくしゃみをした。
伏せて寝てしまった定春の横で神楽はまだ桜をみていた。
どれだけ時間が経ったのかは知らないが一向に飽きることはなく、いつまででも見ていたかった。
桜に囲まれた自分はとても幸せでとても寂しかった。
「何ぼーっとしてんだ神楽、もう昼飯だぞ」
聞き慣れた声で名前を呼ばれて、やっと神楽はその場を離れた。
どこかの誰かお偉いさんの何かの祝賀会だとかなんとかで地球に来ていた神威は、その会場である船に揺られながら丁度目の前の料理を食べ終えたところだった。
阿伏兎はどこかへ応対だとか言って隣の船に行ってしまい、暇を持て余していたので小さな襖窓を少し開けて外を見た。
外は石竹色一色、穏やかなこの川沿い一面に満開の桜がずっと遠くまで咲いていた。
風に乗って淡い甘い香りがふわりと鼻を掠めた。水面には映った桜や散った花びらが優雅に浮かんでいて、舟の中の賑やかさとは打って変わった華やかさだった。
「眩しいな」
そういえば。こうやって静かに桜を見たのなんて、初めてではないか。性に合わないと自分自身で思いながらもこの景色からは目が離せなかった。どんどん吸い込まれていく。でも、本当に心から綺麗だと思っているのに、どうしてこんなに寂しいのだろうか。
「団長…っておいおい。部下に面倒事押し付けて自分は優雅にお昼寝でございますか、すっとこどっこい」
次の日の日曜日
一日中静かに降り続けた雨で桜の花はほとんど散ってしまった。