8/3 14:20
 
 
「……イ、センパイ!!」
 気が付くと、椎名は広瀬に連れられて部屋の前の廊下にへたり込んでいた。
「あ、ひろせ……」
椎名が顔を上げると、心配そうな後輩の顔が目に映る。混乱と、不安と、疑問。広瀬の中のそんな感情の渦を感じて、椎名はクラクラした頭でどうすべきかを考えた。
「センパイ……どうかしたんですか?もういい加減、教えてください」
 言っていいのか、悪いのか。判断できない。初めてだった。自分がしたいことと最善策が一致しない。もう椎名は、アレを自分の気のせいだなんて済ませられるものではないことに気づいていた。
 縋りたい。怖いと、恐ろしいと、こんなことがあったんだと、言いたい。
 でも弱音を吐いてしまえば途端に、自分たちの関係性――『センパイ』という立場が崩れそうだとも思った。それと同時に、自分に降り掛かっている何か恐ろしいものが、目の前の守るべき後輩にも訪れてしまいそうだとも。『センパイ』としては、後輩を守るためにも、面子を保つためにも言うべきではないとわかっている。それでも――怖い。身体が震えるほど、恐ろしい。
「……」
躊躇うような椎名の様子に、広瀬は悲しげにふっと笑った。
「……なんだ、広瀬」
問えば、広瀬は自嘲的な響きでそれに答えた。
「俺には何もいってくれないんですか?さっきセンパイが俺に言ってくれたこと、俺にも言う権利、ありますか?」

――『個人的なことなら、無理して言わなくてもいいが、話して楽になるような内容だったら聞くぞ、なにかあったのか?』
「あ……」
『センパイ』として自分が言ったことを、自分が言ってもいいのかと広瀬は問うたのだ。それは多分、今までの関係性から言えば――『生意気だ』なんて終わってしまうような問いかけなのだろうけれど――。
 椎名は、グッとしゃがみこんだ膝の上で拳を握りしめた。頼ってもいいのだろうか。甘えていいのだろうか。先輩だからって、肩肘張らなくてもいいのだろうか。自分は、どう在りたい?

「……できれば場所を変えたいんだけどいいか?」
「!」
椎名は、喉を絞ったような声で、広瀬から視線を逸らして言った。

「すこし、落ち着いて説明したい」





 しばらく互いに無言で歩いて、県警本部の建物を出た。さっきのようなことがあった今、椎名は早く県警の建物を離れてしまいたかったからだ。外に出ると目で伝えた時、広瀬は少し驚いたようではあったけれど、何も言わずに黙ってついてきてくれた。ありがたい、と椎名は思った。

「さっきは急に取り乱して悪かったな」
近くの行きつけのカフェに入ってしばらくしてから、ようやく椎名は口を開いた。
「いや、俺こそ突然なんだか問い詰めてしまって……」
広瀬はブンブンと首を横に振って、椎名の謝罪に驚いたようだった。
「当然だろ。いきなりさっきまで普通だった奴がおかしくなりだしたら誰だってああなるさ」
「でも……」
椎名は先ほど頼んだブレンドコーヒーを口に運ぶ。温かで優しい香りが体中に広がって、やっとひとごこちつけたように思えた。だけれど、まだあれを思い出すたびに体中が酷く冷たくなる。これを分かち合ってほしい、という思いは甘えだろうけれど、甘えたいと思った。

「突拍子もない話だと思うかもしれないが、聞いてくれるか」
広瀬はにこりと綺麗に笑い、自分が頼んだカフェオレを一口飲んで答える。
「……こっちだってさっきは突拍子ない話してるってのに、センパイはちゃんと親身にきいてくれたじゃないですか」
椎名はその言葉に少しだけ安心して、言葉を続けた。

「実は、最初に俺が何か聞こえるっていったとき、ずっと外から窓をバンバン叩く様な音が聞こえていた。その後、窓に手形みたいなのが付いてるのも見えた」
「そんな音、俺は……」
「ああ、それでこれが心霊現象みたいなものか、まぁ気のせいかななんて思ったワケだ。でも――その後、」
変な黒い影、と言いそうになって椎名は口を噤んだ。コレ以上、伝えてしまっていいのだろか。何か伝えれば伝えるほど、取り返しのつかないことをしているような気がして、椎名は気付かないうちに下を向いていた。ふと、コーヒーの水面に映る自分の顔が目に入る。思ったより情けない顔で、急いで顔を上げて広瀬の方を向いた。

「とりあえず、幽霊とか騒いでお前を付き合わせるわけにはいかないと思って、外で待機してもらってたんだ。そしたら……ちょっと予想外の事が起きて」
「予想外のこと、ですか……?それってやっぱ、お化けっすか?」
広瀬は椎名の話にビビっているようで、ひくひくと顔をひきつらせていた。その様子に椎名は少しだけ和んで、言葉をつなげる。
「ああ、……まぁ、そんな感じだ。てか、中に居るっていうか、俺についてきてるみたいでな……いや、もしかしたらあの部屋にもともと居たのかも知れないけど……」
「ええ!?今は、今は!?」
その言葉にガタリと広瀬は立ち上がった。そしてキョロキョロと広瀬は椎名の周囲を見回して、見えない何かを警戒するように顔をこわばらせている。
「いや、今はそういう気配はない……ってか、おい、お前ちっとは自覚しろ、今凄い目立ってたぞお前」
「えっ?あ、そうっすか?」
突然芸能人みたいな男が立ち上がったせいで、周りの女性客が色めき立って広瀬の方を見ている。慣れた光景だと思っていたのに、何故か今は少し腹立たしい。すぐに座って照れたように頭に手をやる広瀬にため息をついて、
「とにかく……今後こういうことがあったら、すぐに言うから、あんまり心配しなくていい」
「約束っすよ!?」
「おお」
椎名はくすりと笑って頷いた。可愛くて、頼りになる後輩だと思った。自分が本部で思ったことなんか、杞憂だったのだと分かった。
 でも、それと同時に、守りたいと思った。
 椎名は勘というにはあまりにも確信めいたものをその胸に抱いていた。そのひとつは、さっきの出来事が今回の行方不明事件と何か関わりがあるに違いないということ。
 
「じゃあ、これ飲んだら調査しにいくか」
「はい!」

 そして――これは多分杞憂では済まないのだ、ということ。

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