8/3 14:15


「っ、どうしたんすか!」
広瀬は再び、青ざめた顔でへなへなと床に座り込んでいる椎名の元に駆け寄った。全く状況が理解できない。突然の命令も、彼の行動も、その表情の理由も。
 それがもどかしい、と広瀬は思った。やっと同じ職場で働けるようになって、近くなったっていうのに。センパイって呼べるように、俺も刑事になりますなんて大見得切った昔のバカな自分を、バカにせずに受け止めてくれたっていうのに。何の役にも、立たない。広瀬は無意識的に唇を噛み締めた。
「センパイっ!なんかあったんすか!?」
椎名はしばらく呆けたように窓を見ていたが、広瀬が肩を揺さぶったことで正気に戻ったらしい。広瀬にもたれかかりそうになって、慌てて体勢を立て直した。
「っ、あ……」
「センパイ、何があったんですか?」
広瀬は椎名に肩を貸すようにして彼を立たせた。しかし椎名の表情はまだ微かに、何らかの感情によって揺さぶられているように見える。広瀬は、その感情が何かよく解らなかった。驚きというよりも、まるで何かに恐怖しているようで――しかし、その原因となりそうなものは、広瀬の目には映らない。
「!!」
椎名はしばらく広瀬に顔を向けていたが、意を決したようにもう一度窓の方を向いた。そして、また目を見開いた。
「……なんで、無いんだよ!」
「無い、って、何が」
広瀬は自分の隣で震えているのが、まるで自分の知らない人物のようだと思った。
「やっぱり幻覚、いや、そんなワケない……そんなのあり得ない……そうだ!下に誰かが居てあんなことしたに違いない……そうだきっと、」
椎名は広瀬を置いて走りだした。目指すのは勿論部屋の外である。まるで何も見えていないようなその様子に、広瀬はいくらかの気味の悪さと同時に不安が胸を覆った。どうして、何が、彼に起こっているのだろうか。
「センパイ!!!」
広瀬は思わず叫んでいた。突然様子のおかしくなった、普段は一番頼れるはずの人が今は、何かに怯えるように意味不明なことを言っている。怖い、と思った。
「……ひろ、せ」
広瀬の心の底からの叫びは、なんとか椎名に伝わったらしい。椎名はその声に反応してくるりと振り返り、広瀬の方を向いた。
「……すまん、今はまだうまく説明できない。とりあえずこの部屋から出てすぐの廊下で待機しててくれ。……俺は下を見てくる」
その声は未だ硬く、広瀬はますます不安になりながらもその言葉に従うよりなかった。





 ちょうど資料室の下は、貴金属の類ではない拾得物を収納する部屋だった。今の時間は特に鍵は掛かっておらず、警察官ならだれでも出入りは自由だ。
 椎名はその部屋の前で、小さく息を整えながら中の気配を伺う。しかし中から物音はひとつもせず、誰も居ないように思われた。
 
「……何もない、か」

中に入ると、雑然とした様々なものが机の上に置かれている。少し埃っぽいが、特にさっきの現象を、少なくとも連続的な音を引き起こしそうなものは無い。
しかし、それらよりも椎名が気になったのは、目の前の窓である。上の部屋と同じように、部屋の奥の壁に窓がある。普段なら気にも留めないはずのことが、何故か嫌に目についた。掃除が行き届いているおかげか、窓には手垢のような汚れは一切存在しない。
「やっぱり、気のせいだったんだろうか」

椎名がそうつぶやいて、窓に少し近づいた途端のことだった。じんわり、じんわりと、窓の中心部に赤い手形が浮かび上がってくる。まるで、椎名の言葉を否定するように。椎名の現実逃避を嘲るように。

「〜〜!!なんで、こんなこと、」

あり得ない。そう、あり得ないのだ。窓の外には誰かが姿を潜められるような場所はない。手形が自然と浮き出てくるなんて出来るはずない。

だが、椎名はそれよりももっと、不可能なことに気づいた。
先ほど、資料室での赤い手形の血液は、外側の窓枠に滴っていた。

だが、今、それは――内側の窓枠に、ぽたり、ぽたりと垂れている。


(うそ、だ)
「――っ、はっ、はっ、」
胸の動悸がひどくなって、呼吸がどんどん浅くなる。息が吸えない、と思った。苦しい。それでも、足は動かない。その場に釘付けになったように、椎名は窓の前でぴくりとも動けないでいた。
(これが、金縛りってやつなのか……?)
そのとき、椎名の鼻腔に得体のしれない臭気が漂う。それはドブ川をさらったかのような、ひどい悪臭だった。
(!?)
椎名がそれに気をとられた瞬間、酷い頭痛が彼を襲う。そして、頭の奥の奥、いつもは意識すらしない頭の内側に、ある“声”が響いた。

『…………われわれを……おそれ…よ……そのこころ……われらの……戸となり……ちからとなりて……』

(くっそ……意味、わかんね、え……!)
子供や大人、老人の声が幾重にも重なったかのようなその不協和音が椎名の耳元で、確かに意味を持つ声として聞こえる。ガンガンと頭の痛みはまるで内側から何かが暴れまわっているかのように椎名を苦しめる。
「ぅあ……!」」
そのとき、椎名は目の前の窓に、奇妙な影が映るのを見た。
自分の背後に、黒い影がすっと走ったのだ。まるで何かが椎名についてまわっていたかのように、監視していたかのように――。

「――っ、ひ……」

 彼が恐怖と頭痛に思わず膝から崩れ落ちた瞬間、窓に垂れる赤い手形も、黒い影も、スルリと消え失せる。
 
 残されたのは、脂汗をだらだら流しながら、床にへたり込んだ椎名の姿だけだった。

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