8/3 14:00

 椎名は、その年の中ではそれなりに優れた能力を持っている警察官だった。そうでなければその若さで刑事になることなど出来ないし、調査に向いた平凡な容姿を利用して、それなりに事件解決に貢献してきたという自信も有る。
 
 だが、彼はひとつ、大きな勘違いをしていた。
 
 
 
「お前の方はなんか出たか?」
椎名は広瀬を自分の隣になんとか座らせて尋ねた。
「いえ、特には……まぁ交通事故の類とか、女性の連れ去りとかは多いみたいっすけど、直接の関連性は見受けられません」
そうか、と椎名はノートパソコンをいじりながら答えた。
「まぁ、参考になるかわからんが……流石というべきかなんというか……犬鳴峠の噂はすごいな」
犬鳴峠で検索すれば、たくさんの情報が飛び交っている。椎名がチラリと目を通しただけで、まるで幽霊話のテンプレのような体験談(本当か疑わしいと椎名は思う)が溢れかえっていた。ただし勿論、それとは別に至って普通の情報もある。たとえば意外と付近にはハイキングルートや温泉、民宿などがあり、観光客も多いということ。むしろ幽霊よりも暴走族などがたむろっており危ないということ。結局、地元の人間からすれば幽霊騒ぎよりも暴走族の方がよっぽど実害があるだろう。また、幽霊目当てでやってくる浮かれた大学生のマナーの悪さも問題になっているという。
 ただ、それは情報の総量からすればほんの一部。やはり幽霊やらオカルトやらの話ばかりで、そういうものに対してさっぱりな椎名は広瀬に尋ねた。
「うーん、やっぱりオカルトちっくな内容が多いな……お前はこういうの詳しいか?」
「おおおおおおれは別にビビリとかそんなんじゃないっすよ!!」
「あ、スマンスマン」
また半泣きになりそうな広瀬に苦笑しながらも、椎名は少し思いついて、意地悪く広瀬の耳元に囁いた。
「いや、ただ向かうとなるとな。実際、表向きに出すわけにはいかないがそういう怪異絡みの事件もない訳じゃないらしい。覚悟はしとけよ」
「やややややややめてくだささいよ俺は殴れないものは嫌いっす!!」
広瀬は固まってさらに距離を詰める。椎名は続けた。
「……なんてな!」
「〜〜っ!楽しんでる!!」
キッと広瀬は椎名を睨んだ。しかしそんなのを気にする椎名ではない。
「お前一課にはその腕っ節も買われてんだ。俺にひっついて半泣きでしたーなんて噂、格好がつかねえぞ」

そう、だから椎名はこの資料室に人が居なくなってよかったと――勘違いしていた。

「関係ないっすよそんなの!」
「さぁてどうだか」
そう言って椎名はパソコンをシャットダウンさせ、出口のドアへと向かった。それに広瀬も従う。

 そのときだった。
 ドン、という音が、室内に響く。まるで、何かが壁か窓にぶつかったような音だ。
「なんだ?」
音がした方をパッと反射で振り向くと、窓に何かがぶつかったような跡がくっきりと残っている。
「どうしました?センパイ」
広瀬は突然立ち止まり、室内を見回す椎名に対して怪訝そうな表情を浮かべている。
「いや、今音がしたような気がしたんだが……少し窓を見てくる」
「え?」
椎名は広瀬をドアの前に置いて、来た道を戻った。音がしたのは一番奥の窓から。何かがぶつかったにしては、何故か耳のすぐ近くで聞かされたような不快感があった。やけに耳につく、無視ができない音だった。
「……?」
椎名が不審に思って窓に近づくと、その向こうには跡の他は何もなかった。しかし、再度――どすん、という大きな音が聞こえる。だが今回は先程と違い、断続的にその音が響く。どん、どん、どん、どんというその音は、まるで誰かが窓の外でガラスを叩いているような音だ。しかし、椎名は不思議に思った。
そこには何もなかったからだ。当然のことであるが、窓の外に何か音の発生源になりそうなものはない。だが、窓には何かがぶつかった跡がくっきりと残っている。

(……ここは、四階だ)
嫌な考えが椎名の頭に浮かんだ。今の音が――誰かが拳を握りしめて、助けを乞うようにどんどんと乱雑に窓を叩いているように聞こえたのだ。そうすると、窓についているたくさんの跡は、人の手の跡に見えなくもない――いや、そうとしか見えない。

(……いやいや、まさか)
さっきまで見ていたネットのページが頭をよぎる。そういえば、ポルターガイスト現象なんてものも載っていたような気がする。あれは車のフロントガラスになっていた。手形がびっしりと車に付いているなんてありえるもんかとさっきまで笑っていたはずなのに――そう思えば思うほど鳥肌が立ってきた。あぁ本当は目を背けたいのに、何故か窓ガラスから目を外せない。音は連続的に鳴っている。それどころか、まるで自分を急かすようにどんどん早くなっていく。はやく、はやく、はやく、はやく!!

「――っ、ひろせ!」
自分が思ったよりも情けない声で、椎名は後輩の名前を叫んだ。その声に、後ろで首をかしげながらも椎名の背中を見守っていた広瀬がすっ飛んできた。
「どうしたんっすか!?」

その瞬間、音が止まった。今までの耳を塞ぎたくなるような音は忽然と消え去り、室内は再び静寂と平穏が支配する。
「……どうしたのかって、お前、聞こえてなかったのか…………」
椎名は口を手で覆いながら、窓から視線をようやく外して広瀬の顔を見た。心配そうな、そして戸惑った後輩の顔だ。それは椎名からすれば日常を象徴するような光景で、冷えた身体に再び血が通い始めた気がした。
「はい?」
「ああ、いや、……悪い、気のせいかもしれない」
そう、気のせいだったのだ。さっきまであんなものを調べていたから、気付かぬうちに引きずられていたのかもしれない。そうだ。そうに違いない。椎名はそう自分に結論づけると、無理やり窓に背中を向けてもう一度この場から立ち去ろうとした。勿論、彼はそれが不自然で自分にとって都合のいい思い込みだということを心の奥底では理解している。それでも、そうやって誤魔化すつもりだった。

 だが、“何か”はそれを許さなかった。
 
「!!」

 バシンという、今までより一際大きい音が室内の空気を震わせた。誰かがまるで、平手で窓を叩いたような音だ。椎名は自分の身体が、表情が、こわばるのを感じた。その様子に広瀬はますます首を傾げる。それで、椎名はまたこの音が自分にしか聞こえていないと知った。それと同時に、その事実は椎名にとって恐ろしい事態を考えさせた。怖い、危ない、というよりも先に――広瀬に気付かせてはならない。頭の中に灯ったハザードランプが、これが危険だと全身に伝えている。しかし、広瀬は事態を把握していないのだ。赤信号に気付かないで、横断歩道を渡るように――。

「広瀬!お前、ドアのとこまでダッシュ!」
背後の窓に意識を向けるより先に、椎名は広瀬に向かって叫んだ。
「は!?」
「いいから早く!!」
突然の奇行に広瀬は目を見開いて驚いたが、体育会系のサガか、自分の疑問よりも年長者の言葉の方に身体は従う。広瀬が駆け出した瞬間、椎名は背後へと振り返った。

「……っ、あ、嘘だろ……」

 椎名は目の前の光景を見て、呆然とそう思った。
 
 窓の中央部に、血まみれの手形が、鮮やかな赤を滴らせている。まだ乾ききっていない血が、ぼたぼたと外側の窓枠に垂れている。椎名が外をいくら眺めても、そこには誰もいない。しかしその手形は確かに、窓の外側に、血塗られた何者かがいたことを示していた。


――椎名はひとつ、大きな勘違いをしていた。
犬鳴峠は確かに、暴走族や交通事故なども考慮すべき場所である。
だが、この事件は――そのような“普通”の範囲をはるかに逸脱していた。
彼らは、日本屈指の心霊スポットにおける怪異と、真っ向勝負をしなければならないのだ。

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