プロローグ


 ぱしゃん。

 聞こえないはずの波の音が聞こえたような気がして、男は思わず後ろを振り返った。だが、背後に広がるのはただただ鬱蒼とした濃い緑が茂る細い道のみである。どこにも、そのような音の発生源となりそうなものはない。
 男はそうだろうな、と思った。聞こえるはずがないのだ。いくら海に近いからと言って、ここは海岸線が見えるほど、波しぶきの音が聞こえるほどの場所ではない。気のせいだろう。

 もしくは、これからの予兆か。
 
 男は目を細め、しばらく自分が今まで歩いてきた道を眺めた。決して平坦とはいえない大きく曲がりくねった道だ。あちこちに大きな木の枝や崩れた石が転がり、人通りの少なさを感じさせる。まるで自分の人生のようであると男は思った。男は生まれてからずっと疎まれ蔑まれてきた。そんな環境から逃げるように故郷を去り、人付き合いを避けて生きてきた。しかし、今こうしてここに至るまで、男は故郷のことを一度たりとも忘れたことはない。常に男の心はあの磯臭い村に縛り付けられていた。
 
 そして、男は今から、そんな人生に終止符を打つ。
 
 男は前へと向き直った。眼前にはまるで待ち受けていたかのように、ぽっかりと口を開けその暗闇をさらけだしたトンネルがある。ざくりざくりと地面を踏みしめながら、男はそのトンネルの入り口に立った。ごうごうと、まるで生きているかのような音を立てながら風が男を包み込む。歓迎している、と男は思った。
 
「すまない」

 足音をトンネルの内部に反響させながら歩く途中、男はもう一度背後を振り返りつぶやいた。そのとき彼の脳裡に浮かんでいたのは、最後に出逢ったある一人の男の姿である。余りにも重い物を彼に背負わせたと、最期の最期に彼は生まれて初めて自分の行いを恥じた。しかし、それでも男は、前へと進まなくてはならない。たとえどんな破滅が、どんな絶望がそこに待っていたとしても、男は出口のないトンネルに突き進むよりほかない。男は、もがき続けなければならない――否、それを彼自身が望み、選んだ。
 
 男は、また前を見据えた。
 
 
 
 
 男が入ってからしばらくして、トンネルからはまるで海辺かと錯覚するほどの強い磯の香りを含んだ風が吹き荒れた。合わせて波の音が周囲に響き渡った。
 しかし、それを知っている者は誰一人として存在しない。その後いくら時間が経っても、男が出口のないトンネルから出てくることはなかった。幾度と無く季節が巡っても、二度と出てくることはなかった。

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