同級生たちと違い、卒業式とはいえ彼は涙をこぼさなかった。勿論彼は思春期、人前で泣くなんてことをプライドが許さなかったと言うこともできた。だが、一番の理由は今、隣に座る友人である。卒業においてほとんどの人が懸念するだろうこと――友人との別れだが、彼と自分の志望大学は同じ。つまり、うまく合格すればまた今までのように顔を合わせることは出来るのだ。学部は違うから共に過ごす時間は減るかも知れないが、それでも卒業以来会えないなんてことはない。だから、彼には卒業なんてもの、単なる一区切りにしか思えなかった。

 中学二年生まで、彼には友人と呼べるような親しい間柄の人物はいなかった。それには彼本来の気質に加えて、父親が頻繁に転勤を必要とする職業に就いていたことも関係していた。二人組が嫌いだった。学校の合宿や修学旅行が怖かった。いじめられている訳ではないが、決して教室は彼にとって過ごしやすい場ではなかった。
 そして中学二年の二学期に、彼は今の地域に引っ越してきた。父親の仕事も落ち着き、しばらくここで過ごすことができる、そう聞いても彼は最初、素直に喜べなかった。今ごろ転入して、自分に友達が作れるはずがない。友達がいないまま中学、高校を過ごすのは嫌だ、なんて考えながら登校した初日、彼の予想は大幅に裏切られた。

 彼は、その友人が中心的な存在であったクラスに編入した。友人はクラスで一番の人気者で、責任感のある人物だった。だから友人が彼に声をかけたのも最初は単なる義務感からだったのかも知れない。だが、しばらくしてそれはすぐに友情に変化した。
 互いの家に遊びに行った。たくさん二人で遊びに行った。同じ高校に行って、笑って、そして今日のように、なんでもないことを二人で話し込んだりしていた。


 そう、彼を救ったのは、
『……っ、ふ、』
今、隣で突然、言葉を詰まらせて嗚咽を漏らし始めた友人である。
『――どうしたんだよ』
彼は驚きを隠せないまま、友人の方を向いた。今二人は、今までずっと放課後話すのに使っていた空き教室にいる。壊れた机や椅子が散乱したそこは、まるで墓場のようで、好きこのんでこんな場所に来る酔狂な人間は彼らだけである。だからこそ彼らはここを見つけてからずっと、このほこり臭い場所を自分たちの秘密基地のように思っていた。そして、その思い出の欠片たちが眠る墓場とも、今日でお別れだ。
 確かに、それは涙するに値するかも知れないと彼は呆然としつつ思った。だが、何故か自分との関係性が軽視されたような気がして、彼は微かな苛立ちを感じた。
『――ごめん、突然』
『いや、いいけどさ……まぁ、卒業だし、』
でも少し意外だった、と口にしようとしてやめた。友人はクラスでも中心的な存在で、自分とは違う。学校への思い入れも自分よりあるに違いないのだ。
『でもまぁ、大学受かってたら俺とは会えるんだから泣き止めって』
茶化すようにそう言って、彼は友人の背中を叩いた。しかし本心だった。俺もそうなのに、お前は違うのか?なんて、言えるはずもないけれど。
『……実はさ、言いたいことがある』
だが、友人は彼の言葉でより一層表情を強ばらせた。そこには何らかの恐怖と緊張満ちていて、彼は解らないながらに釣られて、ごくりと唾を呑んだ。
『……なんだよ』
『あのさ、俺――』


スロースターター


「……夢、か」
掠れた声で呟いた彼は、近くにあった時計の時刻を見て一瞬驚き、しかしすぐに、
「そうだ、昼寝してたんだった」
そう呟いてまたぱさり、と頭から毛布を被った。目を閉ざすとまぶたに先程まで“居た”懐かしい母校の様子が浮かぶ。
(たった一年ぐらい前のことなのに)
そのあとの展開なら片時も忘れたことは無いはずだったが、こうやって改めて見させられると懐かしさと微かな恨めしさが身体中を駆け巡る。
「なーんでこんなことになったんだろ」
思ったより大きな、そして芝居がかった声が出たことに驚き、彼は布団の中で目を開いた。薄暗く、暖かい空間。この心地よくも生暖かい温もりの中にずっと居たいような気がする。だけどそれは許されない。
――いつかは壊さないといけないのだ。
「……起きるか」
彼は上体を起こし、ぐぐぐと背伸びをした。勿論布団はぱらりと落ちて、温もりは消え去った。


『俺、お前のことが、好きなんだ……その、付き合ってほしいとか、そういう意味で』
『……、マジで』
『いきなりごめん、でも、その、もう我慢できないから言ってしまおうって、思ったし、それに』
『……それに?』
『大学、きっと受かってると思ってるけど、同じ大学でも学部が違えば、離れるのは簡単だし、もう今日で俺たちは卒業だし』
『うん……』
『ごめん、ほんとは、言うつもりなんかなくて、でも今日言わなかったらきっと俺たち大学でも今までみたいにつるんで、それ、めちゃくちゃ、辛いなって思ったら泣けてきて』
『……今まで、辛かったのか』
『――わかんねえ……お前と居るのは勿論楽しかったけど、でも、……自分を偽るのは、きつい』
『……』
『ごめん、もう会わないから、聞いてくれて、ありがとう――ははっ、正直もっと冷たい反応を予想してたから嬉しいよ……やっぱ、お前を、』


「――“好きになってよかった”」
既に日は落ち、黒々とした窓ガラスに映る像で身だしなみを整えながら、思い返した言葉を思わず口に出した。
今まで友人と思っていた人物が自分へずっと片想いしていたというのは、彼にとっては非常に衝撃的だった。それに加え、もう自分とは会わないと言う。全く予期せぬところからガツンと殴られたかのように、何の心構えもしてなかった彼にそれらは確かに重すぎた。だが、
「確かにお前の言う通り、自分を偽るのは、きつい」
何よりも彼にとってショックだったのは、まさに恩人というべき人物の青春を踏みにじった上で、自分はのうのうと自分の幸せを甘受していたという事実だった。最高の高校三年間をくれた人物の三年間を、最後に泣き出したくなるくらい辛いものにしていたのは、紛れもなく自分で――口の中に砂を含んだような不快感でいっぱいになる。罪悪感が鎌首をもたげだす。
だから、彼は、あのとき、
『――付き合おう』
『……え、』
『突然でびっくりしたけど、いや、じゃないし、だから』

もう二度と会わないなんて、言わないでくれ。

その言葉は呑み込んで、彼は友人だった人物に恐る恐る抱き着いた。それは、彼にとっては自分が本気だと証明するためだけの行為で、友人に恋人として触れたい訳ではなかった。恐れと罪悪感で震える体を、相手が緊張によるものだと受けとることを望んだ。
『っ、うそだろ……』
固く抱き締め返す元友人の手を背中に感じながら、自分はあのとき何を考えていただろうか、彼は覚えていない。ただただ動揺して、バカみたいに震えていた。あの埃臭い教室で、夕日を浴びながら、偽りのラブシーンを演じたんだ。――そう思った瞬間鳥肌が立った。


彼は携帯をチェックしてみた。新着メール一件。開くと『七時くらいに行く。』と書かれていた。いつも同じ時間なのに、律儀なヤツだ、と思う。だがそれ以上の感情は浮かばない。ただただ不安と、恐れと、罪悪感がいつも通り渦巻くだけだ。せっかくの“恋人”の訪れだというのに。

「……やっぱ無理だ」
食事をつくろうと冷蔵庫をしばらく眺めたりメニューを考えようとしたりしたところで、無駄だった。馬鹿になった脳は、先程の夢や、それから始まった茶番だらけの毎日を、自覚しろというように繰り返し再生する。
彼は冷蔵庫を閉じ、ずるりと背後の壁に背を滑らせながらしゃがみこんだ。
「……」
そしてポケットから携帯を取りだし、メールを作成する。時刻は六時半であった。
『今起きたからなんかコンビニでご飯よろしく』
すぐに返信を知らせるため携帯は振動する。
『昼寝つか夕寝か?わかった。今駅前』

「本当は結構前から起きてたけど、嘘じゃない」
虚実をない交ぜにした言葉を、嘘ではないと言い張った一年だった。



しばらくして、ドアのチャイムがなった。立ち上がって玄関にむかい、ドアをあけて出迎える。
「よっ!」
「……おう」
入ってきたのは勿論元友人である。片手にビニール袋を提げている。
「おまっ! いくら室内だからって……ちゃんと上着着ろよ!」
コートを脱ぎながら、彼を見て眉をひそめる。その様子に彼は、胸が疼いた。
「……別に寒くないし」
「見てるこっちが寒いんだつーのその薄着!あーさむ。早く中に入るか」
こいつ、ホント良いヤツなんだよ。ほんと。また、彼の胸は痛んだ。こんな良いヤツを、騙している。最初はただ離れたくないという幼い衝動だった。しかし今ではもう過去の自分の浅はかさを責めるしかない。

「――いただきます」
「いただきまーす」
小さなテーブルに、元友人が買ってきてくれた品が並ぶ。全部彼の好物ばかりだ。それが逆に、彼の食欲を減退させる。
「……」
「どうした? なんか飯食えてないけど……風邪ひいた?」
心配そうに、彼の顔をうかがう元友人。
噛み締めたパスタが砂のように感じた。


「いつ、なんだ」
「え?」
「いきなりでごめん。でも、聞きたいんだ」

いつ、どうして俺を好きになったりしたんだ。


それは、彼からしたら半分はただの疑問でもう半分はただの八つ当たりだった。
お前が俺を好きになったりしたから、俺はこんなに苦しい。俺はただ、ただ――
「そうだなぁ――いつだったっけなぁ」
思わず恨めしくなった瞬間、元友人のその優しい声にハッとなって、彼はいつのまにか俯いていた顔をあげた。彼は不思議に思う。どうしてだろう。解らなかった。突然友情を恋情と言った目の前のともだちが、わからなかった。

「お前さぁ、俺と友達になってしばらくしてから、俺になんて相談したか覚えてる?」
「確か……」
覚えていた。それは彼と友達になってから、それこそ半年ぐらいが経ったときだった。まだまだ彼以外に仲良く話せる人が居なくて、不安で、
「友達が、お前以外に出来なかったらどうしよう、って……」
「そうそう。あんときに俺は確か、『そんなことあるワケないだろ、大体、もうクラスのみんなはお前と友達だって思ってる!』とかなんとか言ったよな」
「あぁ……」
彼がこの経緯をはっきり覚えていた理由、それはその言葉が嬉しかったからだった。確かに同級生の名前は覚えたし、それなりに話さない訳じゃない。要は自分に自信がなかったからの、今となれば他愛ない――だけれど当時は、真剣な悩みだった。
「あれ、めっちゃ嘘つーか、とりあえず本心じゃなかった」
「はぁ!?」
彼は、すました顔でうどんを啜りながら返答した。
「ああ言えばお前が喜ぶだろうと思って言ったけど」
「えっ……てかクラスのみんなは俺のこと嫌ってたのか……」
「いや、そういう意味じゃない。むしろ、お前は好かれてたよ。頭良かったし顔も良いし、おまけに性格も控えめで良し」
「えっ、マジで?……てか何ベタ誉めしてるんだよ気持ち悪いな」
思わぬところで知った当時の自分の評判に顔を綻ばせた彼を、元友人は当時を思い出しながらどこか辛そうな顔で見つめた。
「俺、本当はお前にあの時、こう言いたかった」
そのただならぬ気配に、彼は安っぽいプラスチックのフォークを置いて、話を促す。
「……なんて」
「『お前に、俺以外なんて要らない』」
「え、」
絶句した彼に、元友人は続けた。
「俺結構ひどいんだよな。イヤだったんだよ、お前が誰かと仲良くしたりするの――勿論カノジョなんかもっとできて欲しくなくて、そんときだな、自分の“恋愛感情”って多分こういうことなんだろうって気づいたのは」
「……」
彼は黙って聞いていた。
「でもこんなこと、友達としては言えないから、ずっと嘘ついてた。でも、お前はどんどんクラスに溶け込んでいく。嬉しいはずのことなのに辛くて、このまま大学なんかでもっと沢山の人と話すお前なんか、見ていたくなかった。だから、友達以上になるか、離れるかしか俺には選択肢がなかった」
「……そういう意味の、『自分を偽る』だったのか」
彼がぽつりとそう呟くと、元友人はきょとんとした顔で返した。
「あれ、こういう話しなかった?」
「してねぇよ! だから俺、ホントに不思議だったんだ。俺、本当は、」
恋愛なんて分からないから、と続けようとして彼は思わず口を抑えた。いやいや、曲がりなりにも付き合っている相手に対してソレはダメだ。しかし元友人は優しく微笑んだ。
「好きっていう気持ちはひとつなのに、この世界にはたくさんの関係の形がある――でも、俺の好きって気持ちは、多分お前を独占したかっただけなんだ。最初に友達になった時みたいに、放課後あの教室で二人っきりでコソコソ喋ってた時みたいに」
そう言うと、元友人はそっと自らの右手を向かいの彼の頬に当てた。
「な、に……」
「……例えば、こうやってお前に触れるのも、俺だけ。それがたまらなく嬉しいんだよ、俺は」
元友人は顔をくしゃりと歪ませて笑った。その笑顔が、彼の心に鋭い痛みをもたらす。もう何も解らない。自分の気持ちも、恋愛なんてものも。でも少しだけわかったことがあった。それは、自分自身もそうだということ。あのとき苛ついた感情は、多分目の前の自分の恋人が言っている男の“恋愛感情”に似ている。自分と同じ大学に進む予定のくせに泣いた目の前の男のことを、本当は許せないほど苛立っていた。恋愛感情と友情の違いなんて解らない。だけど、友達と恋人がすることは全然違うことは解る。それでも、目の前の男が、好きだという言葉は本当だった。『嘘』という言葉で思考停止させていた。もともと大好きだったのを、忘れていた。

「……明日が、」
声は小さく、震えていた。目の前の恋人は、彼が口を開いたことで頬に添えていた手を離そうとした。だが、彼は離れていく手を掴んで元通りにさせた。それに驚いたように恋人は目を見張ったが、彼は無視した。
「ちょうど、俺達が今みたいになって、一年目……だよな?」
「……ああ」
「お前は、俺のことを好きだって言ったくせに、全然キスもしないわそれ以上なんか全然しない」
「! それは、……」
恋人はバッとこちらを見たあと、バツが悪そうに目を逸らす。その反応を見て、彼はフッと笑った。
「お前、分かってただろ。俺が勢いであの時頷いてるの。それでもいいって、思ってたのか?」
「……当たり前だろ、俺は、さっきも言ったみたいにっ、」
「解ってる。解ってた……」
スッと彼は恋人の手を離した。恋人は動揺したように彼を見つめている。彼は思った。きっとコイツは、今から別れ話が来ると思っている。そしてそれは正しかった。彼はそのつもりで今日という日を迎えていた。
だけれど、今は違う。
 彼は立ち上がって、座っている自分の恋人の隣に立った。そして驚いたように自分を見上げている付き合って一年目の恋人、または自分の大切な親友の姿を見た。どの肩書もしっくりこないのだ、どうせ。まだ向こうみたいに割り切れない。でも、少しだけ、少しだけ、思う。ああ、さっきカルボナーラなんて味の濃いものを食べなければよかった。
「どうした、……っ!?」
「んっ、……ぅ」
確かに、こうやって触れるのを許可されてるのが自分だけだという事実は、自分の体を満たしてくれる。柔らかく濡れた感触は、温かいひとのぬくもりを感じさせてくれる。今まで数えるほど、それも向こうからしかしてこなかったものを自分から行う。思ったよりも簡単で拍子抜けした。嫌いでもないのに付き合えないなんて、騙してたなんて言うより、もっと簡単だった。
「……な、どう、して」
「っは、ぁ、わかん、ない?……本当に」
唇を離した。彼は笑う。そして驚いたように唖然と自分を見る恋人の頬に、今度は自分の手を添えて、
「気づいたんだ。どんな関係性でも、お前はお前だし、俺は俺だって」
額をこつりと合わせて、もう一度唇を寄せた。何度だって出来る。コレが答えなんだろう。やっと追いつけたから、今まで待たせてごめん。
 お前のこと、好きになれてよかった。

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