目の前には海があった。荒れ狂う海だった。荒涼、なんて使い慣れない言葉がストンと心に落ちてくるぐらい、その言葉がピッタリな海だった。白い波がばしゃりばしゃりと僕たちが座るコンクリのはるか下の方を殴っている。たまに飛沫が掛かってめちゃくちゃ寒い。足の先から手の先まで震えが止まらないくらいだった。それに、コンクリの座り心地も悪くって、なんだかもう泣きたいぐらいだった。
 
――なんで、僕たちはここに居るんだろう。

 さっきからずっと思ってた疑問を投げかけようかと思って、隣に座る彼の横顔を盗み見る。彼はやっぱり、海の方を見ていた。その目は何かの決意に満ちていて、ひどく思い詰めた表情だった。だから僕は、やっぱり何も言えなかった。


その心中やいかに


 僕たちは、気づいたらここに居た。ここにどうやって来たのか、何のために来たのか、それすらも全く解らない。本当に、気づいたらこのクソ寒い場所にこんな薄着で突っ立っていた。そして目の前には彼が居た。
 彼は僕と同い年くらいに見えた。でも、もし違ったら気まずいな、なんて臆病なことを思って僕はそれを確かめる気になれなかった。
 彼とは初対面だと思った。何でかっていうと、彼を見ても全く誰か解らないから。でもすぐに、その推測は違うかもしれないとも思った。

 僕は今、自分の名前が解らない。

 自分の名前も解らない人間が、他人をちゃんと覚えているワケないじゃん。最初、その事実に気づいた時、僕は冷静にそんなことを考えた。自分でもびっくりするくらい、まるで他人事みたいな考え方だった。言葉はちゃんと使える。この格好でここに居たら寒いよな、とか、そんな一般常識もある。1足す1は定義不足だけど、多分2でオッケー。そんな冗談を言う余裕と思考力もちゃんとある。だけど、“人”に関して思い出そうとした時、僕の頭は目の前の景色みたいに白く霞んでしまうのだ。多分僕には両親だって居るだろう。兄弟も居るかもしれないし、友達だって居るはず。なのに、僕の頭がだれでもいい“人”と思われるものの情報を引き出そうとすると、それを嫌がるみたいに後頭部が酷く痛む。

 だから、今僕が知っている“自分以外”は、目の前の彼だけ。その彼もずっと険しい顔でこの海をじっと眺めているばかりで、僕にはさっぱり何一つ解らない。本当は今すぐにでもここがどこなのか、僕のことを知っているのかとかを訊いてしまいたいのだけれど、その横顔が余りにも厳しいから、声を掛けるのをためらってしまう。迷ってはためらい、迷っては前を向く。そんな馬鹿げたことを繰り返して、僕はやっぱり彼の横顔を見つめるしかなかった。海をじっと見つめて、僕の存在にすら気づいていないみたいな彼を。



 それでもう、大分の時間を費やした。暇だった。
(……なんでこんな一生懸命見てるんだろ、この人)
僕にとっては退屈なこの時間も、隣の彼にとっては違うみたいで。彼は飽きもせずじっと、ただひたすらに目の前の冬の海を見ていた。そんな様子に新しい疑問も生まれていく。不思議だった。風は頬を切るみたいに冷たくて鋭い。温かいのは服の中くらいだけ。全くもって快適さもなくて、文句の一つでも言いたくなるような状況で、彼の口が開かれることはない。そう思うとただ自分の存在を無視されてるだけのような気がして、なんだか突然めちゃくちゃ腹立たしくて悲しくなった。

「あのさぁ」
その原因不明の感情の突発に任せることで、僕はようやくその横顔に向かって問いかけることができた。吐いた息は曇らなかった。
「……何だ」
怪訝そうな声だったが、彼はこちらを向いた。それに少しだけ驚く。僕が居たことに気づいてたのかよ! いや当たり前だけど。でもそんな当たり前にホッとした僕は言葉を重ねた。
「ここ、どこなの?」
僕のそのありふれた質問に、彼は眉間にしわを寄せて返答した。
「見たら解るだろ」
……まぁ、海だよね。でも、そういうことが聞きたいわけじゃないんだけどなー。気を取り直して次の質問をする。っていうか、こいつ、めっちゃ感じ悪いな。でも、嫌いな雰囲気じゃなかった。むしろ、懐かしさすら覚えた。
「じゃあさ、どうして僕らここにいるの?」

 そう尋ねた瞬間だった。彼はびっくりしたみたいに目を見開いた。え、何、そんな変な質問なのかよこれ。当たり前じゃないの? 違うの?
「覚えて……ないのか!?」
僕の戸惑いなんて気づいていない彼が、僕の肩を掴んで揺らした。ちょ、気持ち悪い。そう言う余裕もないくらい、彼は血走った目で僕を見る。
「なんで、なんでだよ!! 嘘だろ!!」
「ちょ、嘘じゃないって、気持ち悪……やめてやめて」
彼の手を掴んでいなそうとすると、逆に彼に腕を掴まれた。
「何を、何を覚えていないんだ!?」
 彼は悲痛な面持ちでそう叫ぶ。しかし、僕はその質問に対しては、何もかも以外の返答を持ち合わせていない。多分そう答えたら彼は悲しむんだろうな、そう思ったら何故か体中のいたるところが苦しい。
「痛い痛い痛い……やめて」
思った以上に弱々しい、怖がったような声が出て、彼はハッと我に返ったようで僕の肩や腕を掴んでいた手を離した。目の前にあった彼の困惑にみちた顔が消えて僕が目を伏せると、彼はバツの悪そうな声を出した。
「すまん……」
「いいよ、別に」
 その声に、僕のからだは勝手に安心した。彼は、さっきまで海を見ていたときの熱心さで次は僕を観察し始める。その熱い視線に恥ずかしくなって、僕はしばらく押し黙っていた。すると、いくらか落ち着いた声で彼が尋ねた。
「なぁ、何を覚えてないんだ?」
僕は恐る恐る返答するしかない。
「ぜ、全部……かな。自分の名前も、ここに居る理由も、ここがどこかも、よく解らない」
「……嘘だろ」
彼は額に手をやってうめいた。その仕草になんとなく、本当になんとなくだけど既視感を覚えて、僕は喉の奥に何かがつかえているような気持ち悪さを覚えた。もう少しで思い出せそうで思い出せない。
「ごめん」
彼の信頼を裏切ったような気分になって、口から勝手に謝罪の言葉が飛び出ていた。それを聞いて、彼は苦笑して僕の頭をぐしゃりとかき回す。その笑い方も懐かしかった。それで、僕はこの人と多分初対面じゃないなと確信した。

「謝んなくていーよ……なぁ、頭、痛い?」
「え、」
「痛いよな。絶対」
唐突な話題の切り替えについていけない僕の頭を撫でる手が、何かを探すように僕の後頭部に回る。それは、なんとなく、
「……やらしい触り方」
「っは!? ちが、そういうつもりじゃない!! 何勘違いしてんだよ!!」
僕のおふざけに、飛び跳ねるように手を離した彼は、ブツブツと何か文句を言いつつ海へと向き直った。その行動には、先程までの冷たい印象を拭い去るような、人間らしい親しみやすさがあった。僕はもっと早く声を掛けたらよかったな、なんて能天気なことを思いながら言葉を接いだ。
「頭、いたいよ。確かに……それが、どうかしたの?」
彼は僕の答えに、あからさまにホッとした様子を見せた。
「いや……なら良い。安心した」
人の頭が痛くてよかったなんて、変な事を言う奴。でもそれ以上話す気が無さそうな彼と、僕にとってはどうでもいいことなので、その奇妙さは無視することにした。
「……君は、僕を知ってるんだよね?」
「当たり前」
新しい質問に、彼は何を今さらというようにさらりと返す。
「じゃあ、」
と思って口を開いた僕は、しばらくして口を閉ざした。
「……なんだよ」
「い、や、やっぱいい」
名前でも生まれでも、訊ねるべきことは沢山あった。でも訊ねたいとは思えなかった。さっきまで気になっていたのに、不思議とどうでもいい、なんて有り得ない言葉が浮かんでいた。
「何か訊きたかったんだろ。遠慮すんなよ今さら」
「いや、いいよ。なんか、どうでもよくなった」
僕らがこんな奇妙なやり取りを繰り広げていると、ざぱーんざぱーんという波の音に混じって、こつり、こつりという足音が背後からやってきた。
「ここに居たのか」
足音の持ち主は、そこら辺に歩いてそうなスーツを着た女性だった。黒髪をさらりとたなびかせて、僕らの後ろに立つ。その声に僕の隣の彼はお尻をはたきながら立ち上がった。
「ようやくか」
「すまないな、待たせて。手続きに少々手間取ったが、完了した」
ぶっきらぼうな彼女に彼は苦笑をもらした。
「なんだか……思ってたのと違うな」
「よく言われるよ。さて――」
勝手に進んでいく話に僕はオドオドとしながら、とりあえず彼に合わせて立ち上がってみる。すると彼は表情を和らげて、僕の手を握った。
「じゃあ、一緒に行こうな」

ジュワリ、と音がしたような気がした。

「あぁ、うん……!?」
掴まれた手首が一瞬で真っ赤に染まって、
「いだいっ!!」
僕は反射的にその手を振り払った。

「な、え?」
彼の手は、まるで灼熱に焼けた鉄みたいだった。ジュージューと肉が焦がされたかと思うほどの痛みに涙がこぼれ、僕の冷たい頬を温もらせる。だけどそれもすぐに冷えて、彼はしばらく呆然としたようにそんな僕と自分の手を交互に眺めていた。
「……どうして」
彼は僕の拒否に信じられないという顔をして、僕にまた掴みかかろうとした。それも、彼の温度も何もかもが気持ち悪くて、僕は避けた。さっき肩を掴まれたり、頭を触られた時にはそんなこと思わなかったのに。人の手じゃないと思った。きっとこの男は化け物か何かなんだ。目の前の男はまさに鬼のような表情で僕を見ているじゃないか。その顔に何かを思い出しそうで、僕はとっさに自分の手を後頭部に回す。

――どろり、と温かい何かが、僕の焦げた手を癒やすようにまとわりついた。
 
「おい――お前は、いけないぞ」
さっきの女性が、僕と彼に背を向けて海を見つつ、そう言った。
「は!? おい、どういうことだよ!?」
その言葉に、彼は振り向いて叫んだ。
「そのままの意味だよ。お前はいけない。ここまでご苦労」
「どういう意味だよ!? だって、ここに居るってことはそういうことなんだろ!? 早く俺たちを向こうに連れて行ってくれよ!!」
彼はヒステリックに声を上げた。僕はその様子に言い知れぬ不安と恐怖を感じる。しかし、彼女はつまらなさそうに答えるだけだった。
「お前は自分の名前を覚えている、自分の過去を覚えている。だからダメなんだよ。ほら、俗名とか言うだろう? 名前に縛られているうちはムリ。つまりは――そういう事なんだよ」

僕はその話を聞きながら、頭がガンガンして割れそうだった。いや、実際多分、『割れている』。ドロリとした血液は僕が気づいた瞬間そこに存在し始めた。後頭部の鋭い痛みの意味を僕は思い出す。僕は殺された。目の前の彼に、親友に。放課後告白されて、返事に困った僕が、彼に背中を向けて、帰ろうとしたその瞬間、彼は、僕を。

「――ッひゅぅ」

喉の奥の方がひきつって変な音がする。息が出来ない。血液が髪を、肩を、背中をどんどん濡らしていく。血液が一気に失われて寒い。今までの僕の寒気はこのせいだったんだ。

目の前の波は、僕を手招きしていたんだ。

「――、!!」
彼が僕に気づいて何かを言う。それに何か返そうとして、でも声は出ない。まるで何かに首をしめられているみたいだった。息ができない。同時に突き刺さるような冷気が、意識を切り裂いていく。
嫌だ。
嫌だ。怖い。

視界が薄れていく中で、彼の叫び声とは別に彼女の声が耳に響く。

「大丈夫、起きたらもう“かの岸”さ」


 目の前にあるのは海じゃなくて『川』だったことに気づいた瞬間、僕の意識は消滅した。



お題は「日本式の海」でした。一応即興小説で書いたものをかなり加筆修正。

prev next
bkm
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -