お試し
カツンカツン、とアパートの古びた階段を登る。冷え切った金属の音が反響し、脳に不快な刺激を与えていた。足取りはお世辞にも軽いとは言えない。一歩、また一歩と鉛のように重い膝を上げ、階段を登り終えた頃には、言い得もない疲労感が全身を駆け巡った。疲れ切った表情を顔に貼り付け、明智光秀は自室へと戻って来たのである。

光秀は日本の未来を支えるために、24時間闘い続けるビジネスマンである。若いと言える年齢ではないが、壮齢というわけでもない。いわゆる、中堅どころと言うのが相応しいだろう。良く言えば実直、悪く言えば融通の効かない性格をした男であったが、運良く出世コースを外れることなく同じ会社に勤め続けている。

今日もモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、帰ってきてしまった。業務内容がキツいわけではない。残業がキツいわけでもない。営業という職種は、どこの企業でもこんなものだろう。人間関係がイヤなわけでもない。苦手な人物もいることにはいるが、そこまで取り立てて言うほどでもない。

一番の問題は、社長の考え方が理解出来ないことである。それが今の光秀の心と胃を痛めさせる、悩みの種であった。光秀の勤め先は本能寺という場所にビルを構える、株式会社・第六天商事という名の流通業者である。代表取締役社長である織田信長という人物は、一言で言えば傑物であった。独創的かつ画期的な手腕で、この会社をここまで盛り立てた。しかし、その特殊すぎる思考に光秀はついていけないと思い始めていた。

ぎこちない手付きで鞄の中から部屋の鍵を取り出す。いつも帰ったらすぐに鍵を開けられるように、予めポケットに入れておこうなどとは考えるのだが、つい忘れてしまってこのように鞄から取り出す羽目になる。

ふと扉を見ると、郵便受けに回覧板が突き刺さっていた。郵便受けから斜めに飛び出たそれは、恐らくぞんざいに投げ込まれたのだろう。挟んである紙が少しはみ出ていた。疲労であまり働かなくなった頭で、光秀は隣室に住む男のことを思い出す。あまり顔を合わせることもなく、話した覚えもない。真っ当な職種の人間には見えない男。頬に大きな傷があるので、絶対にその筋の職業だと光秀は思っている。

回覧版を手に持ち、光秀は部屋に入った。ただいま、と声を掛けても返事をする者は誰もいない。真っ暗な空間がただ目の前に広がるのみである。はぁ、と軽く溜め息をついて、光秀は電気をつけた。

光秀には一人娘がいる。彼女は全寮制の学校に通っているため、光秀は現在一人で暮らしている。娘は少々世間知らずのきらいもあるが、割合しっかりしているので寮暮らしも大丈夫だろうと思う。最初は寂しいと思う時もあったが、最近は寂しいと思える余裕もなくなっていた。そんな自分に一抹の悲しさを覚える。

テーブルに回覧版を置くと、そこから紙が1枚ひらりと落ちた。きちんと挟まれていなかったのだろう。腰を屈めて拾い上げた時、光秀は動きを止めた。その紙に視線を向けたまま。

「蹴鞠しよう、の!」と大きく書かれた1枚の紙。それから目を離せなくなっていた。可愛らしい猫のキャラクターが蹴鞠をしているイラストが書かれた、いわゆる勧誘チラシだ。下の方に蹴鞠倶楽部と小さく書かれているので、これは蹴鞠愛好者を募るチラシなのだろう。

光秀はそのチラシから、何故か目が離せなかった。蹴鞠に特別思い入れがあるわけでもない。むしろ今時蹴鞠もどうかと思うぐらいの雰囲気だった。それが、どうしてもこの蹴鞠倶楽部が気になるのだ。

ここに入れば、何かが変わる。どうしてそう思ったのか、光秀自身にも分からない。しかし、心の底から沸き上がる熱い衝動のようなものが全身を駆け巡った。

来週の日曜日に練習をするので見学しに来てくれ、というような旨の内容が書かれているのを見て、光秀はその日その場所に行くことを決意したのだった。



* * * * *



その男を見て、何かに似ていると光秀は思った。多分、人類ではない。もしかしたら、ほ乳類ですらないかもしれない。何だったか、すぐには思い出せないのが歯がゆく感じる。

「の、たくさん集まったの!」

ソレは大層喜んでいる様子であるが、薄い笑みを浮かべた顔に表情の変化というのはなく、いまいちよく分からない。顔の中央にパーツが集まっているせいだろうか。

この倶楽部のリーダーとおぼしき男を、光秀はしばらくまじまじと眺めてしまった。嬉しがっている男、今川義元はテンションが上がったらしく、一人で蹴鞠を始めだした。全く、置いてけぼり状態である。

「おや、あんた……お隣の明智さんじゃないか」

不意に声を掛けられて、光秀は我に返る。隣に立っていたのは、隣室に住む堅気には見えない男――島左近であった。何故、彼がこのような場所にいるのか。場違いにも程がある。そう思った光秀は、相当間の抜けた表情をしていたらしい。左近はぷっと吹き出す。

「あんた、俺がここにいるのを場違いすぎるとか思ってんだろう?」

「あ、ああ、その通り。い、いや、申し訳ない。そういうわけでは……」

「その通りだと俺も思うんだがな。んで、あんたも相当場違いな気がするが」

慌てて言い繕う光秀に、左近は苦笑しながら答える。ここでなんのかんのと言っても、蹴鞠をしに来たのは間違いない。こんな大人がわざわざ休みの日に蹴鞠をしに来たというのも、あまり一般的ではないのだ。

普段、会話などしたこともなかったが、話してみると案外気さくな男だということが分かった。見た目でヤのつく職業だとばかり思っていたのだが、どうも違うらしい。

携帯電話が掛かってきたらしく、面倒そうに出た左近は「殿」とやらにひたすら謝っている。なかなか大変そうな職業に就いているようだ。電話が終わり、再び光秀に話しかけてきた。

「あそこにいるガタイの良いおっさん、その向こうにいるじいさん、みんな場違いだね」

そう言われて左近が指さす方向を見る。そこには壮年の男性と初老に差し掛かった男性が一人ずつ立っていた。2人とも蹴鞠をたしなむようには全く見えない。

集まっているのは4人。皆良い年をした男ばかりであった。何に惹かれたのか、全く分からない。もしかして、蹴鞠が大好きな愛好者なのかもしれない。光秀自身も何故ここに来たのか分かっていないのだから、人のことを言えたものではないが。

「やー、あんたたちも蹴鞠しに来たのかい?」

左近が他の2人に近付いて、話しかけた。興味が沸いたのだろう。光秀もその後に続いた。ぼんやりと立っていた2人の男は、ゆっくりと自己紹介を始めた。

「拙者、本多忠勝と申す。最近、娘が冷たい気がするのだが……反抗期というものだろうか」

「わしは島津義弘。酒と博打と猫が好きでな」

そこまで聞いていない。光秀と左近は互いに顔を見合わせる。蹴鞠倶楽部のリーダーも変わっていれば、そこに集まる人物も変わっているということだろう。それに自分も含まれることになるのだろうか、と光秀は不安になった。

「の!の!みんなで蹴鞠ろうぞ、の!」

一人での蹴鞠はさすがに飽きたのか、今川は4人に向かって話しかけてきた。すでに人数分の鞠も用意してあるらしい。見かけに限らず、用意周到なタイプのようだ。

「思い切り高く蹴る、の!言いたいことを言いながら蹴ると良い、の!」

そう説明しながら、今川は各人に鞠を手渡した。思っていたよりも、鞠はずっしりとしている。なかなか高級そうな装飾の施された鞠だ。この男、案外良いところの人物なのかもしれない、と光秀は思った。

――言いたいことを言いながら蹴る。

言いたいことは、たくさんある。普段言えないことも、たくさんある。サラリーマンは辛い。中間管理職は辛い。今の社長の下にいるのが辛い。今まで溜めに溜めた鬱憤を思い出しながら、光秀は鞠を放り投げる。

「敵は……敵は本能寺にあり!」

そう叫んで鞠を高く蹴り上げた。青い空を背景に舞う鞠が、とても美しく見えた。言いたいことも言えないこんな世の中では、胸に毒を溜め込んで生きているようなものである。

蹴鞠というのは、こんなに楽しいものだとは思わなかった。隣では「殿の分からず屋あぁぁぁ!」と叫びながら鞠を蹴る左近の姿がある。ここには同士もいる。疲弊しきった光秀の心のオアシスが、今ここで見つかった気がした。

その時、背後から低い声が聞こえてきた。

「――で、あるか。光秀」

聞き慣れた声、ぞわぞわと泡立つ肌。背筋に一筋の汗が伝う。後ろを振り向けば、恐らくいる。

勇気を振り絞って振り向いた光秀の目の前には、社長が腕を組んで立っていたのであった。



第1話 了

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