「もうすぐ着くんだけどさ」
一人で歩けるにまで回復した忍の少年は、かなり軽い口調で政宗たちに話しかけてきた。あの洞穴を出てから随分と経つ。もうすぐ着く、という少年の言葉に政宗は安堵した。流石に歩き疲れているのだ。小十郎は顔色一つ変えずに、野菜と弁丸の載った大八車を引いている。体力に底がないのか、と政宗は自らの腹心ながら不思議に思った。
弁丸は荷台の上でキュウリをがじがじと齧っている。常に腹を空かせているのか、口に何かを入れていないと不安なのか、小十郎の野菜を道中ずっと食べていた。そんな弁丸に、少年は近付いて尋ねる。
「本当に直談判するつもり?」
「無論!」
手にした食べかけのキュウリを振り上げ、弁丸は力強く答えた。はあぁ、と忍は盛大な溜息を吐く。
弁丸が直談判をすると言っても、所詮は子供の言い分である。忍の里の者に話が通じるか分からない。もしかしたら、拗れてしまうかもしれない。ならば、弁丸に話をさせる前に、政宗と小十郎とで片を付けてしまった方が良いかもしれない。そんなことを政宗は考えていた。
弁丸の迷いのない返答に、少年は両腕を頭の後ろで組んで空を仰いだ。
「あの任務に失敗したら死あるのみって話さ、実は嘘なんだよね」
とんでもない発言を、少年はさらりと軽く言ってのける。あまりにも自然すぎる物言いだったため、理解するまでに少し時間がかかった。その言葉を理解した時、政宗は驚きで言葉を失っていた。
弁丸はキュウリを片手に、口をぽかんと開いて驚いていた。小十郎も歩みを止めてしまった。驚愕している3人を見て、少年は少し自虐的な笑みを浮かべた。
「今時、そんな古臭い習慣のあるとこなんてないよ」
任務に失敗した者には死を、などという掟は忍の里にはなかったのだという。その話をした時の表情も声も、酷く真剣で痛ましかったのでつい信じてしまったが、それも嘘だったようだ。
――ならば、この少年は何故。
「何故、そんなウソを?」
「……放っておいて欲しかったんだ」
ずっと遠くの空を見つめて、少年は淡々と呟いた。無表情で心情を吐露するその姿は、幼い少年のものとは思えなかった。
放っておいて欲しかった。少年が嘘を吐いた理由であるが、さらにその後ろには深い理由が存在する。政宗は口を一の字に結んで、少年を眺めていた。
「なんで俺って忍なのかな。もっと、普通に生きてたらどうだったんだろうって、この人見たら思っちゃってさ」
少年は再び弁丸の方を見て、言葉を続けた。感情のあまり籠もっていない声で告げる少年を見て、弁丸は驚きと悲しみが内混ぜになったような表情をしている。
忍は日の当たる場所で生きられない。夜闇に紛れ、人を欺き、真っ当ではない手段で情報を入手し、時には人を殺める。それを生業として、影として生きるというのは想像以上に過酷なことなのだろう。忍になったことがなくても、その辛さは想像がつく。
政宗は目を細めて少年の言葉を聞いていた。その隣で腕を組んで立っている小十郎は、眉間に深い皺を刻んでいた。
「そしたらなんか色々、どうでもよくなっちゃったんだよね」
その生き方に疑問を感じ、忍として生きることを放棄したくなった。そして、生きること自体を放棄しようとしていたのだ。こんな幼い子供が、胸の内に抱える悩みとしてはあまりにも深すぎる。
かつて、政宗もそんな気持ちを抱いたことがあった。右の目を失い、母親に疎んじられ、絶望に陥ったことがあった。だが、政宗の傍には小十郎がいた。
そして、そんな絶望から脱するきっかけを作る人物に出会った。それが誰かは詳しく思い出せないが、自分と同じように右目を失った人物であった。
そんな出会いがあった自分は恵まれているのだろう、と政宗は思う。その結果、現在の自分が存在するのだ。
だからこそ、今の政宗にはこの忍の少年に掛ける言葉が見つからなかった。中途半端な共感も同情も、逆に少年を傷つけることになる。その懊悩に軽々しく触れてはいけないような気がしていた。
「だからんぐぇっ!?」
さらに続けようとした少年が突然、奇声を発した。何かを言おうとしたその口に、小十郎がおもむろにネギを突っ込んだのだ。
その奇行に、政宗と弁丸は二の句を告げないでいた。少年自身もわけが分からないというように、目を白黒させている。
キッと眉を吊り上げた小十郎が、一際低い声を発した。
「これ以上、グチグチ言うんじゃねぇ」
普段以上に怖い表情をして、普段以上に凄んだ声で言われれば、大の大人でも涙目になる。大人びているとはいえ、まだ幼い忍の少年が怖がるのは当然であろう。政宗の隣では、弁丸までもが怯え始めている。
一体、何が小十郎の逆鱗の触れたのか。よく分からないが、もしこれ以上暴走しそうならば、自分が止めねばならい。少々不安に思いながら、政宗は自らの腹心を見つめていた。
そんな政宗の予想に反して、小十郎は恐ろしい雰囲気から一転、優しげな声音で話し始めたのである。
「まだ仕えるべき主を見つけられてないから、そう思うのだろう」
あまりの急激な変化に驚いたのか、少年は目をぱちぱちと瞬かせている。政宗は胸を撫で下ろした。小十郎は小十郎なりに、少年を諭そうとしているのだ。
小十郎はふっと微笑んで、言葉を続けた。
「仕えたいと思う主がいれば、忍であることも誇りに思える時が来るさ。その方のためなら、どんなことでもするという覚悟も一緒にな」
「……そんなもんなのかな」
突っ込まれたネギを口から抜きつつ、少年は一言呟いた。小十郎の言葉は、自らが思っていること、そして経験したことである。だから、説得力は存分にある。
仕えるべき、そして仕えたいと思える主に出会うことが出来れば、少年の悩みも些末な問題となる。その主のために生きようと思えるのだから。
小十郎の話を聞いて半信半疑で問いかける様子から、少年の気持ちに変化が表れていることが分かった。頑なだった心が少しずつ振れ始めているのかもしれない。
「む、難しい話はよく分からんが……」
この時、きょときょとと成り行きを眺めていた弁丸が、突然話に加わって来た。小十郎の言っていることは、弁丸にはまだよく分からないのだろうが、少年が納得したらしいという雰囲気を感じ取ったのだろう。
いつもの調子を取り戻したらしく、ずずいと前に出て来て、少年の前に立ち塞がる。
「だが、主を探しているというならば、俺に仕えれば良い!」
弁丸が己が胸を叩いて、にこやかな笑顔で勇ましく言った。あまりに突拍子のない、そして空気を読まない発言に、一同は目をぱちくりと瞬かせた。
この弁丸だからこそ、あの真田幸村だからこそ、この発言が出来るのだろう。そう考えて、政宗はただただ感心するしかなかった。小十郎も苦笑している。
目を見開いて凍りついていた少年は、破顔して笑い声をあげた。これまでに聞いたことのない、心の底から笑っているような声である。
「あんたに雇われたら、凄く楽しい人生になりそうだね」
笑いすぎたせいで目尻に浮かんだ涙を拭いながら、少年は軽い口調でそう言った。本気で言っているのか、皮肉で言っているのか、分からない話し方である。しかしおそらく皮肉ではなく、本気で思っているのだと政宗は感じていた。
弁丸の突飛な発言が、止めとなったようである。振れ始めていた少年の心を、一気に振り切れさせたのだ。少年の心の中に存在していたもやもやとした思いが、霧の晴れるように消え去ったのだろう。
少年が元気を取り戻したことに気付いた弁丸は、心底嬉しそうに笑った。そして、笑いながら尋ねた。
「お主、名は?」
「俺は佐助。また会うことがあったら、お主じゃなくて佐助って呼んでくんないかな」
その一言を聞いて、政宗の中で全ての点が一線上に繋がった。未来の真田幸村に猿飛佐助。2人の出会いはここだったのだ。
雷に打たれたかのように驚いている政宗と、呆然と立っている小十郎に向かって、佐助は軽く頭を下げた。そして、音も立てず、すっと瞬間的に消えたのであった。
また会うことがあれば、と佐助は弁丸に言っていた。遠からず、会うつもりなのだろう。会うとこの時点で決めていたに違いない。弁丸に仕えるという目的で。
偶然か、はたまた必然か。この2人の出会いに自分たちが関わるとは、思いもしていなかった。
「……アイツとお前はまた会うぜ」
「それは真か!?」
「真でござるか、って言いやがれ」
仕えるべき相手を、佐助はここで見つけたのだ。見ず知らずの他人、それどころか自らを害そうとしていた相手を助けるために、こんな場所まで来た心根の優しさ、愚かなまでの真っ直ぐさ。
陰と陽のように正反対の性格だからこそ、幸村は佐助を助けたいと感じ、佐助は幸村の傍で仕えたいと思ったに違いない。
そして、それが未来へ繋がるのだ。よく知っている猪突猛進な主と、過保護な従者を思い出して、政宗は思わず笑ってしまった。
その時、背後から鋭い声が聞こえてきた。
「覚悟しろ、この人さらい!」
「弁丸様を離せ!」
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