このまま息を詰まらせて死ぬのではないか。

そう思ってしまうほど、夏侯覇は激しく咳き込んだ。喉の中を空気の塊が無理やり通ろうとする。涙が滲むほど痛い。

あまりにも衝撃的な光景を目にして、思わず息を詰まらせてしまったのだ。最初に吹き出してから、上手く空気を吸うことが出来ずに苦しみ続けている。

夏侯覇にそんな苦しみを与えている原因がガサリと動いた。ソレ――木に擬態した郭淮は夏侯覇に気付いたようで、ぱちぱちと目を瞬かせたのだった。



【はしるうま 壱】



暖かな日差しの下で、春の始まりを告げる強い風が木々を揺らしている。少しだけ温い風を頬に受けながら、夏侯覇はゆっくりと歩みを進めていた。

戦乱の世とはいえ、毎日戦をしているわけではない。戦と戦の合間に、少しばかりの休息をとることも出来る。小憩とはいえ、鍛錬をするなどやることには事欠かない。しかし、この陽気の中で鍛錬などやる気が起こらなかった。

たまには何も考えず、気負うことなく、ゆっくり羽を伸ばすのも良いだろう。そう考えた夏侯覇は誰にも邪魔されない場所を探して、ふらふらと歩いていたのである。

町から少し離れた林に入る。柔らかな木漏れ日が心地よい。このままどこかで昼寝でもしようか。腕を伸ばし。ふわぁと大きく欠伸をする。ふと顔を右に動かした時、夏侯覇の視界に妙な物体が飛び込んできた。

「あれは――」

郭淮だ。木の陰にしゃがみ込んでいる人物の名を思い出した瞬間、ぶふぉっと吹き出してしまった。

郭淮は木の枝を両手に持ち、額に帯を巻いて木の枝を括りつけている。腰回りには、葉の繁った枝を巻き付けていた。奇妙奇天烈としか言いようのない格好だ。

そんな郭淮の姿を見て、夏侯覇は死ぬかと思うほどむせる羽目になったのである。

まるで木になりきろうとしている様子だ。いや、まるでではなく、まさしく木になろうとしているのだ。そうとしか思えない。如何なる時でも真面目な郭淮とは思えない奇態に、夏侯覇はただただ驚くばかりであった。

一体、何をしているのだろう。何かの罰か、願掛けか。それとも、春の陽気に頭がやられてしまったのだろうか。咳き込む夏侯覇に気付いた郭淮は、ゆっくりと近付いてきた。体に巻きつけた枝葉がわさわさと音を立てる。

あまりお近づきになりたくない姿であるが、無視するわけにもいかない。痛む喉と胸をトントンと叩きながら、夏侯覇は笑みを浮かべた。引きつり気味の笑みになってしまったのは致し方のないことである。

「よ……よう、郭淮。お前、そんな格好で何して」

「夏侯覇殿……しーっ、静かにしうげほっげほっ!」

人差し指を立てて、静かにするよう夏侯覇に促そうとした郭淮が咳き込む。静かに、と言った本人が一番煩いのではないか。夏侯覇は眉をしかめて、自己矛盾を起こしている人物を見つめた。

「し、静かにしてください……でないと、獲物が逃げてしまう」

獲物。その言葉を聞いて、夏侯覇は首を傾げた。獲物というぐらいだから、何か動物を狙っているのだろう。しかし、狩りにしては変な格好をしている。周りの枝が邪魔になることは、ぱっと見ただけの夏侯覇でも分かる。

訝しげな表情をしていると、郭淮が少し離れた場所を指さした。そこには口を底にして、斜めに立てられた籠があった。その籠を支えているのは、紐の結ばれた木の枝である。見るからに罠だと分かる古典的な罠だ。その罠を見張るために、木の振りをして身を隠していたのだろう。

こんな稚拙な罠にかかる動物など、果たしているのだろうか。よく見れば、籠の下には肉まんが置かれていた。肉まんを餌にして動物を誘き寄せ、罠に仕掛けるつもりだったらしい。しかし、この籠に入りそうな大きさで、肉まんを好みそうな動物もそうそういないはずである。

そもそも、何故こんなわけの分からない罠を仕掛けているのか。若干、呆れた表情で夏侯覇は尋ねた。

「なんでこんな罠仕掛けてんだよ?」

「食材を捕まえるためです」

「食材?料理でも作るのか?」

「えぇ。夏侯淵将軍に私の作った料理を食べて頂きたいのです……!」

拳をギュッと握りしめ、力強く、そして少しだけ悲壮感を交ぜたような声で郭淮は答えた。青白い顔色とは対照的に、瞳はギラギラと燃えている。

父に手料理を食べてもらいたい。そんな理由が出てくるとは思っていなかった夏侯覇は面食らった。

「父さんに料理だって?一体、なんだってまたそんな突然」

「夏侯淵将軍にはお世話になりっぱなしでした。今もそうです。その感謝の気持ちを伝えたい!」

なるほど、と夏侯覇は小さく呟いた。郭淮は夏侯覇の父である夏侯淵に心酔に近い尊敬の念を抱いている。二言目どころか一言目には、夏侯淵将軍という言葉が飛び出てくるぐらいである。

感謝を意を伝えるために、手料理を振る舞う。そのような行動は至極普通のことである。しかし、それに行う過程が色々と間違っている気がする。変な罠を仕掛け、妙な格好で木の陰に潜む。そんな行動は全くもって尋常ではない。

兎にも角にも、郭淮が料理を作ろうとしている理由は理解出来た。出来たが、どういう突っ込みを入れれば良いか。方法が間違っているとか、そんな格好をする必要はないとか、色々と言いたいことはある。どのように切り出そうかと考えていると、郭淮がユラリと体をこちらに向けた。

「時に、夏侯覇殿……貴方ならば将軍のお好きな食べ物をご存じでは?」

「ま、なんとなく分かるかもしれないけど」

「ならば!一緒に食材を探すのを手伝ってもらえ……げほっうぅっ、ませんか?」

まさか、食材探しに誘われるとは思いもしなかった。郭淮の言う通り、息子である自分ならば好物も知っている。そんな夏侯覇と一緒に食材を探せば、かなり効率も良くなるだろう。

 ――しかし。

「い……」

いやだ。そう言いたかった。面倒事に巻き込まれるのは御免だった。妙な格好をした郭淮と一緒にいるのを誰かに見られて、同類だと思われたら困る。自分は至って普通の部類に入る人間だと夏侯覇は信じている。奇人変人の仲間入りなどしたくはない。

だが、郭淮は自分の父のために美味しい料理を作ろうとしているのだ。そんな彼の頼みを無下に断るのも気が引ける。やり方はかなりおかしいが、心からの善意で郭淮が行動しているのは分かる。

土気色の顔の中で目を輝かせている郭淮を見て、夏侯覇は思わず眉尻を下げた。

「いいぜ。どうせ暇だし、食材探すぐらいなら手伝ってやるよ」

口から出てきたのは、肯定の言葉だった。郭淮の顔を見ていたら、断ることは出来なかった。我ながらお人よしだと心の中でぼやく。
 
夏侯覇の返事に、郭淮は顔を綻ばせた。こうなれば潔く協力するしかない。心の中で軽く溜め息を吐いた後、夏侯覇はびしっと郭淮を指さして宣言した。

「ただ、その体の木は全部外せな」

「な、なにゆえ……!?」

「動くのに邪魔だってーの」

頓珍漢な格好を止めさせなくては、自分も同類だと思われてしまう。それだけはなんとしても避けなくてはならない。もたもたと頭から枝を外す郭淮を見兼ねて、夏侯覇も一緒に胴周りの枝を外し始めた。

ついでに獲物がかかることのないであろう罠も撤去する。この場を仕切り直して、最初から計画を立て直すのだ。郭淮の立てている計画は、少し聞いただけの夏侯覇でも不安を感じるものだった。軍師であるはずなのに、こういう場面ではその才が全く活かされない。

だが、そこが郭淮と言えば郭淮らしい。ふぅ、と軽く溜め息を吐いた夏侯覇は郭淮に尋ねた。

「食材っつっても、どんな料理を作るとか考えているのか?」

「夏侯淵将軍は肉がお好きなのでは……と思うのです。げふげふっ!……ですから肉料理を作ろうかと」

「まぁ、確かに父さんは肉が好きだけど」

体型から考えるに、夏侯淵は肉類を好む。そんな想像は容易く出来る。そして、その想像通り父は肉類が好きだった。料理してもらうために、自分で射た獲物を嬉しそうに掲げて持って帰ってくることもある。

好物を食材として選ぶのは当たり前の考えだろう。しかし、肉類ばかり食べている父の健康も、息子としては少し心配していたりもするのだ。まだまだ若い気分でいるのか、無茶な食事をする時がある。若いように見せかけてそれなりの年齢ではあるのだから、食事にはもう少し気を使って欲しいと思う。

「これ以上、横に成長させるわけにはいかないっつーか。息子としては、健康には気を使って欲しいな」

「おぉ、ならば野菜を中心とした料理にいたしましょう……!」

肉類よりも健康的な野菜が良い。普段からあまり野菜を摂らない父ではあるが、こういう機会ともなれば食べざるを得ないはずである。自分を慕ってくれる部下が作った料理となれば、否が応でも食べなくてはならないという気になるだろう。

郭淮もあっさり野菜料理を作るという案に賛同してくれた。問題なく、事は進みそうである。罠に使っていた籠を再利用して、野菜を入れることにした。籠にせっせと縄を結えて、郭淮はそれを背に負う。なかなか様になる姿である。

二人は並んで林の中を歩き回った。この付近で、そう簡単に野菜など見つけられるはずもない。野草や茸でどうだろうかと話し合いながら進み続けていると、突然郭淮が足を止めてしゃがみ込んだ。体調が悪いのか。夏侯覇がそう声を掛けようとした瞬間、郭淮がすくっと立ち上がって叫んだ。

「夏侯覇殿!良い茸がありまし……」

「ちょっと待ったああぁぁ!」

採った茸を嬉しそうに籠に入れようとする郭淮を、夏侯覇はずざざっと勢い良く止めた。

「ごほっ、どうなさったのです、夏侯覇殿……」

「そんな茸、ダメ、絶対!」

思わず片言で怒鳴る。郭淮は不思議そうに首を傾げていた。その手には、毒々しい赤色に白い斑点を伴った茸が握られている。明らかに毒茸だ。

見るからに毒を持っていますと力強く自己主張しているような色の茸を、籠に入れさせるわけにはいかなかった。こんな茸を食べれば、いくら頑丈な父といえども無事では済まないだろう。

夏侯覇は毒茸であるという旨を強調し、なんとかその茸を捨てさせることが出来た。一目で危険なものだと分かる茸を良いと評する郭淮の感覚は、普通からかなりずれている気がする。

郭淮の見つける怪しげな食材を止めつつ、夏侯覇自身も少しずつ食べることの出来そうな草花や実を採った。探し回る内に野菜も少しだけ見つけた。

こうしてしばらく歩き回るうちに、使えそうな食材を集めることが出来た。これだけあれば、ちゃんとした料理を作ることも出来るだろう。

籠の中に詰められた食材を見つめて、夏侯覇は大きく伸びをした。

「これだけ集まりゃ大丈夫かな」

「えぇ、十分でしょう。しかし……」

「ん?」

「私一人ではこんなに集められなかったはず」

珍しく柔らかな笑みを浮かべて、郭淮は夏侯覇の方を見た。そして独白するかのように呟いた。

「貴方がいてくれて良かった」

郭淮のその言葉に、夏侯覇は目を丸くした。そんな言葉を掛けられるとは思っていなかった。目を瞬かせた後、思わず郭淮から視線を逸らしてしまった。

常に父のことばかり考えて、父のことばかり話す郭淮が、自分のことを良く言ってくれたのだ。夏侯覇の先にいる父ではなく、夏侯覇自身のことを見て言った一言。その言葉が心の中にじわじわと温かく広がってくる。

必要とされることが嬉しかった。感謝して貰えるのが嬉しかった。たった一言で、これほど嬉しい気分になれることに自分が一番驚いていた。

急に押し黙ってしまった夏侯覇を、心配そうに郭淮が覗き込んだ。挙動不審に思われたのだろう。夏侯覇は慌てて顔を上げた。

「あ……っと、そろそろ料理作るか?」 

「そうですね。それでは早速料理して参りましょう」

「んじゃ、俺は父さんに声かけてくるぜ」

郭淮が料理を作っている間に、主役を呼んできた方が段取りも良い。今日は父も忙しくはないはずである。それに先ほどまで考えていたことを、郭淮自身に悟られるのは気恥ずかしかった。だから、この場から少し離れたかったのだ。

郭淮と別れ、夏侯覇は父を呼びに屋敷へと戻った。ちょうど暇を持て余していたらしい夏侯淵は、部下が料理を振る舞ってくれるという話にたいそう興味を抱いたようで、すぐに行くと嬉しそうに答えたのである。あの少し変わった部下がどのような料理を作るのかというのも気になったのかもしれない。

役目を終えた夏侯覇が父より先に戻ってくると、郭淮が机の上に料理の皿を並べていた。その料理を見て、夏侯覇は目を丸くした。

「そ、それはなんて料理だ?」

「何だと思います?」

逆に何かと問われて、夏侯覇は答えることが出来なかった。何という料理なのか。夏侯覇が生きてきた中で思い当たる種類がなかった。そもそも料理なのか。料理と呼んではいけない部類のものではないか。

そんな答えにならないような考えばかりが浮かんでくる。夏侯覇は少し焦りながら誤魔化した。

「いやいやいやいや、俺って料理とか詳しくなくてさ!」

「普通の野菜炒めですよ」

普通の野菜炒めはこんな暗黒色をしていない。郭淮はさも当然というような顔で答えたが、それを野菜炒めだと分かる人間は作った本人以外いないだろう。元の食材が判別不能なほど炒めつけられた野菜が不憫だと夏侯覇は思った。

今の夏侯覇の顔色は、普段の郭淮よりも悪い。こんな恐ろしい物体を父に食べさせるわけにはいかなかった。張り切って料理を作った郭淮には悪いが、今回は諦めてもらうしかない。

ただ、それはそれで問題がある。お前の料理は父さんに食べさせられない。そんなことを言えば、郭淮は深く傷つくだろう。見た目の割に健気なこの男を悲しませるのは、なんとなく嫌だった。

この時、思案に暮れる夏侯覇の背後から快活な声が飛んできた。

「よーう、郭淮!俺に料理作ってくれたんだって?」

主役である夏侯淵が来てしまったのだ。非常に拙い事態である。

どうやって最悪の事態を忌避するか。郭淮を傷つけることなく、料理と呼ぶのも畏れ多いこの物体を父に食べさせない方法。事態を打開するための策を、夏侯覇は全神経を脳に集中させて必死に考えていた。

そして、不意に妙案が浮かんだ。その作戦を実行するかどうか、悩んでいる暇はない。夏侯覇は引きつった笑みを浮かべて、郭淮の方に向き直った。

「いっやー、父さん待ってたら腹減っちゃったなぁ。郭淮の料理も上手そうだなあぁぁ」

大根役者よりも酷い棒読みの台詞を発しながら、おもむろに郭淮の手から皿を奪った。そして、それを勢いよく口の中に流し込んだのだった。

「な、何をするのです、夏侯覇殿!?」

「おいおい、いきなり何すんだ!?」

夏侯覇の突然の凶行に、郭淮と夏侯淵が驚きの声を上げる。これでいい。これで悲しむ者も犠牲者も出ることはない――自分以外は。

郭淮の料理を一気に飲み下した後、夏侯覇はふぅと息を吐いた。不味い。見た目に違わず味も酷かった。口の中に妙な苦みが広がる。口に入れても元の食材が何なのか、夏侯覇には分からない。

しかし、不味いなどと本音を言ってはいけない。郭淮が感謝と真心を込めて作った料理なのだ。自分も一生懸命協力して探した食材を使ってもいる。そんな料理を不味いなどと口に出して言って、郭淮を悲しませたくはなかった。

郭淮の料理の味は夏侯覇しか知らない。不味いのか美味しいのか、事実を知っているのは自分だけなのだ。夏侯覇はフッと微笑み、料理の感想を言おうとした。

「はは、ははは、すっげーうま……」

――が、最後まで言葉を続けることが出来ないまま、バタリと倒れてしまった。体が突然硬直して動かなくなったのだ。

「馬?馬の味がしたのですか?馬など使っていないのですが……」

「おい、息子!馬鹿息子!一気に食って喉に詰まらせたのか?」

郭淮と夏侯淵の声がずいぶん遠くの方から聞こえる。郭淮の料理は見た目通り、いやそれ以上に際どいものだった。まさか、身体に直接影響が出るとは夏侯覇も思っていなかった。

一体どんな料理の仕方をすれば、ここまで極悪なものが出来るのだろう。止めたはずの茸を、まさか入れていたりしないだろうな。このまま死んだら、あいつの枕元に毎晩化けて出てやる。

薄れゆく意識の中で、夏侯覇はそんなことをぼんやりと考えていたのだった。



―続―


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