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「あまり妹を困らせないで欲しい」


思わず体が固まってしまった。
お兄ちゃんとこうして一緒に帰るのももう数日目。相変わらず毎日毎日私をバス停で待ち構えている彼に、お兄ちゃんはとうとうハッキリとそう言ってしまった。
私と同じくピタリと動きを止めている彼に構わず、お兄ちゃんは私の腕を引っ張ってさっさと改札へ向かった。こうして腕を引かれるのももう殆ど毎日の事なのでどんなに早歩きで引っ張られたとしても定期をサッと取り出せるようになった。


こうなってしまったのは数日前、初めて彼とお兄ちゃんが会ったあの日がきっかけだった。
“兄を紹介してくれた”という事が何故か彼にとって相当嬉しかったようで、その日の夜から送られてくるメッセージの内容に変化があった。


『家族を紹介してもらえるなんて嬉しいな!』
『お兄さん、かっこいい人だね!』
『僕も将来一兄さんって呼ぶのかな』


そのメッセージを見た途端、今までで一番彼に対する恐怖心や嫌悪感、などなどいろんな感情がぞわっと全身を駆け巡って、思わず“ブロックする”のボタンを押していた。“本当にブロックしますか?”の警告画面の“はい”のボタンに指先が触れかけた時…ふと思い止まった。
家まではまだ知られていないけど、学校から駅までのルートも駅に着く時間も知られてしまっている。もしブロックなんかして逆上されたら……何をされるかわからない。そう思うと迂闊にブロック出来なくて押しかけていた“はい”のボタンから“いいえ”の方に指を移して押した。

それからそんな内容が続いて、耐えきれずにお兄ちゃんに相談した。そうして今日お兄ちゃんの口から発せられたのが、「妹を困らせないで欲しい」という言葉だった。
呆気に取られながらもお兄ちゃんに腕を引かれるまま電車に乗り込んだ所で、ようやく我に還った。


「ちょ、ちょっとお兄ちゃん…!何であんな事…!」
「……」


お兄ちゃんは何も言わなかったけど、顔が険しかった。私のためにこんなに怒ってくれるのは嬉しいけど…ヒヤヒヤしていた。お兄ちゃんに危害が及んでしまうんじゃないかって。

けど、お兄ちゃんの一言が効いたのか、その日は彼からのメッセージは届かなかった。それどころか、次の日の朝もお昼の時間も彼からのメッセージが届くことはなくて…もしかして私が困っていたことに気が付いてくれたのかな、このまま私のことを諦めてくれるかな──そんな期待を抱いた。


だけどその期待は残念ながら、最悪な形で打ち砕かれた。



ここ最近はいつも以上に重たい気分で受けていてなんとなく集中できなかった授業も今日はそこそこ集中して受けられたし、ぼーっとしちゃう事が多くてクラスの子達に迷惑掛けちゃったりしていた文化祭の準備も、今日はそこそこ役に立てたと思う。この後の部活もきっと頑張れる。そう思いながらいつものスポーツウェアに着替えて駆け足気味に部活へ向かった。

いつものようにみんなのドリンクと補給食、それから洗いたてのタオルを用意して、記録を録って、洗濯して……いつものようにマネージャーの仕事をこなした。
いつも部活の時間は忙しかったりハラハラしたり、最近手嶋さんもお兄ちゃんもまた速くなったなぁって思ったり──いろんな感情が駆け巡っていたから例の彼の事を忘れられていたけど、今日はここ最近では一番打ち込めていたと思う。
その部活もそろそろ終わりの時間が近付いてきて、その日の仕上げとしていつも欠かさずやっているローラー台の拭き上げをしていた……その時だった。


「一花さん」


その声の主が誰なのか、頭が理解するよりも先に体が拒否反応でぞわりと震えた。そのおかげで今私を上から呼んだのは誰なのかが分かった。
全身の血が抜けていくような感覚に気持ち悪い動悸──私がこの感覚になるのは、今のところたった一人だけだ。

まるで錆びたかのようにギシギシと軋むような動きの悪い首を動かして声の主を見上げれば、慣れたくないのに最近は見慣れてしまった、彼のぞくっとする笑顔だった。


「え……なん、で……」


部活で走ったり体を動かすことなんてマネージャーの私は全然していないのに、嫌な汗がすごい。
どうして彼がここに。私は何か嫌な夢でも見ているんじゃないか…そう願ったけどどうやらこれは残念なことに現実らしい。


「連絡出来なくてごめんね。スマホ調子悪くなっちゃってさ。今日は予備校も無いし迎えに来ちゃった」
「迎えに…って……私まだ部活中ですから…」


しゃがみこんでいるままの私を見下ろして話す彼は、メッセージでタメ口になっていたけど直接話している今もタメ口になっている。それは構わないのだけどまさか学校まで来るなんて思いもしなかった。しかもまだ部活中なのに…。


「マネージャーなんて雑用やらされているだけでしょ?一花さんにそんな事やらせるなんて信じられないよ。そんなの放って一緒に帰ろう」
「放って…って…そんなの出来ないですよ」


一体何を言っているんだろう彼は。部活の仕事を放って帰るなんて出来るわけないし、そんな事したくない。「とにかく今はダメです」「勝手に帰るなんて出来ませんから」って言ってみるけど雑用をやらされていると思い込んで全然引き下がってくれない。私が好きでやっていることなのに。最悪なことに今周りには誰もいなくて助けを求める事もできない。どうしたらいいのかわからなくて、いっそもう泣きたい位だ…


「どうしたー?見学希望者かー?」


じんわりと視界が滲み始めたその時、裏門坂を走っていた手嶋さんが戻ってきた。
カラカラとホイールの音を立てる愛車を傍にこっちへ向かってきてくれる彼の姿を見て、気の抜けるような安心感を覚えた。よかった、一番側にいてくれたらと願った手嶋さんが来てくれて……


「その制服…他校生だよな。悪いけど今はレース前だから他校の生徒には見学させらんねーんだ」


悪いが、諦めてくれ。そう言って手嶋さんは彼を睨んだ。言葉や口調には棘がないのに、その表情は私ですら一瞬息を詰まらせてしまうような形相で。


「い、いや…見学じゃないんですけど…」
「そしたら部活終わるまで待っててくれるか?…レース前で皆ピリピリしてっからさ、他校生がいると偵察かと思っちまう」
「……っ」


相変わらず手嶋さんの表情は言葉と口調に反して険しいまま。彼はその形相に尻込みしたようで言葉を詰まらせてわなわなと肩を震わせていた。それからくるっと私に向き直って引き攣った笑顔を向けた。どうやら恐怖と怒りが入り混じってるみたいだった。それなのに私には笑顔を向けるなんて器用な人だなと少しだけ感心した。


「…ごめん、一花さん。また駅で待ってるからね。部活終わったらすぐ来てね」
「あ…は、はい……」


彼は私に軽く手を振って、手嶋さんを一瞥もすることなく足早に部室から遠ざかって行った。よかった…そう安心したのも束の間、まさか学校まで来るなんてっていう恐怖感で手が震えた。足もすくんでしまって体に力が入らない。


「大丈夫か?一花ちゃん」
「……っ、は、はい……」


ただ二言で返事をするだけなのに、絞り出すようななんとも聞き苦しい声しか出せなかった。


「って…あんま大丈夫じゃなさそうだな」


手嶋さんは心配そうに眉を下げて私の目線に合わせてしゃがんで、そっと私の肩をやさしく叩いてくれた。
やっぱり手嶋さんの手は安心する。細いけど優しくてあったかくて、私の淀んだ物を吸収してくれるみたいで…思わず涙が出そうだった。


「もし違うならそれでいいんだけど……一花ちゃんが最近思い詰めてるの、あの男のせいか?」


…絶対手嶋さんには甘えないようにって思ってたのに。真剣な顔で、「話して欲しい」と訴えてくるような目でじっと射抜かれたら……絶対に迷惑はかけたくないと思っていたのに、こんな事で忙しい彼に頼っちゃダメだって思ってたのに──「違います」と否定する事が出来なくて。

…手嶋さんから目を逸らしたまま、私はゆっくりと頷いた。



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