6
「だから、もっとちゃんと…思ってること、言ってよ……」
「…ごめん」
「けど…ありがとう、お兄ちゃん。それから…私の方こそ、ごめんね」


涙声と涙目になりつつも少し嬉しそうな、安堵の顔を浮かべる一花ちゃんに頷く青八木もまた、良かったと安心しているようだった。ずっと部室内に漂っていた、2人から放たれていた重たい空気はもう感じない。


「話したぞ、オレは」


だから一花も話せ、と言いた気に青八木はじっと一花ちゃんを見据えていた。その一花ちゃんは自分の気持ちを話す事にはまだ躊躇いがあるのか、ぎこちなく頷いちゃいるが青八木からは目を逸らしていた。これは少しだけ背中を押してやった方が良さそうだ。一花ちゃんとの距離を詰めて、そっと肩を叩いた。


「話してみろよ、一花ちゃん。きっと大丈夫だから」
「…手嶋さん……、はい…」


不安そうな一花ちゃんの表情が、オレを見上げてから安心したようなそれに変わった。こんな時にどうかしてるけど、彼女がオレの顔を見てこんな顔をしてくれると胸の奥がじんわりと暖かくなって嬉しくなる。一花ちゃんに信頼されてんだなって、自惚れかもしんねーけどはっきりとそう感じる。


「事故に遭った時……本当はね、すっごい悔しかった。もう選手として走れないって事、すぐには受け入れられなくて…」


弱々しく小さな声で話し始めた一花ちゃんは、手の震えを堪えようとしているのか自分の服の裾を皺がたくさん寄る位強く握りしめていた。すぐにでも震える背中に手を伸ばして支えてやりたい気持ちに駆られるけど、今はダメだ。…まさか、この兄妹のぶつかり合いの立ち会い人って立場がこんなに我慢を強いられる物だとは思わなかったな……。せめて今は心の中で一花ちゃんに頑張れってエールを送っておこう。


「でもみんな、凄く心配するから……心配かけたくなくて。平気って言ったらみんな安心してくれたから……」
「……」
「…でも違うんだよね。私が本当は平気だなんて思ってないって事、お兄ちゃんにはバレちゃってたんだもんね」
「お前はすぐ顔に出る」


そういうところはお兄ちゃんが羨ましい、と一花ちゃんは困ったように笑って肩を竦めていた。


「本当はね、あの時こうやって走ってれば、とか…ああしていればよかったって…後悔ばっかりしてた」


一花ちゃんはぽつぽつと気持ちを打ち明け出してくれた。彼女の事故に遭ってからの本心…以前オレには少し話してくれていたが、ちゃんと聞くのは初めてだ。オレが聞いてもいいのか…と戸惑っていたのを察したらしい一花ちゃんがオレをちらりと見て口角を上げた。オレも聞いてていい…って事なのか。


「…ずっと、悔しかったんだ…せっかくここまで頑張ったのに、レースでも上位に食い込めるようになってきたのに……って……」


一花ちゃんの声がまた震えていた。肩も微かに震えていて、涙を必死に堪えようとしているのか、自分を抱きしめるように組んだ腕を見ているこっちが痛くなりそうな位に握っていた。若干爪も食い込んでるみたいで思わず手を解いてやりたくなるがオレと青八木は静かに一花ちゃんから打ち明けられる気持ちを聞いた。

彼女が以前打ち明けてくれたのは、“本当は悔しかった、後悔していた、けどみんなを心配させたくなかった”…っていう、掻い摘んだような事だけ。その時の一花ちゃんの悲痛な表情からどれだけ苦しかったのかと想像出来たが、当時の…いや、今でも抱えているであろう感情はオレが想像している以上にきっと彼女を苦しめていたんだろう。


「夢なんじゃないかって、何度も思った…、起きたらまたいつも通りに走れるんじゃ…って……でも起きたら体…すごい痛くって、思うように動かなくて……考えたくないのに、どうして私だけがって……つい、考えちゃったりして……」
「…一花」


青八木が一花ちゃんとの距離を詰めて、今にも崩れ落ちそうな彼女の一層小さく見える両肩を支えた。一花ちゃんはそれに安心したのか、躊躇う事なく青八木の胸に頭を付けて強く握っていた自分の腕の代わりに青八木の黄色いジャージをまるで縋り付くように握った。それから…堪えきれなくなったのか、それとも堪えるのをやめたのか、啜り泣く声が聞こえた。
その光景にオレは安心感を覚えた。ずっと人前で泣かないようにしてきた一花ちゃんが、漸く青八木の前で涙を流す事が出来て、ずっと一人で抱え込んでいた本心も曝け出せている。よかったと胸を撫で下ろしながら二人を見守った。


「…兄ちゃんの事もね、本当は羨ましかった…走りに行くの見送るの、つらいって思った事もあった…」
「お前がそう思いながらオレを見送ってくれてる事、わかってた…。なのにかける言葉が出てこなくて……すまなかった、一花」


一花ちゃんの肩に添えられていた青八木の右手が、彼女の頭を撫でた。その直後に青八木の胸に埋められていた一花ちゃんの顔が上げられて、その彼女の頬にはやっぱり涙が伝っていた。


「謝らないでよ……お兄ちゃんのこと、羨ましかったけど…嬉しかったんだよ、私」
「……」
「覚えてる?私が入院してた時、私の分も走り続けて、って言ったの……」
「ああ…覚えている」
「お兄ちゃん、それ守ってくれてたでしょ?…一人でもずっと走って、頑張ってて……嬉しかったし、それにね……誇らしかった」


泣きながら笑顔を向ける一花ちゃんに、青八木は驚いた顔をしていた。


「こんなに真面目に自転車頑張ってるお兄ちゃんのこと…すごいって、思ってた……どんなにペース配分下手くそでも、要領悪くてもね」
「……最後の一言は余計だ。けど…ありがとう、一花」


えへへ、と相変わらず目を潤ませたまま笑う一花ちゃんの頭を青八木はくしゃりと撫でた。その青八木はもしかして泣き出すんじゃねーかと思うくらいに眉尻を下げて嬉しそうな、安心したような顔をしていた。
すげー嬉しいだろうな、青八木のやつ。一花ちゃんとやっとお互いの思っていた事打ち明けられた上に、誇らしかった、なんて言われて。その青八木の気持ちを考えるとオレも自分が言われた訳じゃねーのになんだか嬉しかった。


「私も…マネージャーやってよかったって思ってるよ。前とはちょっと違う形だけど、またお兄ちゃんと自転車出来てるし」
「……」


少し口角の上がった青八木の頭が小さく縦に動く。それに相変わらず右手は一花ちゃんの頭に添えられたまま。兄貴だし、状況が状況だからとわかっちゃいるが…正直少し羨ましいわ。
さっきまで青八木兄妹から放たれていた重たい空気はもうとっくに消えている。これはもうオレが居なくても大丈夫そうだと思って、外に出てると告げようとした時、青八木と目が合った。


「オレと純太のファンになってくれた事も、嬉しかった」
「うん……え!?」


一花ちゃんの驚いた声が部室に響く。


「な…なんでそれ!わ、私言ってないのに…!!」


青八木の体をぐいっと押して離れた一花ちゃんは、さっきまで涙を流していたのに今はすっかり驚きと恥ずかしさで耳まで真っ赤だ。そのころころ変わる表情に、思わず声を上げて吹き出してしまった。


「て、手嶋さぁん…!」


まさかオレが青八木に言ったのかと言いた気な顔だ。笑いながら「オレは言ってねぇよ」と手を横に振れば一花ちゃんの表情はさらに戸惑いを浮かべた。


「…部活紹介の記事。熱中すると筆圧が強くなる癖…変わっていないな」
「え…!?だってあれ、ちゃんと綺麗に消したのに!」
「文字は綺麗に消えてたんだけどな、筆跡がさ」


言いながら、オレは足元に置きっぱなしにしていた鞄から一花ちゃんが書いてくれた部活紹介の原稿用紙を取り出して「ほら、ここ」ってオレ達について書いてくれていたであろう箇所を指差すと一花ちゃんはまじまじとそこを覗き込んだ。


「……あ!ほ、本当だ……!」


見ちゃったの?、と一花ちゃんは顔を真っ赤にしながら青八木に振り返って、その青八木も僅かに口角を上げながらこくりと頷いた。その直後に響く一花ちゃんの恥ずかしそうな呻き声。そんな彼女の様子に耐えきれずオレと青八木は同時にぷっと吹き出した。


「も、もー!二人して笑わなくたって…!」
「ははは…!わりぃわりぃ…けど一花ちゃんすげー真っ赤…!」
「恥ずかしがる事無いだろ。……なあ、純太」
「ああ!そうだよ、青八木の言う通りだよ」


うう…、と言葉にならない声を上げた一花ちゃんは何やら開き直ったように「そうだよ!」と声を張った。


「高校に入る前、私お兄ちゃんと手嶋さんのレース観に行ってたの…その時、2人の走りをすごいって思って…もっと2人の走りが見たくて、総北に来ようと思ったの」
「…そうか」
「……お兄ちゃんと手嶋さんのチームワーク、ほんとに感動した。今まで見たどんな選手よりすごいって思った……2人の、おかげだよ。私がまたロードに関わりたいって思えたのは」


そう言って一花ちゃんはにこりと笑った。


「…ありがとう、一花。お前がまたロードに関わりたいと思ってくれて、よかった」
「お兄ちゃん……うん、私の方こそありがとう。ロードを続けていてくれて」


一花ちゃんは青八木に抱きついて、青八木は一花ちゃんの頭を撫でた。


「…よかった。2人とももう大丈夫そうだな」


一安心だよ、と笑えば2人は同時にオレに向きを変えた。


「すみません手嶋さん…私たちのゴタゴタに巻き込んじゃって…」
「いや気にすんなよ。2人が言いたい事言えて本当に良かったよ。オレが居なくても大丈夫そうだったけどな」


なんて言うと、そんな事ない、そんな事ないです、と兄妹は揃って声を上げた。ほんと、羨ましい位に仲がいいわ。


「手嶋さんがここにいてくれなかったら、きっとかなり拗れちゃってたと思います。なんていうか…手嶋さんがお守りだった、みたいな…」
「……」
「お守りって…一体そりゃ何だよ」
「んー…そこに居てくれるだけで安心、的な…?」
「……」


青八木もこくこくと力強く頷いている。お守りっつーのはよくわかんねーけど…まあ2人の役に立てたならよかった。それに…2人がずっと抱えていた言いたい事を言い合えてオレもよかったと思うし安心した。


「それより、青八木まだ時間平気か?せっかくだし練習一本付き合ってくれよ」
「ああ、わかった」
「あ、それじゃあ私ドリンク用意します!」


先に外出て準備してて下さい、と一花ちゃんはにこにこと楽しそうにしながら部室のテーブルに敷かれたタオルの上にひっくり返して並べられているボトルを2つ手に取った。
オレ達も準備しようと先に外に出てラックにかけた愛車を降ろした。


「…純太」
「ん?どうした青八木」
「……お前は、いつ話すんだ。一花に」
「…なんの事だよ」


なんてとぼけたけど、青八木が何を言いたいのかはわかる。“お前はいつあいつに気持ちを打ち明けるんだ”、そう言いたいんだろうし、青八木にもオレがとぼけてるってことはお見通しだろう。その証拠に青八木の瞳は逸らしたくなるほどに真っ直ぐ、真剣にオレを見据えていた。


「伝えたい事、ハッキリ言うべきだと言ったのはお前だ、純太」
「……今はそんな場合じゃねぇよ。それはお前もわかってるだろ」


自分でもわかっている。そんな場合じゃない、オレにはやるべき事がある……弱いオレは今何よりも優先するべきなのはひたすら努力する事だ。だから、それ以外の事にうつつを抜かす余裕なんて無いんだ。

…たとえ、一花ちゃんへの膨れ上がった気持ちで押し潰されそうになっていたとしても。



54/96


|


BACK | HOME
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -