9

鏡の前で制服のチェック、それから前髪を軽く手で整えて家を出る準備は万端。あとは部屋のドアを開けて玄関へ行くだけ、なのだけどその前に棚に飾った大好きな映画のヒーローのフィギュアの箱をひと撫で。こうすると今日も一日頑張れるんだ。


「…ふふっ」


やっぱりプライズとは思えないくらい本当に綺麗でカッコいい。こうして毎日眺めているのに全然見飽きないし、何よりこれは手嶋さんが獲ってくれた大切な物。大好きな物を、大好きな人が獲ってくれた…そう考えただけで嬉しすぎてニヤけてしまうのを抑えられない。
…そういえばこれのお礼…まだ出来てないな。
クレーン代を頑なに払わせてくれない手嶋さんに、私は何か別の事でお礼をさせて欲しいと言った。その時彼は思い付いたら言う、と言ったきりあれから何も言ってこない。もしかしたら忘れてるのかもしれないな…今日部活の時にでも聞いてみよう。






手嶋さんの居残り練習に付き合わせてもらうようになってから、早いもので一週間。そして手嶋さんが初めて総北キャプテンとして出場する峰ヶ山レースまであと3日。今日も小野田くんや今泉くんとキツい登りのメニューをこなしたというのに、彼は今日も部室に居残って裏門坂を登った後でローラーを回している。
呼吸を荒げて床に滴る位汗だくになりながらペダルを漕いでローラーを回す手嶋さんに、ストップウォッチに設定したタイマーの残り時間はあと3分だと告げる。
3分後、手嶋さんの荒い息遣いとロードバイクから鳴る独特な音だけが響いていた部室にピーピーと甲高いストップウォッチの機械音が響いた。その音きっかけに手嶋さんは声を上げてペダルを回す脚を止めて、私はすかさず用意しておいたドリンク入りのボトルと新しいタオルを手渡した。


「ありがとな…、一花ちゃん…」
「いえ。お疲れ様でした」


手嶋さんはまだ荒い呼吸を整えながらドリンクを流し込んで、タオルに顔を埋めて汗を拭いた。タオルから顔を上げた彼の顔はすっかり疲れ切っているし、今日の居残り練習はここまでだろう。…帰り道にでもフィギュアのお礼のこと、聞いてみよう。


「手嶋さん、今日の記録です」


居残り練習分の手嶋さんの記録用紙を挟んだバインダーを手渡すと「サンキュー」とそれを受け取ってそれに目を通す。
この一週間、手嶋さんは本当に頑張っている。その甲斐あって登りの練習を始めた頃と比べてかなりタイムを伸ばしているし、きっとこれなら今度の峰ヶ山レースでも良い成績を残せると信じている。
…けど、記録を見ている手嶋さんの顔はどんどん険しくなっていった。


「……手嶋さん」
「……ん?どうかしたか?」
「…いえ、その…浮かない顔してるから、どうしたのかなって……」


気のせいかもしれないけど、何か思い詰めているような…そんな気がして思わず訊ねてしまった。


「今日もキツかったからな、疲れてはいるけど別にどうって事ねぇよ」


そう言って笑うけど、やっぱりいつもよりその笑顔は暗く見える。いつもなら胸がきゅっとなるその笑顔だけど、今は却って心配になる。毎日彼の事を、少なくとも他の部員より…お兄ちゃんと同じくらいには見ているつもりだ。いつも見ている表情でも何となく違う事くらいはわかる。


「…疲れてる、だけじゃないですよね…?」


そう訊いた所で私なんかに答えてはくれないかもしれない。けどいつも私の話を聞いてもらってるんだから、私にも話して欲しい。悩みを聞いたところで私には大したことは言えないかもしれないけど…少しでも彼の悩みの捌け口になれれば。


「……さすが、マネージャーだな」


躊躇っていたのか少しだけ間を置いて、手嶋さんは観念したと言いたげに肩をすくめながら眉を下げて困ったような笑顔を浮かべた。


「情けねぇ事に少し不安になっちまってさ…金城さんと比べたら速くもねぇし、威厳もねぇし…ってさ…」


自分で訊いたくせに、まさか話してくれるとは思ってなかったからちょっとだけ驚いた。手嶋さんは相変わらず困ったような笑顔を浮かべているけど、深い青色の瞳は微かに揺れていた。


「キャプテンとしてやる事も多いし、それやりながら自分の練習もしてたのかと思うとやっぱあの人スゲーわ…」
「手嶋さん…」
「…わりぃ。もうすぐレースだっつーのに、こんなんじゃダメだな」


相変わらず笑っているけど、泣きたいのを誤魔化しているようにしか見えない笑顔だった。前に手嶋さんは私に「作り笑いが下手だな」なんて言っていたけど、彼もじゅうぶんに下手くそだ。…多分、私よりは上手だけど。


「…私は、手嶋さんがキャプテンでよかったって思いますよ」
「え…?」
「例えば2年生にすっごい速い人…それこそ一年でインハイ出場できちゃう位で、しかも威厳のある人がいたとしても、私は手嶋さんにキャプテンになって欲しいなって思っていたと思います」


つまり、どんな人がいたって私はこの部を引っ張って行く人は手嶋さんが相応しいと思う。手嶋さんは確かに脚はあまり速い方じゃないかもしれない。だからこそだ。努力を止めない手嶋さんだから…私はキャプテンに相応しいと思った。


「前に言いましたよね、手嶋さんの頑張る姿には熱くなるんだって。ただ走りを見ている私でもそう思うんですから、きっと一緒に走るみんなには一層その熱が伝わるんじゃないかって…なんていうか、みんなの頑張る力になると思うんです」


インターハイで優勝したからこそ、尚更努力を止めてはいけない…そう私は思っている。それはきっと今泉くん達もわかっているだろう。だからこそ手嶋さんのような努力を欠かさない人が先頭に立つべきだと思ったし、きっと金城さんもそう考えたんじゃないか…と思う。ただの想像でしかないけれど。


「金城さんは確かにすごい人でしたけど…手嶋さんにしか出来ない事も、手嶋さんだからやれる事だって、たくさんあると思いますよ!だからそのまま、努力をやめない手嶋さんでいればきっと大丈夫ですよ」
「……一花ちゃん…」
「あ…えっと、すみません…なんか色々変な事言っちゃって…」


言い終えてから、急激に恥ずかしくなって顔に熱が集まってくる。ただのマネージャーでしかない私が何を言っているんだと。私の言葉をじっと聞いていた手嶋さんも何も言わないし、やっぱり無責任な事を言ってしまったのかもしれない。「すみません」って慌てて謝ろうとしたけど、それより先に手嶋さんがふっと笑った。


「…ありがとな、一花ちゃん。そうだよな…オレは金城さんみたいにはなれねーけど、オレがいいと思うやり方で部を強くしていこうと思うよ」
「はい…!私も出来る事なら何でもお手伝いしますし…辛い時はまた…えっと……側にいますから」


私はただのマネージャーだし、彼の力になれる事なんてきっと微々たる物でしかない。それでも少しでも手嶋さんの負担を軽くできるなら何だってしたいと思う。もちろん今みたいに弱音を聞く事だって。
だけど手嶋さんの事だから、今回のように話して欲しいと言っても話してくれないことも、後輩のマネージャーには話せない事だってあるだろう。…だから、話しを聞かせてください、とは言えなかった。ただ側にいるだけじゃ何も役に立たないけど、今はそれしか言えなかった。


「…あのさ、前のフィギュアのお礼ってさ……まだ有効だったりするか?」
「え…?あ、も、もちろんです!」
「よかった。それ、さ……今使わせてもらっていいか?」


後で聞こうと思っていた事を、まさか手嶋さんの方から切り出してくるなんて。でもよかった、忘れていた訳じゃなかったんだ。手嶋さんに返事を返すと、心なしか震えているような声で「ありがとう」と小さくお礼を言われた。これからお礼をするのは私なのに。


「…少しだけ、後ろ向いてじっとしてて欲しいんだ」


それだけでいいのかなと思いつつも手嶋さんに言われた通りに立ったまま彼に背中を向けた。


「……すまねぇ、一花ちゃん」


低い声が微かに聞こえたと思ったら、右肩に重みを感じた。それと首に微かに感じるふわっとした何か。驚いて思わず顔を向けると、手嶋さんの頭が乗っていた。ふわっとした感触は私の首を掠める彼のパーマだ。
重みと感触の正体を知った途端、かあっと頬に熱が集まってきて、心臓がバクバクと鼓動を早めて騒ぎ始める。


「あ、ああああの!手嶋、さん…!?」


手嶋さんとこんなに距離が近付くなんて初めてだ…!微かに息遣いまで聞こえてくるし、においも鼻腔を掠めてくる。もう頭から煙が出そうだった、というか、爆発するんじゃないかって思った。
私の上擦った変な声に手嶋さんの返事は何もなかったし、彼の顔は私の肩に埋められているから表情はわからない。だけど私が思っていた以上に大きな不安を抱えているってことはわかる。でなきゃきっと彼はこんな事しないだろうから。
今にも体を突き破って出てきそうなくらいに鼓動を打つ心臓を無視して、手嶋さんに頼まれた通りじっとする事にした。

…さっきは軽くあんなことを言ってしまったけど、優勝校のキャプテンだなんてきっと私が思っている以上に物凄い重責だろう。それなのに他の部員の前では気丈にして、後輩を気にかけて、不安なんてないって風に振る舞って……すごい人だ、本当に。決して適当な事を言った訳じゃないけど、もっとかける言葉があったんじゃないかと胸が苦しくなった。いや、本当は何も言うべきじゃなかったのかもしれない。
せめて今は、こんな肩を貸すだけの事でも手嶋さんの不安が和らぐなら…いくらでもこうしてじっとしていようと思う。



46/96


|


BACK | HOME
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -