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真っ白な天井が視界の大部分を埋めつくしていた。
その端には添え物のように透明な点滴のパックやらチューブやらが映り込む。きっとこれは私の体に繋がれている物だ。それはわかるのに、私の体には何の感触もない。今横たわっているであろうベッドの感触も、体にかけられているであろうシーツの重みや温かさも、点滴の針の痛みも…何も感じなかった。

そこで私は確信した。これは夢だと。

変な感覚だった。まだ現実の私は寝てるのにこれが夢だとわかってしまうなんて。映画やアニメなんかフィクションの世界ではよくこういう状況が描かれていたりするけど、まさか自分が体験する日が来るなんて。

それと、私はこの場所を知っている。この次に私の視界は何を写すかも。
これは……2年前の記憶だ。この時私は病院に入院したんだ。

この記憶が正しければ私の頭は左を向くはずだ。そしてある人物に声をかける。
その予想通り、視界は天井からゆっくりと左へ揺れて一人の少年の姿を捉えた。


『何で、そんな顔してるの?』


この言葉も予想通りというか、記憶通りだ。
私の視界に映る少年はベッドの脇に置かれた丸椅子に礼儀正しく座っている。何も言わず、動かず、まるで人形のようだけど彼の表情は暗く、私の姿を視界に入れないようにしているのか俯いていた。


『………』


彼は私の質問には答えなかったし、相変わらず私と目も合わせてくれない。だけどこの反応はこの記憶の当時も予想していた。彼の事を私はよく知ってるから。
この人形のように大人しい少年は、私の兄の青八木一だ。


『……大丈夫だってば!こうなっちゃったのは仕方ないしさ』
『……』


何も言わないけど、今何を考えているのかは何となくわかる。
普段兄はとても無口だし、表情も変わらない。そんなんだから普段は何を考えているのかわからない事の方が多いけど……だからこそ、今の彼のこの表情は逆にわかりやすい。

心配でたまらない…そんな顔だ。


『運が悪かった…それだけの事だよ』


だからそんな顔しないで。そう言うと漸く目線が私に向いた。
やっと私の事見てくれた、って笑ってみせるけど兄の表情は相変わらず暗い。


『……けど、一花……』


久々に聞いた彼の声はやっぱり表情と同様に沈んでいる。全く、普段何考えてるのか全然わからないのにこんな時は嫌でもわかっちゃうなんて。


『……不思議なんだけどね、そんなに辛くないんだ。だから…お願い、そんな顔しないで、お兄ちゃん』
『………』


そんな顔をするなって言ったのに、彼の表情は相変わらずだ。もしかして私の本心がばれてしまってるんだろうか。だけど私にも意地がある。心配そうな顔を向けられるのはどうにも苦手で、意地でも私は何でもないを押し通したかった。


『こうなっちゃったのは仕方ないよ。まあ他の事に没頭できるようになったと思えばさ!…他に何か新しい趣味をゆっくり見つけるよ』
『……一花…』
『それまではお兄ちゃんの練習のお手伝いでもさせて貰おうかな。……だから、さ。お兄ちゃんは構わず走り続けて……私の分も』




〜♪〜♪


部屋に響き渡るやたら音量の大きい軽快な音楽が私を夢の世界から現実へと引き戻した。覚醒したばかりのぼんやりした頭でも毎日嫌でも聞いているこれは枕元に置いたスマホのアラームの音だとわかる。
それと、視界に映るのは病院の無機質な天井や壁じゃない、よく見慣れた私の部屋だ。やっぱり今まで私が見ていたあれは夢だったんだと覚醒して強く実感した。

早く起きろと言わんばかりに徐々に音量を上げていく枕元に置いてあるはずのスマホを手探りで探り当てて、アラームを止めた。
今日は日曜日だしいつもならここであとちょっとだけ…、と二度寝の体勢を決め込んでしまうけどそんな気分になれなかったのは多分夢のせい。

さっきまで私が見ていた夢……過去の夢なんて見た事なかったのに、どうして突然あんな夢を見たんだろう。たまたまなのか、それとも何かの暗示なのか……なんて、そんな事ある訳ないか。

さて、目も覚めちゃったし起きて顔を洗って我が家の可愛いワンコとお散歩に行くか、とベッドから降りた。


部屋から出て一階のリビング兼食卓へ行くと既にお兄ちゃんがいて朝ごはんを食べ終えたところだった。…お母さんとお父さんは、朝早くから出かけるってそういえば昨日言ってたなぁ。
お兄ちゃんは普段から食べる方だけど、今朝は空いたお皿がいつもよりも多い。こういう時お兄ちゃんは大抵練習かレースに行く。ロードレースはカロリー摂取も大事だもんね。


「おはよう、早いね」
「…おはよう」
「今日は練習?」
「違う、レース」


今日はレースの方だったか。「そっか、頑張ってきてね」と告げるとお兄ちゃんは無言で頷いた。

…いつから私はお兄ちゃんのレースを観に行かなくなってしまったんだっけ。2年前はよくお兄ちゃんの応援に行ってたのに。
それくらいに私のロードバイクへの執着が薄れてしまった…って事だろうか。



2年前、お兄ちゃんと同じように私もロードバイクに乗っていた。

お兄ちゃんが中学に上がったときに近所の自転車屋さんでロードバイクを買ってもらっていたのが羨ましくて、私も欲しいと駄々を捏ねて一年早い中学入学祝いとして買ってもらった。
最初こそお兄ちゃんの真似をして始めたロードだったけど、あっという間にその楽しさに引き込まれて気が付けば毎日、今日はどこを走りに行こう、今日こそはあの峠のタイム新記録出すぞ、とか…そんな事で頭がいっぱいだったし、休日はレースに出たり予定の無い日はお兄ちゃんのレースの応援に行ったりしていた。

だけど、私はもうロードには乗っていない──いや、正確に言うと乗れなくなってしまった。


お兄ちゃんは丁寧に口元をティッシュで拭ってから食べ終えたお皿をまとめて、シンクに運んだそれを洗い始めた。


「…朝ごはん、冷蔵庫に入ってる」


お皿を洗いながらお兄ちゃんは私に振り向いてそう言った。
何も返答に困るような言葉じゃないのに、私はぴたりと固まってしまった。
私に頼りない顔を見せる2年前の夢を見たせい…かな。

なんだか──お兄ちゃんの顔がいつもより逞しく見えた気がして。


「…一花?」
「あ…ううん、冷蔵庫ね、ありがと」



そしてその日、レースから帰ってきたお兄ちゃんは金色に輝くトロフィーを手にしていた。





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