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お兄ちゃんと手嶋さんが出走する二年生限定のレース当日。
今日は短いコースを周回する規模の小さなレースだったけど、強そうな選手はそこそこいたし、何度か名前を目にする事のあるような名の知れた選手もいた。
そんな選手達を抑えて、優勝したのはお兄ちゃんだった。もちろん今回も手嶋さんとのコンビネーション走法でそれをもぎ取った。

2人のレースを観たのは高校に上がる前、総北に行きたいと思うきっかけになったあの日のレース以来だった。今回はあの時と違って堂々と応援できたし、マネージャーとしてサポートも出来た。当然私は興奮がなかなか収まらなくて、優勝した2人よりも興奮していたからお兄ちゃんには少し困った顔を向けられて手嶋さんには笑われてしまった。


表彰式も終わって、あとは同行してくれた寒咲さんのバンに機材を詰め込んで帰るだけ。
けど作業に取り掛かろうとしたところで寒咲さんは「野暮用があるから少し離れる」と言って、お兄ちゃんと手嶋さんは「本部に用がある」とそれぞれその場を離れた。
自分達が戻ってきてから一緒にやろうと言われたけど…お兄ちゃんも手嶋さんもレース後で疲れてるはず。なるべく2人の負担を減らしたい。
重たい物もあるけど…これくらいなんとかできるはず!と意気込んで撤収作業を進めようとしたその時。


「ねぇ、君総北のマネージャー?」


背後から聞こえた男の人の声は、初めて聞く人のそれだったけど明らかに苛立ちが伝わってきた。
…なんだか良くない気がする。だけどここでちゃんと返さないともっと困った事になってしまう気もした。


「…はい、何かご用ですか?」


なるべくその人を刺激しないようにって、いつもの声色で返事をして体の向きを彼に向けた。
…見た事ないジャージの人だったし、その人の顔にも覚えがない。私が何かしてしまった──という訳じゃなさそう。だけど彼の表情は眉間に皺が刻まれていて、目も血走っているように見えた。…確実に怒ってる、そう思った途端背筋がひやりとして恐怖がじわじわと込み上げてくるのを感じた。


「あのさぁ、あの2人なんなの?すげームカつくんだけど」


…2人…お兄ちゃんと手嶋さんの事か。


「特に手嶋とかいう奴!邪魔ばっかしやがってさぁ!アイツがあんな走りしなきゃオレ勝ててたんだよ!」


彼は血走った目を見開きながら捲し立てた。
そこで思い出した。知らないと思っていた彼は、レース中飛び出したお兄ちゃんを追いかけようと何度も飛び出そうとして、その度に手嶋さんにブロックされていた人だった。
レース中も手嶋さんに何度か「どけ!」とか「邪魔だ!」ってすごい形相で怒鳴ってたけど……まさか、直接怒鳴り込みにくるなんて。正直怖くてたまらなかったけど、私に言いたいことを全てぶつければ帰っていってくれるかもしれない。…ちょっと視界が滲んできた気がするけど大丈夫、がんばれ一花。そう自分に言い聞かせた。


「大して速くねぇのにウッゼェ事ばっかしやがって!ふざけんなよマジで!」


その一言で怒りが込み上げてきた。
大して速くないのに、ですって!?2人がどれだけの苦労と努力をしているか知らないくせに…!
その言葉が思わず口から飛び出しそうだったけど、ぐっと飲み込んで耐えた。偉いぞ私。
…ここで感情を爆発させたらダメだ、せっかくお兄ちゃんと手嶋さんが頑張って優勝したのに無駄になってしまうかもしれない。一言言い返したいけど……2人のためにも堪えなきゃ。
自分の怒りを押さえ込もうと気が付かれないであろう程度に唇を噤んで、後ろ手に回した手をギュッと握った。こんな時お兄ちゃんのポーカーフェイスが羨ましい。


「さっきから黙ってるけどさぁ、何か言う事ねぇのかよ!?なぁ!」


ガッ、と彼のビンディングシューズが勢いよくアスファルトを蹴る音が聞こえた。その音に思わずびくっとして肩が跳ねたのも束の間、彼は大股に私へと近付いてきて…右手が振り上げられた。
それまで私の中で燻っていた怒りがすっと沈むように消えた。代わりに、これはまずいと頭の中でサイレンが鳴り響いてるようなざわついた感覚が全身に広がる。


(殴られる…!)


思わず両手で頭を守る体勢を取ってギュッと目を瞑った。

だけど…それから彼の怒鳴り声も、叩かれたような衝撃を感じなかった。


「オイ、ウチのマネージャーになんか用か?」
「………」


その声は私の前から聞こえてきて…恐る恐る目を開けると、お兄ちゃんと手嶋さんが背を向けて立っていた。その先にいる私に手を上げようとしていた彼は、中途半端に手を上げたまま焦ったような表情を浮かべていた。


「ナンパ…じゃなさそうだな。お前オレらに言いたい事あんだろ?言ってみろよ、ちゃんと聞いてやっからさぁ」
「……」
「女の子に突っかかるとか最低だぞー?……ほら、聞いてやるから早く言えよ」


手嶋さんの口調は完全に煽り口調だし、微かに見えた2人の横顔はレース中と同じく……ううん、それ以上に鋭い目をしていた。その目を直に向けられていない私ですら背筋が微かにぞくりとしてしまったんだから、2人からこの目で睨まれる彼は今怖くて堪らないんじゃないかな……怒りで赤くなっていた顔は、今は青ざめてうっすらと冷や汗をかいてるように見えるし、「ぐ…」と言葉を詰まらせている。


「っ……、いいよ!もう!」


あれだけ2人への文句を捲し立てていた彼は、さっさと踵を返して大股気味に私達の前から去っていった。しばらくその背中をまだ張り詰めた空気のまま見送って…やがて視界から見えなくなった途端、助かったんだと安心して膝から力が抜けてその場にへたり込んでしまった。


「一花…!」
「一花ちゃん!」


さっきまでの険しい表情とは打って変わって、お兄ちゃんと手嶋さんは心配そうに駆け寄ってきて私の目線に合わせてしゃがみ込んできた。お兄ちゃんは安心させようとしてくれているのか背中を小さく摩ってくれる。珍しい、こんな事してくれるの小さい時に転んでわんわん泣き喚いちゃった時以来じゃないかな、なんだか懐かしいな。ありがとう、と言ってみるけどお兄ちゃんは相変わらず心配そうな顔を私に向けている。


「大丈夫か!?どこか痛むのか!?まさかアイツ何かしたんじゃ──」
「い、いえ!どこも痛くないです、大丈夫です!ちょっと力抜けちゃっただけで…」
「そっか…、ならよかった」


手嶋さんは安心したように笑う。手嶋さんまでこんなに私の心配をしてくれるなんて。やっぱり彼はすごく優しい人だ。


「わりぃ…一花ちゃん。オレ達がここから離れなきゃ一花ちゃん1人を危ねぇ目に遭わせなかったのに」
「……ごめん、一花」


心配していたかと思えば、今度は2人して申し訳なさそうな顔を向けてくる。さっきまでのあの形相をしていた人達と同一人物とは思えない位。お兄ちゃんもこんなに表情が変わるのは珍しいな。けど私は本当に2人が来てくれて安心したんだ。もし2人が来てくれてなかったら一体どうなっていたんだろう。想像するのも怖くて嫌だ。だからそんな顔をしないで欲しい。


「2人ともそんな謝らないで下さい!お兄ちゃんと手嶋さんが来てくれて本当に安心したんです。だから…ありがとうございました。駆け付けてくれて」


笑いながら言うと、漸くお兄ちゃんの表情はいつも通りに戻った。だけど…いつもならすぐに返事を返してくれそうな手嶋さんは、私を見てなぜかピタリとしていた。「手嶋さん?」と呼ぶと慌てたように返事をしてくれた。…一体どうしたんだろう。顔も少し赤かったような……。



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