『 Dear My Star 』
傷ひとつないピカピカと光る綺麗なフレーム、綻びも汚れ一つもないサドルとバーテープ、それから泥汚れ一つないタイヤ。
今私の目の前にあるそれは、とても眩しくて思わず触れる事を躊躇った。

今日からこれが──このロードバイクが、これからの私の相棒になるっていうのに。


ついこの間まで、『もう一度ロードに乗りたい』という私の願いに両親からのオッケーが出るのは絶望的だと思っていた。けどそれが一転、お母さんとお父さんは『そんなに乗りたいなら』とオッケーを出してくれた。色々不安はあるようだったけど、私がまたロードバイクに夢中になることは嬉しかったみたいだ。
…まあ、予算はこのくらい、とか、もう絶対に無茶な運転はしない事、学校の成績を上げなさいとかその他色々と条件は出されてしまったけど……。
けどそんな事、またもう一度ロードに乗れる喜びに比べたらどうって事ないし…大怪我してたくさん心配をかけてしまったのに、またロードに乗る許可をしてくれたお母さんとお父さんには本当に頭が上がらない。とても感謝している。

そして休日の今日、通司さんから納車の連絡を受けて急いで寒咲サイクルへ向かった。
その間は早く新しい愛車が見たい、早く乗りたいってその事ばかりで頭がいっぱいだったのに、いざピカピカのそれを目の前にしたら乗るどころか触れる事すら躊躇してしまうなんて。


「…なんか、乗るのもったいないなあ」


思わずぽつりとこぼすと通司さんと幹ちゃんは同時に笑いを零した。


「おいおい、乗ってやんなきゃコイツも可哀想だろ?」
「そ、そうですよね…でもこんなに綺麗だと汚したくないなって思っちゃって」


私はそそっかしいから、きっといっぱい倒したりぶつけちゃったりして傷だらけにしてしまう。というか、前のロードもそうだった。家から出すだけでも乗ってないのにボコボコぶつけて傷を作ってしまって……今度はなるべく慎重に扱わなくちゃ。


「みんなきっとびっくりするだろうね、一花ちゃんがロード乗ってるとこ見たら」
「そうかなぁ…?」


幹ちゃんの言う通り、部のみんながどんな反応してくれるのかは気になる。もっとみんなと自転車の話とか出来るかな……今はまだ恥ずかしいけど、いつか実はレースに出た事もあるだってみんなに話せたらいいな。

とにかく今は、一度諦めてしまったロードにもう一度乗る姿を手嶋さんに見てほしい。
ブランクがあるから、きっと前みたいに上手く乗りこなせなくて情けないフォームになってしまうかもしれないし、勾配の緩やかな正門坂ですら今の私にはキツくてボロボロになってしまうかもしれない。そんなカッコ悪い姿、普通なら大好きな彼氏には見せたくないと思うだろうし、私も出来ればカッコいい姿を見てほしいと思う。
それでも、『手嶋さんがいたから私は前に進もうと思えた』という事を目に見える形でも伝えたい。


「ふふ、一花ちゃん嬉しそう」
「へへ…だってまたロードに乗れるなんて、思ってなかったから」
「それもだけど……あの人に走ってるところ、見て欲しいんだよね!」
「あの人…?ああー、わかった」


ニコニコする幹ちゃんとニヤニヤと面白そうに笑う通司さんの言うあの人、は間違いなく手嶋さんの事を指しているんだろう。私が手嶋さんのことが好きって知ってる幹ちゃんはともかく、通司さんにはそんな話一言も話した記憶ないのに!そんな時に脳裏に過ぎる綾ちゃんの「幹は口が軽い!」という言葉。ああ……これはひょっとするとひょっとするなぁ……。

だけど、手嶋さんに見てもらいたいのは事実だから否定ができない。


「…はい。早く見て欲しいです」


その日の夜、私は手嶋さんに『明日早く登校出来ますか?』『正門で待ってて欲しいんです』とメッセージをおくった。
明日は朝練が久しぶりにお休みの日で、朝の時間に少し余裕がある。久しぶりにゆっくりできる朝なのに時間を取らせてしまうのは気が引けたけど…でも、手嶋さんにはどうしてもまたロードに乗るところを見て欲しいという気持ちが強くて、わがままを言ってしまった。
少しだけ緊張していたけど、すぐに『もちろんだよ』という快い返事が返ってきてホッと胸を撫で下ろした。

そして迎えた休日明け。今日から、私はバスと電車を乗り継いでの登校じゃなくて新しい愛車に乗って登校する。
手嶋さん、驚くかな、何て言ってくれるかな。そんなことを考えて胸をドキドキと高鳴らせながら、今日は制服じゃなくていつも部活で着ている運動着に着替えて、新しい愛車と一緒に家を出た。
ちなみに中学時代に着ていたサイジャも久々に引っ張り出して着てみた…いや、正確には着ようとしてみたのだけど……尽くブランクは恐ろしいものだという現実を突き付けられてしまった。これから通学で殆ど毎日ロードに乗る事になるし、ちょっとずつでもいいから引き締めたい。


「行けるか」
「…うんっ」


玄関の外でロードを側に待っていてくれたお兄ちゃんに頷いて、愛車に跨った。こうしてお兄ちゃんと一緒に走るのはものすごく久々だ。
今日は足を緩めて学校まで一緒に行ってくれるらしいけど、きっと今の私の足じゃ着いて行くのも一苦労だろう。それでもお兄ちゃんとまた一緒に走れることが嬉しいし、心なしかお兄ちゃんも嬉しそうにしてくれている気がする。

ペダルを漕ぎ始めたお兄ちゃんの後ろに着いて、私もペダルを踏み込む。
冬が近付いている今の時期は肌を掠める風が冷たくて、思わず肩が縮こまるけどこの感覚が懐かしい。それだけじゃない、ペダルを回す毎に流れていく景色も、タイヤを通して伝わってくる振動、ロードバイク特有のちょっとキツイ前傾姿勢。感じている感覚全部が懐かしく感じる。
唯一違うのは、今私を引いてくれているお兄ちゃんの背中。以前は何だか頼りないなと思ったそれは、今は大きくて逞しく見える。その頼もしくなった背中を見ながら、お兄ちゃんも強くなる為に本当に毎日頑張ったんだなあとしみじみと思う。これからも改めて、お兄ちゃんのこともサポートして少しでも強くなるお手伝いがしたいと思った。


「…一花」
「ん?何?」
「このペース、平気か」
「うん、大丈夫!」


今の私にはちょうど良い位の巡行速度だけど、きっとお兄ちゃんにはちょっと物足りないだろうな。ちょっとだけ申し訳ないなと思うけど、それでもこのままのペースをキープしてくれるのはとても助かる。


…と、思っていたのに。



「…お兄ちゃんの鬼…っ!ひどい…!」


正門坂の下に着いた途端、お兄ちゃんは自転車を部室に置きたいからって私を取り残してさっさと正門坂を登って行ってしまった。そういうわけで私はいつもバスに運んでもらって登っていた、緩やかだけど長いこの正門坂を一人で登っている。
バスの中からこの坂を眺めている時、ぼんやりと「これくらいなら登ってみたいな」と思った事はあるけど、思っていた以上に苦しい。前はこれくらいの勾配はスイスイ登れていたはずなのに……。
私、本当にクライマーだったの?と自分を疑いたくなってしまう。ブランクがあるし、事故のせいでもう以前のように体が動かないと理解はしていたけど、そこそこショックが大きい。
つい独り言まで漏らしてしまっているせいか、周りの登校中の生徒達から向けられる視線がチクチクと痛い。今の私は息も上がってるし、もう冬になるっていうのに汗までかいてて……とにかく恥ずかしいから見ないでほしい。


「うう…っ、はぁ…っ、も、嘘でしょ…」


以前は坂で追い抜いていたお兄ちゃんですらスイスイ登って行って、私が漸く坂の中程を越えた頃にはもうその姿はかなり小さくなってしまっていた。
絶対に足は着きたくないと意気込んで登り始めたけど、心が折れてしまいそうだった。
けど、そんな時に見計らったかのように坂の上から耳に飛び込んでくる、よく聞き慣れた声。


「一花ちゃーん!」


よく聞き慣れているはずなのに…耳に入る度にドキドキしてしまう、私を呼んでくれる大好きな声。


「…てしま、さん…!」


正門の前で手を振っている人が見える。まだ小さくしか見えないけど、あのふわっとした髪と細身の体格。あれは間違いなく手嶋さんだ。その隣にはお兄ちゃんがいるのも見える。
思わず涙が出そうだった。私がまた自転車に関わりたいと思ったきっかけをくれた二人が、私の走っている姿を見守っててくれている。
いつも私が走りを見ている二人が、今は私の走りを見てくれているんだ。いつもと立場が違くてなんだか不思議な気分だけど……すごく嬉しくて、安心する。


「あともーちょいだぞ!頑張れー!!」


何より、いつも私が声を張り上げて応援している手嶋さんが…大好きな人がこうして声を張って応援してくれている。体の奥底から何か熱い物が込み上げてくるみたいで、さっきまで重たかった足が不思議なくらい軽く感じる。


「一花ちゃん!!頑張れ!」


大好きな人に応援してもらえるのってこんな感じなんだ。
キツくてもいくらでも頑張れるみたいな、すごく力が湧いてくるみたいな。私が応援している手嶋さんも、いつもこんな感覚だったら嬉しいな。
早く手嶋さんの側に行きたい。ロードにまた乗っている私を見てなんて言ってくれるのか気になるし、手嶋さんの頑張る姿を見ていたから、手嶋さんが居てくれたおかげでまたロードに乗りたいと思えたんだって事を伝えたいし……何より手嶋さんに見ていてほしい。私がこの坂を登りきるところを。

ぐっとペダルを踏み込んで進むと手嶋さんとお兄ちゃんの姿がまた大きく見えてくる。あともう少し、早く二人の元へ行きたくてペダルを回して……そしてやっと、二人の顔がはっきり見えるくらいのところまで登ってきた。
体はもうヘトヘトだけど……二人が見ていてくれるのが、手嶋さんが何度も私を呼んでくれて、頑張れって声をかけてくれるのが嬉しくて気持ちはすごく上がっていた。
そのおかげでやっと…思っていたよりもすごく時間がかかってしまったけど、ようやく正門坂の上の校門を潜る事ができた。
普段から乗っている部の人達からしたらこの程度の坂はどうって事ないないだろうし、以前の私もこのくらいは余裕だった。今はただ必死に呼吸して体の中に酸素を取り込むのに必死で、もっと勾配のある坂で鍛えていたはずの足だってパンパンだ。体の衰えを痛感して悔しさも感じるけど……それ以上にものすごい達成感を感じているし、すっごく、楽しかった。

これで本当に、前に踏み出せたんだ。


「一花ちゃん!」
「一花!」
「…はぁ…、はぁ……手嶋、さ……お兄ちゃん……」


足を止めて息を整えている私のところに手嶋さんとお兄ちゃんが駆け寄って来てくれる。二人に色々言いたい事があるのに、跨ったままのロードを支えながらその場に足を着いて立っているのと、荒く呼吸をしながら二人を呼ぶので精一杯だった。
早く息を整えて二人に聞きたい事、伝えたい事があるのに。でもそう思った矢先、駆け寄ってきた手嶋さんにぎゅっと抱き締められてしまった。


「え…!?あ、て…手嶋さん…!?」


当然二人に言いたかった言葉は、一瞬で頭から全部吹き飛んでしまう。


「て、手嶋さ…!わ、私、汗かいてるから…!よごれちゃいます…っ!」
「そんなんいいよ。一花ちゃんがここまで頑張ってきた証だろ?」


ぎゅっと抱き締めてくれるのはすごく嬉しいけど、汗だくの体を抱き締められるのはものすごく恥ずかしい。しかもお兄ちゃんも見てるし……走った後で体温の上がっている体が余計に熱くなってくるのを感じる。


「登ってくるとこ、見てたよ。よく頑張ったな、キツかったろ?」


手嶋さんの声は少し震えているし、私を抱き締めている腕に力が込められたのを感じた。もしかして感動してくれていたのかな……頑張ったな、って褒めてくれるのは期待していたけど、これは予想外だった。途中で足を着いてしまおうかと思ったけど、ここまで頑張って登って良かったな。でもそれは手嶋さんが見ていてくれたおかげだ。


「手嶋さんが見ていてくれたから……頑張れたんです」


あとお兄ちゃんも。と、手嶋さんの後ろにいるお兄ちゃんにちらりと視線を向けるとちょっとだけ呆れたような顔をしつつも笑っていた。お兄ちゃんも私がここまで登れたこと、喜んでくれているのかな。


「手嶋さんがいつも頑張っていたから…私も頑張りたい、前に進みたいって…そう思たんです。今だってきっと、手嶋さんの応援がなかったらとっくに足ついちゃってました」


手嶋さんの制服を汚しちゃいけないと思っていたのに、坂を登り切れた嬉しさとか安心感、それから見守ってくれていた彼への愛しさが込み上げてきてついブレザーの裾を掴んでしまった。
手嶋さんは「そんなことない」って否定するかもしれない。そんな謙虚なところも好きだけど…今は否定しないで欲しい。いつも手嶋さんの頑張る姿にはものすごく力をもらっていたし、とても尊敬していた。そんな一生懸命な彼に憧れて、私はまたこうしてロードに乗りたいと心から思えたんだし……何より、ロードバイクが好きだって事も思い出す事が出来たから。


「だから全部…手嶋さんのおかげです」


もしも、お兄ちゃんと一緒に走っている人が手嶋さんじゃなかったら。きっと私は二人の走りに惹かれてまたロードに関わりたいとは思わなかった。
もしも手嶋さんに私のずっと隠してきた過去を話してなければ、そして寄り添ってくれていなかったら……私はきっと今も、ずっと心にモヤのような物を抱えて立ち止まったままだったと思う。


「ありがとうございます、手嶋さん」


手嶋さんに出会えて、そして好きになって……本当に良かった。


「…オレが頑張れてんのは一花ちゃんが応援してくれて、支えてくれるからでもあんだよ」


私を抱き締めていた手嶋さんの体が離れる。だけど手はまだ私の肩に置かれたまま。ようやくちゃんと見れた手嶋さんの表情は少し涙ぐんでいるように見えるけど…これは私がちょっと泣きそうで視界が滲んでいるせいかな。


「だからさ、こうやって応援できてよかったって思った。オレも一花ちゃんの力になれてんだなって、さ。けど、それ以上に頑張って登ってくる姿に感動したっつーか……オレも、力もらえたよ」


どっちが応援してんだっつーのな、って手嶋さんはニカっと笑う。
大好きな人に応援してもらえるのって、すごい力をもらえるんだなって思ってたけど……私が手嶋さんの走りに力をもらえているように、私の走りが彼に力を与えているなんて考えもしなかった。
ちょっと恥ずかしくてつい「そんな事ないですよ」って言いたくなってしまうけど、何も言わずに素直に彼の言葉を受け止めた。その代わりに照れ臭くて変な顔で笑ってしまっていただろうけど。


「オレの方こそ、ありがとな……前に進む姿を見せてくれて」


また視界がじわりと滲んだ。見てほしいとお願いしたのは私で、こうしてまたロードに乗れたのも手嶋さんのおかげだからお礼を言われる事なんてないのに。でも誰よりも尊敬していて、大好きな人にこんな事言ってもらえるなんて泣きそうな位嬉しかった。私の頑張りを見てもらえていた事はもちろん、格好悪くてへろへろな走りだったけど、それでも手嶋さんの心に響いたことも、それに何より──


「なんか…いいな、こういうの。支え合えてるみたいでさ」
「ふふ…そうですね。私も同じ事考えてました」


手嶋さんも同じ事を思っていてくれて嬉しい。彼の言う通り、応援したりされたりして、力になれているのがお互いに支え合えているみたいでいいなって思った。ついへにゃりと笑うと手嶋さんも釣られたのか、彼もくしゃっとした笑顔を浮かべた。


「私、これからももっと手嶋さんのこと、応援して、支えられるように頑張ります」
「…オレも、もっと頑張るよ。それが一花ちゃんの力になるっつーなら……だから、オレからもお願いするよ。これからもオレのことを支えて欲しいし、見ていてほしい」
「そんなの…もちろんですよ」


彼から目を離す事なんて、絶対にありえない。
真っ暗で先が見えない場所にいるような私を、優しくて力強い明るい光で導いてくれた、私の大切な人だから。あなたがいてくれたから、私は暗い所から抜け出して、前に進む事が出来た。

そう……彼は紛れもなく私にとっての一番星だ。何よりも眩しくて、綺麗な星。

どうかこれからも、あなたがもっと輝くためのお手伝いをさせて下さい。
それから……その輝きを、一番近くで見守らせて下さい。




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