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一花ちゃんが目を覚ました時、しまったと思った。起きないだろうと踏んで彼女の額に手をあてたのを後悔した。けど、その後それ以上に今までの自分の振る舞いにひどく後悔をした。


「本当に、私…手嶋さんに迷惑かけてばかりで……ごめんなさい…」


手を握りしめて震える声で言った一花ちゃんの目には涙が滲んでいた。眉間には皺が刻まれていて溢れないようにと必死に堪えているようだ。

…本当に一花ちゃんはわかりやすい。いや、オレが彼女のことが好きだから、だからこんなにも一花ちゃんの事がわかってしまうんだ。
今彼女が何を思っているのか、その姿を見ていればわかってしまう。
自分の体調の事なんて今は何も考えちゃいない。今彼女の頭にあるのはきっとオレに迷惑をかけてしまったという自責の思いばかりだろう。
一花ちゃんがそんな事で自分を追い詰める必要なんて全く無いのに。全部オレが自分勝手に彼女から距離を置いて避けて、一花ちゃんの気持ちから逃げていた。

その理由はただ単に怖かっただけだ。

今よりも一花ちゃんとの距離が近くなればオレはきっと益々彼女に甘えてしまう。どんなに情けない姿を見せても優しい一花ちゃんはきっと受け入れてくれる。疲れたらその都度力を抜いて休む事だってあるだろう、その度に一花ちゃんに側にいて欲しいと願って、彼女の優しさに甘えていつしか目的の為の脚を緩めてしまうんじゃないかという怯え。
それから、今は部の事を何よりも一番に考えなくちゃいけない。後輩だって来年を見据えて頑張ってくれているのにキャプテンであるオレが他の事考えてちゃダメだ。だから付き合ったとしても一花ちゃんの事を一番に考える事が出来ない。
そのせいで彼女から見放されるんじゃないかと、オレを見てくれなくなるんじゃないかって怯えていた。

オレは…一花ちゃんの気持ちに応えてしまったら、このまま努力を続けられる自信も、一花ちゃんを幸せに出来る自信も無かった。
そのオレの自信の無さと臆病さのせいで、一花ちゃんをこんなにも追い詰めてしまった。一花ちゃんの太陽みたいな明るい笑顔が好きだったはずなのに、今はオレがそれを曇らせてしまっている。

迷惑ばかりかけて、だって?それは違う。
一花ちゃんの事を迷惑だなんて思った事は一度だってない。オレがどれだけ彼女の存在に助けられてきたと思っているんだ。


「一花ちゃん、それは」
「私は全然大丈夫ですから…!手嶋さんは気にせず…練習に行って下さい」


それは違う、迷惑なんかじゃなかったという事を伝えたくて発した言葉の続きは、一花ちゃんによって遮られてしまう。
彼女がオレの言葉を遮るのは珍しい事で少し驚いたけど、そんな事よりも今彼女が浮かべている作り笑いの方が問題だ。今まで見てきた一花ちゃんのそれの中で、一番下手な笑い方だった。
体調が悪いからっていうのもあるのかもしれないが、今にも溢れそうな涙を必死で堪えながら、オレに心配をかけないようにと精一杯笑おうとして、却って余計に辛そうにしか見えない一花ちゃんの酷い作り笑い。


「……っ」


思わず唇を噛み締めた。
いつも笑っていて欲しいと願っていた一花ちゃんにこんな顔をさせてしまっているのは、自転車を諦めざるを得なくなってしまった彼女の過去でもなければ、彼女に付き纏って苦しめていた男でもなく……他ならぬオレだ。

ずっと一花ちゃんはオレを気遣ってくれて支えようとしてくれていた。いつだってオレを応援してくれていたのに。それはオレが遠ざけてしまって、こんなに苦しそうな顔をさせてしまっている今も。

青八木の言う通り、オレは本当にバカ野郎だ。
好きで堪らなかった一花ちゃんの事をこんなにも苦しませてからようやく目が覚めるなんて。


「やっぱ、このままじゃだめだ」


一花ちゃんとこのままただの先輩と後輩とかそれだけの関係になる事も、オレが彼女に思っている事を伝えない事も。
何より今ここで一花ちゃんの言う通りに練習に行ってしまったら、きっともう二度と彼女と向き合う事が出来なくなる…そんな嫌な予感がした。

オレから避けていた癖に何言ってんだよって思われるかもしれない。勝手すぎるって怒られるかもしれない。けど、だからこそオレから一花ちゃんに伝えなくちゃいけないんだ。

少しでも一花ちゃんと近くで向き合いたくて、座っていた丸椅子から立ち上がってベッドの端に座り直す。久々に間近で見る彼女の顔は、目を丸くして驚いているようだった。


「ごめん、一花ちゃん。やっぱオレの気持ち、ちゃんと伝えるべきだった」


真っ直ぐに一花ちゃんの潤んだ大きな目を見つめながら伝えると、動揺させてしまったのかそれは微かに揺れた。オレと一花ちゃん二人きりの静かな保健室。聞こえるのは校庭のテニス部のラリーの音と部員の掛け声と、それから、自分のバクバクとうるさい鼓動だけ。思わず煩わしい左胸をぐっと掴んで抑えつけたくなる衝動を堪える代わりに、ごくりと息を呑んだ。

気持ちを伝えようとしてくれた一花ちゃんも今のオレみたいに緊張していたんだろうか。勇気を振り絞ってくれていたんだろうか。
もしもそうだったのなら……オレはマジで大バカ野郎だ。


「…一花ちゃんの事が、好きだ。…いや……好きとか、そんなんじゃ足りない位に」
「…え…!?」


一花ちゃんの目が大きく見開かれる。正に鳩が豆鉄砲でも喰らったような顔だ。きっともっと違う言葉を予想していたんだろうな、それこそ正式にフラれるみたいな。けどそんな彼女に構わずにオレは続ける。ここで一度勢いを緩めてしまったらきっと一花ちゃんに伝えたい事全てぶつける事が出来ないだろうから。


「それと…今まで、ごめん。オレマジで最低だったわ」
「そんな…!」


きっと「そんな事ないです!」と続けようとして上半身を前のめりにしかけた一花ちゃんを「今は聞いて」と制して、もう一度続ける。


「本当は一花ちゃんがあの男にオレの事を"大好きな人"、って言ってくれたのさ……滅茶苦茶嬉しかったんだ。マジ硬直しちまう位にさ……だから、その後気持ちを伝えようとしてくれたのも、本当は嬉しかった」


あの時、オレになんのしがらみも無かったらきっと間違いなく一花ちゃんを強く抱き締めていた。そのまま彼女への想いの丈を語って、「大好きだ」って伝えていたに違いないし、そうしたかった。


「けど……ダメだって思ったんだ。このままだとオレは一花ちゃんの気持ちを利用して甘えちまうだろうなって、一花ちゃんの優しさに甘えて頑張る事を辞めちまうかもしれない。それに、付き合っても部活の事ばっかで一花ちゃんの事一番に出来ねぇし、大事に出来る自信もねーし……ってさ」


だから、オレは一花ちゃんの事を遠ざけた。きっとオレよりもいいヤツがいるから、そんな事まで考えて。


「ごめん…本当に。自分勝手な事ばっか考えて、一花ちゃんの事こんなに苦しめてるなんて思ってもなかった。マジで最低だった」
「……手嶋さん……」


一花ちゃんは小さくオレの名前を呟く。さっきのオレの今は聞いて欲しいという言葉を守って、「そんな事ないです」と言いたいのをぐっと堪えているみたいだった。一花ちゃんが素直でつくづく良かったと思う。お陰でオレの伝えたい事、全部脱線せずに伝える事が出来そうだ。


「最初は……いや、ぶっちゃけ言うと、ついさっきまでこうするしか無かったって思ってた。けどどんどん調子悪くなるし、全然タイム伸びねーし……それで、やっと気付いたんだ」


オレには努力する事しかない。才能だって無いしセンスも無い。今ひたすら登っているのだって、巻島さんに言われたからっていうのがデカい。
キャプテンとしてだって、金城さんに比べたら何もかもが劣っているだろうよ。今だって先輩たちが抜けてから後輩が実力不足を不安に思っている事も気付いてる。この部を引っ張るのはオレがやりたいからだと言い聞かせちゃいるけど、ふとした時に投げ出せたらと思っちまう事もあるし。

けど……それでも、どんなにカッコ悪くても踏ん張る事が出来ているのは、いつだって見ていてくれた一花ちゃんがいたからだ。


「どんな辛い時だって耐えられたのは、一花ちゃんが支えてくれたからだ。だから……どんなにカッコ悪くても、泥臭くて情けなくても……見ていて欲しいんだ。一花ちゃんに、オレの努力してるところを」


本当は一花ちゃんから目を逸らしてしまいたくなる程恥ずかしくてたまらない。顔がめちゃくちゃあっちぃし、今きっと酷い顔してんだろうな。だけどここで一花ちゃんから目を背ける方がカッコ悪い。オレは今日まで彼女から目を背けてきたんだから。

もう決めたんだ、絶対に一花ちゃんから目を離さないって。


「わ、たし……手嶋さんの力になれてたんですか…?迷惑、じゃないですか…?」
「すげー力もらってたし、ちっとも迷惑なんかじゃなかったよ」
「けど…手嶋さんに過去の話したり、お兄ちゃんとの喧嘩に巻き込んじゃったり…文化祭の時だって、私すごい手嶋さんに迷惑かけちゃって……」
「全部迷惑だなんて思ってねぇし……寧ろ嬉しかった。オレの事頼りにしてくれてんだなって、さ」
「…じゃあ、私…これからも手嶋さんの事、見ていて……いいんですか…っ?」


一花ちゃんの大きな目に涙が滲んで、ぽろぽろと溢れて赤くなっている頬を伝って真っ白なベッドを濡らした。とうとう泣かせちまったか…けどこの涙はさっきまで彼女が必死で堪えていた物とは全く違う涙だろう。


「オレはきっと来年まで部の事、自転車の事ばかりで恋人っぽい事なんもしてやれないと思う。本当自分勝手で申し訳ねぇって思うけど……」


ずっとシーツをぎゅっと握りしめていた、自身の涙で少し濡れている小さな手に自分の手を重ねた。こうしてこの手に触れるのは夏祭りの時以来だったか、相変わらず華奢で女の子らしい手だ。


「どうか、これからもオレの事を見ていて欲しい。誰よりも、一番近くで」


何もできないのに見ていて欲しいだなんてホントに勝手で、酷い告白の言葉だと思う。けど、一花ちゃんにならこの言葉が本当の意味で伝わるはずだ。

それからほんの少しだけ間を置いて、一花ちゃんの手に重ねていた手の上に彼女のもう片方の手がそっと重ねられる。


「……私、手嶋さんの頑張る姿が大好きです。手嶋さんのその姿に感動して、憧れて…私も今出来る事を一生懸命やろう、前に進みたいって…そう思ったんです。そんな私を変えてくれて、支えになってくれた人を、ずっと応援していけたらって……思ってました」


今なら素直に思える。オレは一花ちゃんの支えになれていたんだ…って。
いつだって彼女は真っ直ぐにオレを見て、キラキラとした目で伝えてくれる。前にもこんな目でオレの走りが好きだって、今の自分があるのはオレのおかげだって伝えてくれていたのにそれを忘れて信じられなくなっていただなんて…何度も言うが、本当にオレは馬鹿だった。


「こんな私ですけど…これからも手嶋さんの頑張る姿を見せて下さい。一番近くで…応援させて下さい」


にこりと眩しい顔で笑う一花ちゃんを見るのは一体いつ振りだろうか。やっぱりオレはこの笑顔がたまらなく好きだ。いや、この笑顔だけじゃない…いつだってあったかくて優しい太陽みたいな一花ちゃんの事が大好きで、愛おしい。

胸の奥から込み上げてくる想いに突き動かされるように、腕の中に彼女を閉じ込めると驚いたような少し間の抜けた声が耳元で聞こえた。


「て、ててて手嶋さん…!?」
「あー…ヤッベェ、今多分人生で一番嬉しいわ……」


告白する時ほどドキドキする瞬間は無いと思っていたけど、さっきよりもずっと鼓動がうるさいし、なかなか落ち着いてもくれそうにない。もっとスマートに決めたかったのになと思ったけど、抱き締めている一花ちゃんから伝わる鼓動もオレと同じくらいにうるさい。


「……私も、今すっごく幸せです」


背中に感じる温かい温度。きっと一花ちゃんの両手が回されたんだろう。

腕の中に閉じ込めている一花ちゃんは、思っていた以上に細くて小柄だ。けど……オレにはもうそれ以上に大きくて大切な存在。オレがこんな事を思う資格は無いのかもしれないが、離したくねぇな…と思ってしまう。


「好きだ……いや、大好きだよ。一花ちゃん」
「私も……大好きです。手嶋さん」


…ところで、忘れていた訳じゃねぇけど……オレこの後部活行かなくちゃいけないんだよな。

こんな緩んだままの顔で行ったら、他の奴らに何言われっかな…。




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