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何日か前からあんまり寝付けなくなった。
いつもなら布団に入って三分もしない内に寝ているのに、どれだけ目を瞑っていても眠る事ができなかった。ようやく寝れても三十分もしない内に目が覚めてしまって……ずっとそれの繰り返しでいつも目の下に隈を作った状態で学校に向かっていた。
ただでさえ今部は三年生が抜けてしまって大変なんだから、放課後の部活はしっかりやらなくちゃって思って、退屈な授業を子守唄代わりにこっそり居眠りしたり、お昼休みにご飯を食べた後は残りの時間は自分の席で寝たりしてどうにか少しずつ睡眠時間を稼いだおかげで部活での仕事はなんとかこなせていた。
けどやっぱり夜布団で寝付けないのはなかなかしんどくて……とうとう今日は朝から体が重くてだるくて、体温計を使わなくてもこれは熱があるってわかってしまった。幸いなのか喉の痛みや咳とかは全く無くて、風邪とかでは無さそうだからよかった。きっとここ数年でよく出るようになってしまった疲れからくる熱だろう。

休むべきかなと思ったけど、今日は備品の補充がたくさん届く日だったことを思い出した。それを部室に運び入れたり仕分けたりするのを幹ちゃん一人にやらせる訳にはいかないって思って、ふらつく体をどうにか持たせて登校した。
部活の時間まではいつもみたいに授業中にぐっすり寝たりしていたら、放課後には朝に比べて多少は体の重みが取れていて、なんとか部活に向かう事が出来た。


幹ちゃんと運動着に着替えて部室に向かうと、そこにいたのはお兄ちゃんと小野田くんたち同級生のみんなだけで、手嶋さんの姿はなかった。今日は定期的にある部長会議の日で、それに出ている手嶋さんは今日はみんなより遅れて練習に参加する。
三年生が抜けてしまって、これからもっと練習が必要になって来る時にどうして会議なんか……と思ったけど、手嶋さんがここにいない事にホッとしてしまっている自分がいた。

記録を見ている限りでは手嶋さんの落ちていたタイムは徐々に戻りつつある。調子を取り戻してきたみたいで本当に良かった。だけど、私の罪悪感は全く消えることはなく募るばかりだった。
私が告白なんかしようとしなければ、彼が調子を狂わせる事は無かっただろうしその間にもっと速くなれていたかもしれない。私が邪魔をしてしまったんだ…そう考えると……消えてしまいたい気持ちでいっぱいになる。

それに数日前、多分田所さんの卒業レースのクリテリウムが終わった辺りから、なんだか前より手嶋さんとの距離が空いてしまっている気がした。告白した以外に何も心当たりはないけど、知らない間に何かしてしまって今度こそ嫌われてしまったのかなって思って…手嶋さんと顔を合わせるのが怖かった。
部活で彼に会うのが楽しみで仕方なかったのに、会うのが怖いって思ってしまう日が来るだなんて考えた事もなかった。

私は手嶋さんとは友人以下の存在…ただ親友の妹とか、同じ部活の人間っていうだけの関係になったとしても、ただ彼の走りを応援出来ればそれでいいって思っていた。私が前を向けるきっかけをくれた人の走りを遠くからでも見る事ができたら…って、そう思っていた。

でも、それすら手嶋さんにとって迷惑になってしまうのかもしれない。
そうなんだとしたら…私はもうこの部を辞めた方がいいのかもしれない。

お兄ちゃんが言っていた私のサポートには助けられている、っていう言葉を信じたいけど、今の手嶋さんの様子を見ていたらそんな事やっぱり思えなくて。
そんな事をこの数日ずっとぐるぐると考え続けていたら、うまく寝る事が出来なくなってしまった。


「一花ちゃん、そろそろ荷物取りに行こっか」


みんながそれぞれ練習に出るのを見送ってから、幹ちゃんは笑顔で私にそう言う。そうだね、って私も笑顔で返事をするけど、上手く笑えていたのかはわからない。

部室を二人で出て校舎内に入って、届いている荷物を監督から受け取った。少し重たいけど、どうにか部室まで運べる重さだ。あとは、フラついて転ばないように気をつけなくちゃ。


「そういえば、一花ちゃん」


幹ちゃんとお互い一つずつ重たい段ボールを抱えて廊下を進んでいる途中、幹ちゃんがニコニコしながら話しかけてきた。これ結構重たいのに幹ちゃんの顔色はいつも通りだ。もしかしたら、普段お店でこの程度の物は運び慣れているのかもしれない。


「…ん?なに?」
「自転車の話、どう?」


幹ちゃんが言ってるのは、私のロードの話。
前に通司さんの所に持って行った私のボロボロの愛車は結局直す事が不可能だった。けどロードにまたもう一度乗りたいっていう気持ちまで諦める事は出来なくて。
そんな私の気持ちを察してくれた通司さんは「もし新車を買うなら、色々サービスしてやる」と持ちかけてくれた。当然高校生の私一人じゃその場で「買います!」って言える訳がなくて、返したのは「両親に相談してみます」という返事。
幹ちゃんはそれからどうなったのかを気にしてくれているみたいだ。


「…うん……やっぱり、お父さんもお母さんもあんまりいい反応じゃなかった」


熱とだるさでぼうっとする頭でなんとかそう答えると、「そっか…」と幹ちゃんはしょんぼりとした顔をする。
いくら安いメーカー、車種でもロードバイクは軽率に手が出せる値段じゃない。欲しいって言ってもそう簡単にどうにかしてもらえる物じゃないって知ってる。前の愛車を買ってもらう時も相当駄々こねたし……。それに私は一度怪我もしてしまってるから、余計に両親の反応は良くなかった。お兄ちゃんはこの事に関しては何も言ってこないし、多分自分の介入出来る事じゃないって思っているんだろう。

それでもなんとか色々と説得を試みてはみたけど、二人で相談するといって保留にされてしまった。いや、相談するとだけ言ってもらえただけでも良かった。


「でも前向きに考えようよ!そうそう、この間一花ちゃんに合いそうなフレームも入ってきたんだよ!」


重たい段ボールを抱えながら幹ちゃんは楽しそうに話してくれる。そのフレームの事とか色々本当はじっくりと聞かせて欲しいのに、段々とぼーっとしてクラクラしてくる私の頭。それに突然抱えてる段ボールの重さが増えたような……どうしてだろう、私の知らない間に幹ちゃん何か乗せた?

そんな事を考えていたら、今度は視界がぐらりと気持ち悪く歪んだ。


「一花ちゃん!?」


幹ちゃんの焦る声とドサっと段ボールの落ちる音がぼんやりと聞こえて、床が近付いてくる。「あ、これはマズイ」と確信したけど……どうやら、もう遅かったみたい。







総北を受験する時、今みたいに眠れなくて体調を壊した事がある。
あの時は眠くて眠くて仕方なかったけど、もっと勉強頑張らなくちゃって思って連日夜ふかしをしていた。そしたら案の定無理が募って熱を出して寝込んだ。
あの時はお母さんに怒られたっけなぁ……「一花は体調崩しやすいんだから寝不足はダメでしょ」って。
そういえばこの間もっと手嶋さんとお兄ちゃんの力になりたくて、二人の走りや記録を分析する為に夜ふかしをした時も熱を出して怒られたっけ。きっと今回も怒られてしまうだろうけど、何て言えばいいんだろう。寝付けなくて、って言ったらもしかしたら睡眠外来とかに連れて行かれてしまうかもしれない。嫌だなぁ、私病院は嫌いなのに。もしそうなってしまいそうだったら、お兄ちゃんに助けを求めてみようかな。

ああそう……お兄ちゃんといえば、昔から私が熱を出したら必ずやってくれる事がある。本人は私が寝ていて気が付いてないと思っているかもしれないけど、実はちゃーんと気が付いている。というかそれに起こされている。
そんなに特別な事じゃない……ただ寝ている私の額にそっと掌をあててくれる、熱を測る時によくやるアレ。誰でもやるような事だけど、お兄ちゃんにしてもらうのは子供の時から好きだった。
子供の時はぷにっと柔らかい掌も、高校生になった今は男の人らしい手になって少しゴツゴツしている。けど体温は昔から変わっていない。熱くもなく冷たくもない、そんなお兄ちゃんの掌が心地よかったし、安心した。

今も、ぼんやりする意識の中でおでこにその心地いい温度を感じる。
でも何だか不思議。お兄ちゃんの手って、こんなに心地よかったっけ…?なんだか優しくて、いつもより安心するような…。


「んん……おにい、ちゃん……?」


まだ重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、視界に真っ先に映ったのは深い紫色で……すごく綺麗な色。まるで手嶋さんの髪の色みたいだ。


「…あー…一花ちゃん…?…ワリ、起こしちゃった…?」


あれ、お兄ちゃん私のこと「ちゃん」付けで呼んだことなんてあったっけ?っていうか、この声はお兄ちゃんの声じゃない。心地のいい綺麗な声。これは……


「え!?て、手嶋さん……!?」


ようやく焦点のしっかりしてきた視界にはっきりと飛び込んできたのは、お兄ちゃんじゃなくて、私を上から覗き込むようにして手を私の額に伸ばしている制服姿の手嶋さんだった。
驚いてつい勢いよく上半身を起こすと、「おわ!」っていう手嶋さんの驚いた声が聞こえた。当然額にあった感触も消える。


「な、何で手嶋さんが…?ていうか、私なんで……」


何が何だかよくわからない。視界に写る白いベッド…これは保健室の物かな、その上に寝ているし、ていうか何で保健室にいるんだろう。確か幹ちゃんと荷物を運んでて…それで……


「倒れたんだよ、一花ちゃん」


それでお兄ちゃんが保健室まで運んでくれたんだと。
ぐるぐると混乱中の私に、困ったように眉を下げて笑いながら手嶋さんが教えてくれる。ああそっか…あの時、私倒れたんだ。
そう自分の状況がわかった途端、次に浮かぶのはどうして手嶋さんがここにいるのかということ。


「どうして手嶋さんが保健室に……?あ、もしかして体調悪いとか、怪我したとか…!?」


保健室にくる理由なんてそれしかないだろう。まだ制服姿ってことは具合が悪いのかもしれない。いや、もしかしたら部活に向かう途中でどこか怪我してしまった可能性だってある。それだったら大変だし…すごく心配だ。寝てる場合なんかじゃない。
急いでベッドから降りようとしたけど、また視界が歪んで頭がクラッとして体が揺れて手嶋さんの焦る声が聞こえた。


「急に起きたらあぶねーって」


ふらつく私を支えてくれようとしたのか、さっきよりも手嶋さんの顔が近くで見える。…彼の顔をこんなに近くで見るのはいつ振りだろう。
「すみません」と謝ってもう一度ベッドの上に座り直す。


「オレはどこも悪くないから大丈夫だよ。一花ちゃんが倒れたって聞いて来たんだ」
「あ…そうだったんですか……よかった…」
「具合は平気か?って…まだ全然顔色悪りぃし、平気じゃねーな」


手嶋さんはベッドの隣に置かれた丸椅子に腰掛け直して、また眉をハの字にしたこまったような表情を浮かべる。手嶋さんのこの表情を向けられるのも、なんだか物凄く久々な気がする。というか、こうやってまともに言葉を交わすのもいつ以来だろう。


「でも…さっきよりはかなり楽になりました」
「そっか、それなら良かった」


倒れたおかげで少しでも眠れたせいか、少しだけ体の怠さがマシになっている気がする。多分熱も少し下がっていると思う。
でもその代わりに、今は胸が苦しくて堪らない。

私の様子を見に来てくれた事は、例えキャプテンとしての仕事の一部だったとしても気にかけてくれた事がとても嬉しい。
でもそれ以上に、すごく申し訳ない。また私が手嶋さんの大切な練習時間を奪ってしまった。今日はただでさえ会議で練習時間が削られてるっていうのに…やっぱり今日は大人しく家で寝ていなくちゃダメだったな……本当にバカだ。ううん、バカっていう言葉じゃ足りない位自分が嫌になる。そう思うとまた罪悪感でぎゅうっと胸の奥が握りつぶされているみたいに苦しくなった。


「あの……ごめんなさい…大事な練習時間なのに…本当に、すみません」


どうしようもなく不甲斐ない自分が許せなくて、思わず爪を食い込ませるように両手をぎゅっと握り込んだ。
手嶋さんにとって一分一秒が大切だってことはよく理解しているつもりだったのに。力になりたい、サポートしたい、応援したいってずっと思っていたくせに結局私は彼に迷惑ばかりかけてしまっている。

…峰ヶ山で号泣してしまった時も、お兄ちゃんと喧嘩した時も、しつこい彼に付き纏われた時も……今も。
私は優しい手嶋さんに甘えていてしまっていた。私ばかりが彼に助けられて、支えてもらってて、それなのに私は彼の助けになれるような事は何もできていない。そればかりか大切な時間を私は奪ってしまっていた。やっぱり私が支えになれていただなんて、到底思えない。

本当に本当に、こんな自分が許せなくて嫌になる。


「本当に、私…手嶋さんに迷惑かけてばかりで……ごめんなさい…」


見つめていた自分の手元がじわりと滲む。泣きたくなんかないのに、手嶋さんの前だとどうしてこんなに泣き虫になっちゃうんだろう。こんなみっともない姿を見せたくないし泣いたってただ手嶋さんを余計に困らせてしまうだけなのに。


「一花ちゃん、それは」
「私は全然大丈夫ですから…!手嶋さんは気にせず…練習に行って下さい」


何かを言おうとした手嶋さんの言葉を遮って、涙が滲んでいるのを隠す為になんとか笑顔を作る。こんなのきっと手嶋さんには無意味で、泣きそうなのも無理に笑っているのだってバレてしまっているんだろう。それでも…どうかもう私の為に大切な時間を割かないでほしくて。


「……っ」


早く練習に向かって欲しいのに、手嶋さんは座ったまま立ち上がる気配がない。しかもどうしてか何か思い詰めているような、苦しそうな顔で……また私は何か迷惑になるような事を口にしてしまったのかと、恐る恐るどうしたのかと口を開きかけた時、ガタンと音を立てて手嶋さんが立ち上がった。
やっと練習に向かうのかなとホッとしたけど、それはたった一瞬だった。


「やっぱ、このままじゃだめだ」


ぽつりと呟いて立ち上がった手嶋さんは、私から遠ざかるどころか……私との距離を詰めるようにベッドの上に座り直してきた。一体どうしたのか、何がだめなのかわからなくて。ただ真剣な顔をこちらに向ける手嶋さんの事を、呆然と見つめるしか出来なかった。


「ごめん、一花ちゃん。やっぱオレの気持ち、ちゃんと伝えるべきだった」



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