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無事に田所さんの引退レースでもある湾岸クリテリウムが終わり、頻繁に顔を出してくれていた三年生はこれで正式に自転車競技部を引退した。受験勉強の合間に顔を出してくれたりはするだろうけど、アドバイスを求める事はもう出来ないと思うべきだろう。
三年生がいなくなる事で浮き彫りになってくるであろうチームの課題、それからオレ個人の課題。それを一つ一つクリアしていかなくちゃならない。本当に大変なのはきっとこれからだ。

尚更、部活以外の事で悩んでいられなくなる。

これから先の事を考えるだけでもいっぱいいっぱいだっていうのに、部費の事や諸々の雑務、それから定期的に行われる各部の部長会議で発表する活動報告や目標の内容のまとめを考えたりもしなくちゃいけない。
そして、その内容を発表する為に設けられた放課後の部長会議。それが正に今日だ。
その会議は部活の時間に食い込むから、必然的にオレは練習に遅れて参加することになる。当然チーム揃っての練習も出来ないから、こういう日は副キャプテンの青八木に仕切りを任せて自主練になる。

今日は少し長引いたその部長会議がようやく終わって、足早に部室へ向かう。
部室横ではローラーを回しながらいつものように喧嘩する鳴子と今泉がいて、声をかけてみたが喧嘩に夢中になっていて気が付いてもらえなかった。キャプテンを無視すんなよと思ったが着替えてからもう一度声かける事にして、一先ず部室の扉を開けた。
いつもなら二人のマネージャーのうち、大抵どちらかが補給の準備や備品の確認をしてくれているが、今日は二人とも不在で部室内は誰もいなかった。ああ、そういえば今日は備品の補充が届くって言ってたな。それを取りに行ってくれているのかもしれない。

正直、良かったと思ってしまった。
今一花ちゃんと二人きりになったら……少し気まずい。

あの文化祭以降、彼女とは相変わらず必要最低限の会話しか交わしていない。ようやくこの距離感にも慣れてきて、側から見れば完全にキャプテンとマネージャーだけの関係にしか見えないだろう。

だというのに、この間のクリテリウムの時に会った河村さんから聞いた中学時代の一花ちゃんの話を度々思い出してしまう。


『きっとアイツには手嶋くんみたいなヤツが必要だからさ』


この言葉があれ以来何度も頭の中でリフレインしている。
そんな訳ないだろとその度に否定しても、どうしてもほんの一瞬でも「もしかしたら」と考え始めてしまう自分がいる。全く毎回それを振り払うのも一苦労なんだからいい加減にして欲しいわオレの頭。


(逆なら、否定できねぇなって思うんだけどな)


徐々に調子は戻ってきているけど、相変わらず記録は伸び悩んでいる。一花ちゃんが見ていてくれた時は劇的ではなくても少しずつ伸びていたし、なんなら体のコンディションもよかった。
だから尚更ダメなんだ。好きな子が側にいてくれるからとかそんな理由で調子を左右されてちゃこれから先やっていけんのかよって……そうわかっているのに、頭とは裏腹になかなか消えてくれない一花ちゃんへの気持ち。

こんなんじゃダメだと自分に言い聞かせながら、脱いだブレザーをロッカーの中に掛けた。
それとほぼ同時にゴンゴンとノックされる部室の扉。入っていいと返事をすると勢いよく扉が開かれて、息を切らせて何やら只事ではなさそうな様子の寒咲がいた。


「よかった…!手嶋さんいた…!」
「わりぃな、色々質問責めに合って遅れちまって。なんかトラブルか?」


今の寒咲の様子もだが、その手には取りに行ってくれていたであろう物が見当たらない。また配送のトラブルか何かあったんだろうか。


「じつは…一花ちゃんが倒れちゃって…!」
「……え?」


寒咲の言葉に、何かで殴られたみたいな衝撃を覚えて、途端に動悸がして全身が騒つくような感覚が走る。


「朝から熱があったみたいなんです。届いた荷物を運んでる途中で急に……」


朝から体調悪かっただなんて気が付きもしなかった。例え心配かけたくないから隠そうとしてたって一花ちゃんはわかりやすい。体調が悪い事なんてすぐに気が付くのに……!
…気が付けるはずもねぇよな。河村さんと話してから、無意識に視界に彼女を収めようとする自分にダメだと頭の中で言い聞かせて、見ないようにしていた。だから気が付かなかったんだ。


「…今一花ちゃんはどこに?」
「青八木さんが運んで下さって、保健室にいます」
「わかった。しばらく今泉と鳴子に頼むって伝えておいてくれ」
「わかりました!」


寒咲が頷くのを確認してから部室を飛び出して、一花ちゃんがいるはずの保健室へと走り出したのは殆ど衝動的にだったと思う。さっきまでいた校舎内にもう一度入って、雑にスニーカーを脱いで上履きに履き替えずに廊下を走った。
その途中で途端に冷静になり始めて「行ってどうする」という言葉が頭に浮かぶ。

オレが行って、何になる。兄貴の青八木が一緒なんだから何も心配する事ないだろ。一花ちゃんだってこんな時にオレの顔を見たくないと思っているかもしれない。そう思うと自然と走る速度が落ちる。ここは青八木に任せて部室に戻るべきなのかもしれないという考えも浮かんでくる。

だけど結局保健室へ向かう足が止まる事はなく、オレは保健室の扉の前にいた。

もうここまで来たら、中に入るべきだろう。部員の様子を確認するのもキャプテンの仕事だし、青八木にもこれからどうすんのかとか、状況確認したりしなきゃだし……と頭の中で自分に都合のいい理由を聞かせて扉を開けた。

薬品の匂いとか独特な匂いを纏う保健室の中は、しんと静まり返っている。
一瞬誰もいないのかと思ったが二つあるうちのベッドの一つにカーテンが引かれていた。きっとそこに兄妹が居るんだろうとゆっくりと足を進めると、オレが声を掛けるよりも先に静かにカーテンが開いて黄色いジャージ姿の青八木が顔を覗かせた。


「…来ると思った」
「……部員の体調を確認すんのも、オレの仕事だからな」


なんて最もらしい事を言ったが、本当は……ただ一花ちゃんの事が心配だった。
きっとそんな事、青八木にはバレてしまってるんだろう。薄く笑った顔がその証拠だ。


「一花ちゃんは?」
「今は寝てる。熱もそんなに高くない」


青八木が静かにカーテンを開くと、ベッドの上で肩までしっかりと掛け布団を被った一花ちゃんの寝顔が見える。そんな簡単に妹の寝顔晒すなよと思ったけど、それよりも彼女の顔色の悪さが心配になる。


「…そんなに心配しなくていい。疲れが溜まるとたまにこうなる」
「疲れ…って、何かあったのか?」


一花ちゃん本人から少し聞いたことがある。『怪我のせいか、前より体調崩しやすくなった』と。前にもそれで休んだ事があった。その時は寝不足が原因だったって青八木から聞いたけど…もしかして今回もあまり寝れてなかったんだろうか。


「最近、寝つきが良くないって言っていた。それ以外は知らないけど…考え事はしていた」
「…そっか……」
「それと、お前のことを心配していた」


思わず間抜けな声で返事をした。


「体調が悪いんじゃないか、何か悩みがあるんじゃないかって…思い詰めた顔で聞いてきた」


…もしかして、オレの調子が悪いのを自分のせいだと思ってたのか?文化祭でオレに気持ちを伝えようとしてしまったから…?
決してそれは一花ちゃんのせいじゃない。今は彼女の気持ちに応えられないとわかっていたくせに、うだうだと引きずって勝手に調子を悪くしただけだ。しかも彼女への気持ちを断ち切れずに突き放して……ああ、これ、一花ちゃんが倒れたのはきっとオレが原因だ。
そう思った途端にズシンと体が重たく感じた。マジ最低だわオレ。
唇を思わず噛み締めてしまったのを青八木に見せたくなくて、視線を床に落とすと青八木が息を吐く音が聞こえた。


「純太」


顔を上げて青八木を見ると、シャープな目が真っ直ぐにオレに向けられていた。まるで「いい加減にしろ」とでも言いたそうに。


「自分のせいで一花が体調を崩したと思っているのか」
「…そうだよ。オレの調子が悪かったの、一花ちゃんはきっと自分のせいだって悩んじまったんだろ?んなの……全部オレが悪ぃのにさ」


眉を下げて、自嘲するように言えば青八木はまた深く溜息をついた。それから刻まれる眉間の皺。こいつがオレにこんな顔を向けて来ることは滅多にない。あるとすれば、何が食いたいかで揉めた時くらいだ。


「…そうだな。純太のせいだ」
「だろ…?だからさ、」
「けど、一花も悪い」


普段無口な青八木がオレの言葉を遮って喋ることも、滅多にない事だ。しかもこんなに強めの口調で。


「オレには恋愛の事はよくわからない。けど、お前達の事はわかっているつもりだ」


珍しく長く話す青八木の言葉の続きを、オレは何も言わずに聞いた。普段は逆だからなんだか不思議だけど今はそんな事言っていられない程、青八木が放つ空気がヒリヒリしている気がした。


「……二人ともバカだ」
「はぁ?…バ、バカってなんだよそりゃ!」
「二人揃って何もわかっていない」


青八木に『バカ』だなんて言われたのは記憶している限りじゃ多分初めてじゃないか。しかもこんな青八木にしては珍しい苛立ったような口調で。
しかもわかってないって……どういう事だと思っていると青八木は呆れたような目をオレに向けていた。


「お前は、一花の事が好きなんだろ」
「それは……そう、だけどよ…」
「なら、どうして一花の気持ちに応えてやらないんだ」


青八木には一花ちゃんが告白しそうになった事も、オレがそれを拒絶して遠ざけた事も話していないはずだ。一花ちゃんもそれをいくら兄貴とは言え…いや兄貴になら尚更話せないだろう。っつー事はやっぱり気が付いてたのか。


「どうして…って、そりゃそうだろ!お前だってわかんだろ!先輩達がいなくなったこれからの事考えなきゃいけねーし、ますますインハイの事見据えてかなきゃいけねーだろ!何よりオレ自身もっと強くなんなきゃいけない……今一花ちゃんと付き合ったって、オレは何もしてやれない、一番に考える事が出来ないんだぞ!」


つい声を張り上げてしまった。言い終えてからしまったと思って、寝ている一花ちゃんを起こしてしまってないかと確認してみると相変わらずぐっすりと眠っていて胸を撫で下ろした。
…青八木のやつ、オレと一花ちゃんに何があったのかは何も言わなくても分かるくせに、どうしてこれがわかんねーんだよ…。


「…何より、きっとオレがダメになっちまう。一花ちゃんの優しさに甘えて、全部諦めちまいそうで……怖いんだよ」


声が震えちまっている。なんて情けない声だ。もっと情けない事に目の奥が少し熱くなって少し視界が滲む。今のオレの姿を見ているのが青八木で良かったと思うけど、今はこいつの真っ直ぐな視線が痛くて目を逸らした。


「…それの何が問題なんだ」
「は!?だから、一花ちゃんの事きっと大事にしてやれねーし、オレもダメになるって…」
「純太」


今日だけで青八木のこんな強い口調、何度聞いただろうか。そしてこの睨むようなこの顔も。


「オレの妹を、見くびるな」


思わず体がピタリと硬直して、何も言葉を返す事ができなかった。


「一花はお前の走りを見ている時が一番楽しそうだった。部活にこんなに熱心になっていたのだって、お前が努力していたからだ。あいつがもう一度ロードに向き合う事が出来たのは……純太がいたからだ」
「……っ」


そんな事ない、いつものようにそう言いたいのに、オレの喉から出たのは言葉にもならない情けない音だけ。

青八木の言葉に胸の奥が抉られるみたいだった。
オレが一花ちゃんの支えになれている──前からあったその期待は彼女と距離が空いてしまった今でも、胸のどこかにあった。


「そんな一花が、自分の事を一番に考えてほしいだなんて言うと思うのか?」
「………」

一花ちゃんなら、ロードに必死になっていたってきっと寄り添ってくれる。そんな期待がずっと胸のどこかにあった。オレが走り続ける事が、彼女にしてやれる一番の事なんじゃないかって、そんな事をいつしかぼんやりと考えていた。だけどそんな都合いい事あるかよって否定していた。


「…お前にとっての一花も、同じなんだろ?」
「……それは…」


青八木が言いたいのは、オレが一花ちゃんの支えであるように、一花ちゃんもオレの支えなんだろって事だろう。
それは全く否定できない。一花ちゃんの応援とサポートに助けられたのはもう数えられない位だ。だからダメだっつーのに……何も言わずに顔を顰めて青八木の顔を見ると、薄く笑っているだけで何も言わなかった。いつも通りの無口に戻ってしまったみたいだ。


「…一花が目を覚ましたら、母さんが迎えに来るって伝えてくれ」


そう言って青八木はスタスタとオレを通り過ぎて保健室の扉に手をかけた。
いや伝えてくれって…オレにしばらくここにいろって事か…!?


「え、オイ青八木!どこ行くんだよ!?」
「……オレ達が二人揃って部を留守にするのはまずいだろ」
「いやそりゃそうだけど…一花ちゃんは?」
「だから、純太が付いててやってくれ」


その内目を覚ますだろうからと、さも当然のように青八木はさらっとそんな事を言ってオレとベッドの上の一花ちゃんを残してさっさと保健室から出て行ってしまった。


「…少し考えろ……って事かよ…」


溜息混じりにそう呟いても、当然ながら返事はない。

視線をベッドで眠る一花ちゃんに移す。相変わらずよく眠っている。こんなによく寝ていれば近くに行っても起きないだろうと踏んで、なるべく静かにベッドの横に置かれた、さっきまで青八木が座っていただろう丸椅子に腰掛ける。


「……」


一花ちゃんが眠っているのをいいことに、じっと彼女の寝顔を見つめる。

まさか、こんな形で彼女の顔を久々にしっかりと見るなんて。女の子の寝顔をまじまじと見るなんて良くないってわかっちゃいるけど、どうしても視線を外す事ができない。
いつもニコニコして血色のいい顔は青白い。青八木は熱は高くないって言ってたけど、それでも充分苦しそうだ。


「…一花ちゃん」


名前を呼んでも、相変わらず起きる気配はなさそうだ。それを確認してから、右手をそっと伸ばして彼女の滑らかな額にあてる。たしかに青八木の言っていた通り思ったよりも熱くはない。


「……ごめん、一花ちゃん」


オレのせいで、悩ませてしまって。

ぽつりとつぶやいた謝罪は、多分彼女の耳には届いていないだろう。




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