6
田所さんの引退レースである今日のクリテリウムは、田所さんをトップに鳴子と青八木で総北が表彰台を独占した。
来年を見据えた走りを…と何度も青八木と鳴子、それから杉元に伝えていたはずなのに、青八木と鳴子は杉元を集団に置いて練習中と同じく田所さんと競い、トップを狙って同じ学校同士で争う羽目になってしまっていた。まあ、こうなっちまう事は随分前から予想して諦めていた。

何はともあれ総北が表彰台を独占できた安心感、これで田所さんと一緒に走れる機会も殆ど無くなってしまうのかという涙が出そうになる寂しさ諸々を感じた表彰式も無事に終わり、三人がインタビューを受けている間に飲み物を買っておこうと寒咲さんのバンが停めてある駐車場から一番近くの自販機まで足を伸ばした。

ジャージのポケットから財布を取り出して、何を買おうかと自販機のラインナップを上から順に目を向ける。少し肌寒いし、今日はホットのミルクティーにしよう。
小銭を投入する為に手元の財布に目を向けると、持っていたのは普段使いしている財布じゃなくて…オレの愛車と同じカラーリングの黒と緑に、星のワンポイントの入った練習の時に使っている財布だった。そういや昨日練習で持っていってそのままで、入れ替えてくんのを忘れたんだった。

これを使い始めてから少し経つが、ほんの少しほつれている位であんまり汚れも目立たない。それもそうだ、これはずっと大切に使ってきた財布だ。これは、誕生日プレゼントとして一花ちゃんからもらった物だから。
最初はこれを見る度に嬉しくてニヤけたりして他の部員から変な目で見られた事もあったっけな。それから頑張ろうって気力を貰えたりして、オレにとって御守りみたいな物だった。
けど今は……これを目にする度に胸の奥が苦しくなる。


「ねえ、君」


聞き馴染みのない声に呼ばれて、咄嗟に顔を上げるとそこにいたのは見慣れない男だった。だがどこかで見た事あるような気がする顔だ。


「えーっと…オレすか?」
「そうだよ。久しぶりだなー!」


久しぶりって事はやっぱりどこかで会っているらしい。
このにこやかな笑顔とこの声……なんとなく覚えがあるような気がするが、記憶を辿ってもなかなか思い出す事が出来なくてつい首を傾けた。


「ほら、峰ヶ山で会っただろ!一花の先輩の河村だよ!」
「……あー!柏東の!」


漸く思い出した。そうだ、合宿が始まる前の峰ヶ山での練習の時に一花ちゃんの中学時代の先輩だというこの人に会ったんだ。あの時はこの人と一花ちゃんが話してて、段々一花ちゃんが泣きそうになってきていたから二人の間にオレが入って会話をやめさせた。たった一言言葉を交わしただけで名乗ってもないのに、まさかオレの事を覚えていたなんて。


「総北やっぱ強いなー。表彰台独占されちまうなんてな。ウチのエースの柳田も出てたけど、全然敵わなかったよ」
「はは…あの三人、自分が一位獲るって言って毎日すげー練習してましたから」
「ははは!そりゃ強いわけだな!」


正直オレはこの人にあんまりいい印象を持っていなかったが、嫌味なく笑っている姿には不快感を一切感じない。普通は優勝を掻っ攫っていった学校に対して多少なりとも剣幕な目を向けそうだけど……きっとこの人は裏表が無く誰に対してもこういう接し方なんだろう。そういや一花ちゃんがよく相談に乗ってもらってた、って言ってたっけ。


「いや……話したかったのはこの事じゃないんだ。君…えーと名前…」
「手嶋っていいます」
「その…手嶋くんにさ、一花の事頼むって言いたかったんだ」


もしかして一花ちゃんの事だろうかとなんとなく予想はしていたけど、頼むって一体どういう事なんだろうか。予想外のその言葉に思わずぱちぱちと瞬きを繰り返すと、河村さんはなんだかバツが悪そうに視線を落として頭を掻いた。


「あの時の峰ヶ山でさ、一花に無神経な事言っちまったなって思ってよ。あの後すぐ謝りに行こうとしたんだ。けど……驚いたよ、まさか一花が人前であんなに泣いてるなんて」


河村さんと一花ちゃんの会話を切り上げさせた後、オレは今にも泣き出しそうに笑っていた一花ちゃんとインターバルに入って、その時…事故でロードレースを続けられなくなった事を聞いた。それから河村さんの言う通り、一花ちゃんは堰を切ったように泣いた事もよく覚えているし、忘れる事もないだろう。この時にオレは彼女が好きだと自覚したんだから。
一花ちゃんが人に辛い所を見せたく無いんじゃないのかと薄っすらと気付いたのもその時だ。

中学の時…事故に遭った後の一花ちゃんは周りにどう振舞っていたのかという疑問が頭に浮かぶ。けどそれを知ってどうするんだ、勝手に彼女の過去を詮索するなんてだめだし、何より一花ちゃんの事をまた知ってしまったら、ますます好きだって気持ちを消す事が出来なくなってしまう。「ダメだ」、そう強く心の中で自分に言い聞かせて爪が食い込む位にぎゅっと拳を握った。


「アイツさ、事故の後、退院してから部員にこう言ったんだよ。『獲れなくて、すみませんでした』ってさ…頭まで下げて」


これ以上はやめてくれと念じていたのに、そんな思いは通じる事なく河村さんは一花ちゃんの事を話し始めてしまった。
お喋りだと言われるオレが言える事じゃねーだろうけど、この人本当にお喋りだな。こんなに人の事を喋ってたらいつかトラブルになるんじゃないかと少し心配になる。


「……一花ちゃんらしいすね」
「だよなあ。一番辛かったのは一花自身だろうに、そんな事全く言わずに謝ってばっかりで…」


その光景が目に浮かぶようだった。悔しいとか辛いとかそんな事は全部自分の中に押し留めて、功績を残すチャンスを逃してしまった事を謝り続けたんだろう。本当頑固で不器用っつーか……だからこそ、そんな彼女の事が放っておけないんだ。少しでもいいから肩の力を抜いてやりたい、安心出来る手助けをしたいって、そう思っちまう。


「けど、河村さんにはよく相談に乗ってもらってたって聞きましたよ」
「あー、まぁたしかに相談はよくされたけど、練習の事とかモチベの保ち方とか…そんなのばっかりだったよ」


河村さんは寂しそうに笑っている。一花ちゃんの事だからきっと頼りにしていた先輩にも弱音を吐かなかったんだろう。この人なら無理にでも彼女から本音を聞き出しそうな気がするが、一花ちゃん自身が聞かれても頑なに話したがらなかったのも予想がつく。多分こっちだろう。


「一花がまた自転車部に入部してるって知った時は嬉しかったよ。あいつ、ロード本当に好きだったし」
「はい…オレも、よかったって思います。ウチに入ってくれて。彼女には助けてもらってますし」


一花ちゃんを傷つけてしまったオレがこんな事を言うのはおかしいかもしれない。だけど、うちの部に入ってくれた事は本当によかったと思っている。彼女の応援のおかげでここまでやってこれたのは紛れもない事実だから。


「なんかきっかけがあったんだろうな、また自転車部に入ろうって思った。手嶋くんは知ってんのか?」
「…はい。彼女から聞いてますよ」


河村さんはそのきっかけを聞きたそうにうずうずしている。けど申し訳ないがこれを彼に話す気にはならなかった。


「すんません…これは内緒です」


一花ちゃんがまたロードに向き合いたいと思ったきっかけ…『オレと青八木の走りを見たから』っていう事は、誰にも話したくなかった。
一花ちゃんにとってデリケートな事を、中学の先輩だからといって勝手に喋ってはダメだろうし…それに、オレにこんな事を思う資格は無いかもしれないけど、一花ちゃんが堂々と笑顔でこの事を話せるようになるまではオレと青八木だけが知っていればいいと思った。


「そうか…まぁ、そうだよな。けどやっぱ、君には色々話してるんだな、一花」
「いや…なんつーか、オレの場合は成り行きだったっていうか……今思えば一花ちゃんも仕方なく話してくれたんじゃないかって思いますよ」
「…それは無いと思うぞ。今日だってレース中一花の事見かけたけど、熱心に応援して楽しそうだった。中学の時とは全然違う顔してたよ」


それはオレも知っている。必要最低限一花ちゃんを見ないように、とは思っていてもそう簡単には吹っ切る事が出来なくて、つい彼女を見てしまっていたから。
河村さんの言う通り、ゴール前で青八木にはもちろん田所さんと鳴子にも熱心に声援を飛ばす一花ちゃんは純粋に楽しそうだと思った。オレの知っているいつも通りレースを楽しむ彼女の姿だったけど…中学の頃とは全然違うってどういう事だろう。


「……聞いても、いいすか?」


知りたい。今度こそその気持ちが抑えきれなくて気が付けばぽつりと口から漏れてしまっていた。その直後にこれ以上一花ちゃんのことを知ってどうするんだとか、オレは内緒だっつったのに聞きたいだなんてそれはズリィよとか色んな事が頭に浮かぶ。咄嗟に「やっぱり何でもないす」と撤回しようとしたけど、それよりも早く河村さんが口を開いてしまった。


「確かに自転車は楽しんでたけど、なんか辛そうだったっつーか…今思えば、思い詰めていたような感じだったな。自転車辞めた後もなんか無理して笑ってたみたいだったし」


あまりにもあっさりと話してくれるもんだから少し驚いた。本人のいないところでこんなに聞いちまっていいのかと罪悪感を感じるわ…ただでさえ一花ちゃんには酷いことをしてしまったというのに。

そんな胸が痛むような感覚を感じながらも、脳裏にすっと浮かぶのはいつか一花ちゃんが話してくれた中学時代の話。『部唯一のクライマーでプレッシャーだった。練習はいつも一人だった』と……そう彼女は話してくれた。やっぱり、当時頼りにしていた先輩にすらそれを話していなかったんだな。


「ずっと後悔してたんだよ。強引にでも本音を聞いてやってたらアイツももっと自転車楽しめてたんじゃねーかなって」
「……なかなか頑固ですからね、一花ちゃん」
「はは、本当にな!だから余計嬉しかったよ、今日一花のあんなに楽しそうな姿を見れて。……やっぱ、手嶋くんのおかげだな」
「いや、そんな事ないですよ」


自分の事となるとすぐ否定するのは悪い癖だ、的な事を以前青八木に指摘されたのを直後に思い出した。というのもずっと笑顔だった河村さんの眉間に皺が寄って、突然睨まれたかと思いきや河村さんはオレとの距離を縮めてきたからだ。


「そんな事あるだろ!現にこんだけ一花の事わかってんだから!アイツが人に弱音を吐いたってだけで、オレにとっては充分驚きなんだよ」


捲し立てる勢いでそう言った河村さんはオレとの距離は少し近いまま、またニッとした笑顔を浮かべてボスンと音が出る程強く右肩を叩いてきた。思わずその痛みで声が出てしまったが、そんなのまるでお構いなしというように河村さんは「だからさ!」と続けた。


「これからも一花のこと、頼むよ!きっとアイツには手嶋くんみたいなヤツが必要だからさ」
「……ええ。一花ちゃんも大事な部員の一人ですから」


少し前なら、河村さんのこの言葉に浮かれていただろうな。一花ちゃんの中学時代を知る先輩からこんな事言われたら本当にそうかもしれないと思い込んでいただろう。
今は、そう思うなと必死に頭の中で自分に言い聞かせている。これからは一花ちゃんとはただの部活仲間という関係でいるのが、きっとお互いの為だから。


「それじゃ、オレはそろそろ失礼するよ」
「あ、あの、一花ちゃんには会って行かないんすか?」
「今日用があったのは手嶋くんだからな。それに、ウチの連中に総北のトコに行ってたなんて知れたらドヤされるわ!」


笑いながら言ってから、河村さんは今度こそ踵を返して「それじゃ!」と手を振ってオレの前から遠ざかって行った。


「やべ、オレも早く戻んねーと」


結局財布と小銭を手にしたままでミルクティーを買いそびれていた。急いで握りしめていた小銭を自販機に入れてホットミルクティーのボタンを押した。…が、ガコンと音を立てて取り出し口に落ちてきたのはその隣のホットコーヒーだった。しかもブラックだ。


「オイオイ…ブラックなんか飲めねーぞ?」


自販機で買い間違えなんか練習でクタクタになった時位でしかねーのに、何やってんだよオレは。今日はレースの応援してただけで走ってねーのに。どうやら、河村さんとの会話で思っている以上に平静を掻き乱されてしまったようだ。
やっぱり一花ちゃんの中学時代の事を聞かなければ良かった……そう後悔した。だけど同時に、それに反してまた彼女の事を知れて嬉しいと感じてしまっている自分がいる。


「しっかりしろよオレ」


…大して中身は入っていないはずなのに、手にしている財布がやたらと重く感じた。



79/96


|


BACK | HOME
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -